明史卷四十七 志第二十三 禮一

序――明朝の礼制編纂

  • 周官・儀禮は古くからあるが、書が欠け簡が脱けたため、因革の詳細はたどれない。漢の史書に禮志が立てられて以後は各代がこれに倣い、一代の制がはっきり考えられるようになった。
  • 歐陽氏は言う。三代以下は政治が二つに分かれて礼楽は虚名になったが、郊廟・朝廷から閭里・州黨に至るまで、その運用には見るべきものがあった。誠意をもって修明し講貫すれば上下に格り鬼神を感ぜしめ、教化はそこに成る。後世の礼が三代に追いつけないとどうして言えようか、と。
  • 明の太祖は天下を定めた当初、他の政務に手が回らないうちから、まず禮局・樂局の二局を開き、広く老儒を徴して部署を分け究討させた。
  • 洪武元年(1368年)、中書省・翰林院・太常寺に祀典の制定を命じた。彼らは沿革のいわれを歴(厯)叙し、郊社・宗廟の議を酌定して奉った。
  • 禮官と諸儒臣はさらに郊廟・山川等の儀と、古の帝王の祭祀で神明に感格し鑑戒とすべきものを編集し、『有心録』と名づけた。
  • 洪武二年(1369年)、諸儒臣に礼書の編修を詔し、翌年に成って『大明集禮』の名を賜った。この書は五禮に準え、さらに冠服・車輅・儀仗・鹵簿・字學・音樂を加え、昇降の儀節から制度・名數まで細大漏らさず備えている。
  • また議礼の臣、李善長・傅瓛・宋濂・詹同・陶安・劉基・魏觀・崔亮・牛諒・陶凱・朱升・樂韶鳳・李原名らにたびたび敕して編輯・集成させた。さらに郡縣に高潔博雅の士を挙げさせ、徐一夔・梁寅・周子諒・胡行簡・劉宗弼・董彞・蔡深・滕公琰が上京して共に礼書を修めた。
  • 在位三十余年の間の著書で今も確かめられるものは、『孝慈錄』『洪武禮制』『禮儀定式』『諸司職掌』『稽古定制』『國朝制作』『大禮要議』『皇朝禮制』『大明禮制』『洪武禮法』『禮制集要』『禮制節文』『太常集禮』『禮書』である。
  • 祀典の釐正では、天皇・太乙・六天・五帝の類をすべて革除し、諸神の封號もことごとく本来の呼称に改めて、いつわり飾る陋習を一洗した。その点は漢唐を遥かに越えている。
  • また國恤を定め、父母ともに斬衰とし、長子は期年に降ろした。正服・旁服は順を追って軽くし、古今を斟酌して中を得たといえる。
  • 永樂年間には『文公家禮』を天下に頒ち、巡狩・監國および經筵日講の制を定めた。後宮の殉死を廃したのは英宗に始まり、陵廟の嫡庶の別が正されたのは孝宗の時である。
  • 世宗に至って制礼作楽を自任し、その改定の大きなものとしては、天地の分祀、朝日・夕月を東西の郊に復すること、二祖の並配を罷めること、および祈穀・大雩・享先蠶・祭聖師、至聖先師の号への改称などがあり、いずれも古に折衷しえた。ただ衆議を排して睿宗を太廟に祔し武宗の上に躋らせたのだけは、本生に徇って大統に背くもので、明察に始まって偏愛に終わったというべきである。
  • 当時これに従い順応した臣はそれぞれ説を立てた。今に伝わるものでは、『明倫大典』は御製の序文を付して行われ、『禮儀成典』は李時らが敕を奉じて修め、『郊祀考議』は張孚敬が進めたものである。
  • 『大明會典』は孝宗朝に集纂され、礼制についてとくに詳しく、世宗・神宗の時にたびたび増益された。一代の成憲はおおむねここに具わっている。
  • 本志は五禮の順序に従って条を品式とし、時々の損益は類ごとに編入して沿革がわかるようにした。

志の構成

  • 壇壝之制/神位・祭器・玉帛・牲牢・祝冊の数/籩豆之實/祭祀雜議諸儀/祭祀日期/習儀/齋戒/遣官祭祀/分獻陪祀。

吉禮の総説

  • 五禮の第一が吉禮で、祀事はすべて太常寺が管轄し、禮部に属する。
  • 明初は圜丘・方澤・宗廟・社稷・朝日・夕月・先農を大祀とし、太嵗・星辰・風雲雷雨・嶽鎮海瀆・山川・歴代帝王・先師・旗纛・司中・司命・司民・司祿・夀星を中祀とし、その他の諸神を小祀とした。のちに先農・朝日・夕月を中祀に改めた。
  • 天子がみずから祀るのは天地・宗廟・社稷・山川。国に大事があれば官に命じて祭告させる。中祀・小祀はいずれも官を遣わして祭る。帝王の陵廟と孔子廟だけは制を伝えて特に使者を遣わす。
  • 毎年恒例の大祀は十三。正月上辛の祈穀、孟夏の大雩、季秋の大享、冬至の圜丘(いずれも昊天上帝を祭る)、夏至の方丘(皇地祗)、春分の東郊の朝日、秋分の西郊の夕月、四孟月と季冬の太廟の享(五度)、仲春・仲秋の上戊の太社・太稷。
  • 中祀は二十五。仲春・仲秋の上戊の翌日に帝社・帝稷、仲秋に太嵗・風雲雷雨・四季の月將および嶽鎮海瀆・山川・城隍、霜降の日に教場で旗纛、仲秋に城南の旗纛廟、仲春に先農、仲秋に山川壇で天神・地祗、仲春・仲秋に歴代帝王廟、春秋の仲月の上丁に先師孔子。
  • 小祀は八。孟春に司戸、孟夏に司竈、季夏に中霤、孟秋に司門、孟冬に司井、仲春に司馬の神、清明と十月朔に泰厲。さらに毎月の朔望に火雷の神を祭る。京師の十廟、南京の十五廟にも、それぞれ歳時に官を遣わして祭らせる。
  • 恒例ではなく折々に行うものとしては、新帝が耕耤して先農を享け、視学して釋奠を行う類がある。嘉靖の時に皇后が先蠶を享け高禖を祀ったのも、時に応じて特に挙げたものである。
  • 王國で祀るのは太廟・社稷・風雲雷雨・封内の山川・城隍・旗纛・五祀・厲壇。府州縣で祀るのは社稷・風雲雷雨・山川・厲壇・先師廟および所在地の帝王陵廟。各衞もまた先師を祭る。庶人も里社・穀神および祖父母・父母を祭り、あわせて竈を祀ることができる。これらは祀典に載っており、時に多少の改変はあってもその大要は動かなかった。
  • 壇壝の制、神位・祭器・玉帛・牲牢・祝冊の数、籩豆の実、酒齊の名については、彼此の異同を分析し初終の損益を訂して巻頭にまとめて掲げ、個々の条では簡略にした。漏れも重複も避けるためである。

壇壝之制

  • 明初、圜丘は正陽門外の鍾山の南に、方丘は太平門外の鍾山の北に建てた。
  • 圜丘の壇は二成。上成は広さ七丈、高さ八尺一寸、四方に出た階段は各九級で、正南は広さ九尺五寸、東西北は八尺一寸。下成は周囲の壇面が縦横とも広さ五丈、高さは上成と同じ、階段は皆九級で、正南は広さ一丈二尺五寸、東西北はそれより五寸五分減らす。敷石・欄干はすべて琉璃製。
  • 壝は壇から十五丈離れ高さ八尺一寸、四面に靈星門を置き、南は三門、東西北は各一門。外垣は壝から十五丈離れ、門の制は同じ。天下神祗壇は東門の外。神庫五楹は外垣の北に南向き、厨房五楹は外壇の東北に西向き、庫房五楹は南向き、宰牲房は三楹、天池が一つ、外側の庫房の北にある。執事の齋舍は壇の外垣の東南、坊二つは外門の外の横甬道の東西。燎壇は内壝の外の東南(丙の地)にあり、高さ九尺、広さ七尺、上を開いて南に戸を出す。
  • 方丘の壇も二成。上成は広さ六丈、高さ六尺、四方に階段があり南は一丈、東西北は八尺、いずれも八級。下成は四面各広さ二丈四尺、高さ六尺、階段は南が一丈二尺、東西北が一丈、いずれも八級。壝は壇から十五丈離れ高さ六尺、外垣は四面各六十四丈。その他の制は南郊と同じ。浴室と瘞坎は内壝の外の壬の地にある。
  • 洪武四年(1371年)、圜丘を改築。上成は広さ四丈五尺・高さ二尺五寸、下成は各面の広さ一丈六尺五寸・高さ四尺九寸、二成の通径は七丈八尺。壇から内壝牆までは四面各九丈八尺五寸、内壝牆から外壝牆までは南が十三丈九尺四寸、北が十一丈、東西が各十一丈七尺。
  • 同じく方丘は、上成が広さ二丈九尺四寸・高さ三尺九寸、下成が各面の広さ一丈五尺五寸・高さ三尺八寸、通径七丈四寸。壇から内壝牆までは四面とも八丈九尺五寸、内壝牆から外壝牆までは四面各八丈二尺。
  • 洪武十年(1377年)、合祀の典を改め定め、圜丘の旧制のまま屋根で覆って大祀殿と名づけた。全十二楹、中央の石臺に上帝と皇地祗の座を設け、東西の広さは三十二楹。正南の大祀門は六楹で歩廊によって殿廡とつながる。殿の後ろの天庫は六楹。瓦はすべて黄琉璃。厨庫は殿の東北、宰牲亭と井は厨の東北にあり、いずれも歩廊で通じる。両廡の後ろを囲牆でめぐらし、南に三洞の石門を設けて大祀門に達する。これを内壇という。外周の垣は九里三十歩、石門三洞。南に甬道三本を通し、中央が神道、左が御道、左が王道。道の両側のやや低い所は従官の場所。齋宫は外垣の内の西南にあって東向き。その後、殿の瓦を青琉璃に改めた。
  • 洪武二十一年(1388年)、壇壝を増修し、壇の後ろに松柏を植え、外壝の東南に池二十區を掘って、冬に氷を切り出して凌隂に蔵し、夏秋の祭祀に用いた。成祖が北京に遷都した際も、この制に倣った。
  • 嘉靖九年(1530年)、ふたたび分祀に改め、圜丘壇を正陽門外五里ばかり、大祀殿の南に、方澤壇を安定門外の東に建てた。
  • 圜丘は二成。壇面も欄も青琉璃、縁と角は白玉石。高さ広さの寸法はすべて祖制に従ったが、神路は以前より遠くなった。内門は四つ。南門の外に燎爐と毛血池、西南に望燎臺。外門も四つ。南門の外の左に具服臺、東門の外に神庫・神厨・祭器庫・宰牲亭、北門の外の真北に泰神殿があり、正殿に上帝と太祖の神主を、配殿に従祀の諸神の神主を蔵める。外側に四つの天門を建て、東を泰元、南を昭亨、西を廣利といい、さらに西に鑾駕庫、その西に犧牲所、その北に神樂觀、北の門を成貞という。北門の外の西北が齋宮、そこから西へ行くと壇門。壇の北にある旧来の天地壇が大祀殿である。嘉靖十七年(1538年)にこれを撤去し、泰神殿を皇穹宇と改称した。嘉靖二十四年(1545年)、旧大祀殿の跡地に大享殿を建てた。
  • 方澤も二成。壇面は黄琉璃、階段は九級に増やして白石を用い、周囲を方形の坎で囲む。内側の北門の外の西に瘞位、東に燈臺、南門の外に皇祗室、外の西門を出て西に神庫・神厨・宰牲亭・祭器庫、北門の外の西北に齋宮。さらに外側に四つの天門を建て、西門の外の北が鑾駕庫・遣官房・陪祀官房、その外が壇門、門の外が泰折街の牌坊。壇を護る地は千四百余畝。
  • 太社稷壇は宫城の西南にあり、東西に並び立つ。明初の建造で、広さ五丈、高さ五尺、四方の階段は各五級。壇の土は五色で方位に従い、上を黄土で覆う。二壇の間隔は五丈、壇の南にはいずれも松を植える。二壇は同一の壝の内にあり、壝は方三十丈、高さ五尺、磚を敷く。四門の飾りの色は方位に従う。周垣は四門で、南は靈星門三、北は㦸門五、東西は㦸門三、㦸門にはそれぞれ㦸二十四本を並べる。
  • 洪武十年、壇を午門の右に移し、社と稷を一つの壇にまとめて二成とした。上成は広さ五丈、下成は広さ五丈三尺、高さ五尺、外壝の高さ五尺、四面各十九丈あまり。外垣は東西六十六丈あまり、南北八十六丈あまり。垣の北に三門、門の外が祭殿、その北が拜殿、さらに外に三門、垣の東・西・南に門が各一つ。永樂年間に北京に壇を建てた際もこの制に倣った。
  • 帝社稷壇は西苑にある。壇の基は高さ六寸、方二丈五尺、細磚を敷いて浄土を詰める。壇の北に二つの坊を建て「社街」と称した。
  • 王國の社稷壇は高さ・広さを太社稷より十分の三減じ、府州縣の社稷壇は広さを十分の五、高さを十分の四減じ、階段は三級。のちにいずれも京師と同じく同壇合祭と定められた。
  • 朝日・夕月壇は洪武三年(1370年)の建造。朝日壇は高さ八尺、夕月壇は高さ六尺、いずれも方四丈、壝は二重で各二十五歩。洪武二十一年に廃止。嘉靖九年に再建され、壇はそれぞれ一成、朝日壇は紅琉璃、夕月壇は白を用い、階段は朝日壇が九級、夕月壇が六級、いずれも白石。それぞれ天門を二つ建てた。
  • 先農壇は高さ五尺、広さ五丈、四方に階段。御耕耤位は高さ三尺、広さ二丈五尺、四方に階段。
  • 山川壇は洪武九年(1376年)の建造。正殿・拜殿が各八楹、東西の廡が二十四楹、西南に先農壇、東南に具服殿、殿の南に耤田、壇の東に旗纛廟、その後ろに神倉。周垣は七百余丈で、垣内の土地では毎年穀物や蔬菜を作って祀事に供した。嘉靖十年(1531年)、天神地祗壇と改名し、左右に分けて配置した。太嵗壇は嶽瀆と同じ扱い。
  • 嶽鎮海瀆山川城隍壇は高い丘に据えて南向き、高さ二尺五寸、方はその十倍、四方に階段があり、南向きが五級、東西北が三級。王國の山川壇は高さ四尺、四方に階段、方三丈五尺。天下の山川の所在地の壇は高さ三尺、四方に階段三級、方二丈五尺。

神位・祭器・玉帛・牲牢・祝冊の数――神位

  • 圜丘。洪武元年冬至には、正壇の第一成に昊天上帝を南向きに、第二成の東に大明、次いで星辰、西に夜明、次いで太嵗を置いた。洪武二年、仁祖の配位を第一成に西向きで奉じた。三年、壇下の壝内に風雲雷雨の祭を加えた。七年(1374年)に改定し、内壝の内に東西各三壇、星辰の二壇を東西に分けて設け、その次は東が太嵗・五嶽、西が風雲雷雨・五鎮。内壝の外は東西各二壇で、東が四海、西が四瀆、次いで天下神祗壇を東西に分けて設けた。
  • 方丘。洪武二年夏至には、正壇の第一成に皇地祗を南向きに、第二成の東に五嶽、次いで四海、西に五鎮、次いで四瀆。三年、仁祖の配位を第一成に西向きで奉じ、壇下の壝内に天下山川の祭を加えた。七年に改定し、内壝の内に東西各二壇、東が四海、西が四瀆、次の二壇が天下山川。内壝の外には東西に天下神祗壇を各一つ設けた。
  • 洪武十二年(1379年)正月、大祀殿での合祀。正殿は三壇で、上帝と皇地祗はともに南向き、仁祖の配位は東で西向き。従祀は十四壇。丹陛の東の一壇が大明、西の一壇が夜明。両廡は壇が各六。星辰が二壇、次いで東が太嵗・五嶽・四海、西が風雲雷雨・五鎮・四瀆、さらにその次が天下山川・神祗の二壇で、いずれも東西向き。
  • 洪武二十一年の増修では、丹墀の内に石臺四(大明・夜明が各一、星辰が二)、内壝の外に石臺二十。東の十壇は北嶽・北鎮・東嶽・東鎮・東海・太嵗・帝王・山川・神祗・四瀆、西の十壇は北海・西嶽・西鎮・西海・中嶽・中鎮・風雲雷雨・南嶽・南鎮・南海で、いずれも東西向き。臺は高さ三尺あまり、周囲に石欄をめぐらし、昇り降りは磴道による。臺の上には石を彫り龕を穿って神位を置いた。
  • 建文の時に仁祖を撤して太祖を配位に改め、第一成に西向きとした。洪熙元年(1425年)、文皇帝を太祖の下に加えた。
  • 嘉靖九年、分祀の典に戻す。圜丘は東に大明、西に夜明、次いで東に二十八宿・五星・周天星辰、次いで西に風雲雷雨で、あわせて四壇。方丘は東に五嶽と基運・翊聖・神烈の三山、西に五鎮と天夀・純徳の二山、次いで東に四海、次いで西に四瀆。南北の郊はいずれも太祖だけを配とした。太社稷の配位については別に述べる。先農は正位が南向き、后稷の配位が西向き。
  • 神位は、天地・祖宗のものを神版、それ以外を神牌という。圜丘の神版は長さ二尺五寸、広さ五寸、厚さ一寸、趺の高さ五寸で栗の木で作る。正位には「昊天上帝」、配位には「某祖某皇帝」と題し、いずれも黄地に金字。従祀の風雲雷雨の位版は赤地に金字。神席は、上帝には龍椅・龍案を用い錦の褥を敷く。配位も同じ。従祀の位は案に置くだけで席を設けない。方丘は正位が「皇地祗」で、配位と従祀の制は圜丘と同じ。
  • 奉先殿の帝后の神主は、高さ一尺二寸、広さ四寸、趺の高さ二寸、木製で金で飾り青字を刻む。龕は高さ二尺、広さ二尺、趺の高さ四寸、朱漆に金を鏤めた龍鳳の花版、二つの窓を開いて紅紗を張り、側面に金銅の環を付け、内側に織金の文綺を敷く。
  • 社稷。社の主は石で、高さ五尺、広さ五尺、上をやや尖らせ、壇上に立てて半ばを土中に埋め、南寄りに北向きに置く。稷は主を用いない。洪武十年、いずれも木主を設けて丹漆を施し、祭が終われば庫に納め、なお石主は壇中に埋めて先端だけをわずかに露出させた。のちに祖を配として奉じ、その位は金を塗った牌座を作って先聖と同じ形式とし、匵には架罩を用いた。嘉靖年間には寢廟に蔵めた。帝社稷の神位は木製で高さ一尺八寸、広さ三寸、朱漆地に金書。壇の南に石龕を置いて神位を蔵める。王府・州縣の社主はいずれも石で、長さ二尺五寸、広さ一尺五寸。日月壇の神位は松柏で作り、長さ二尺五寸、広さ五寸、趺の高さ五寸、朱漆に金字。その他もこれに倣う。

神位・祭器・玉帛・牲牢・祝冊の数――祭器

  • 南郊。洪武元年の定め。正位は豋一、籩豆各十二、簠簋各二、爵三。壇上に太尊二・著尊・犧尊・山罍各一、壇下に太尊一・山罍二。従祀位は豋一、籩豆各十、簠簋各二、東西にそれぞれ著尊二・犧尊二。北郊も同じ。
  • 洪武七年、圜丘の従祀に酒尊六を壇の西にまとめて設け、大明・夜明の位には各三。天下神祗は鉶三、籩豆各八、簠簋各二。壝の内外の東西にそれぞれ酒尊三、各位に爵三。方丘は嶽鎮にそれぞれ酒尊三、壝の内の東西に各酒尊三、壝の外の東西に各酒尊三、各位に爵三。神祗は圜丘と同じ。
  • 洪武八年(1375年)、圜丘の従祀にさらに豋一・鉶二を設け、各位に酒斚を加えた。星辰と天下神祗は各三十、太嵗・風雲雷雨・嶽鎮海瀆は各十五。方丘の従祀も同じ。
  • 洪武十年、合祀の典を定めた際、各壇の陳設は従来どおりとしたが、太嵗と風雲雷雨だけは酒盞各十。東西の廡はともに酒尊三・爵十八を壇の南にまとめて設けた。
  • 洪武二十一年の改定。正殿上の三壇は、壇ごとに豋一・籩豆各十二・簠簋各二、酒尊六・爵九を殿の東南にまとめて西向きに設ける。丹墀内の四壇のうち、大明・夜明は各々豋一・籩豆十・簠簋二・酒尊三・爵三。星辰の二壇は各々豋一・鉶二・酒盞三十で、その他は大明と同じ。壝の外の二十壇は各々豋一・鉶二・籩豆各十・簠簋各二・酒盞十・酒尊三・爵三。神祗壇は鉶三・籩豆各八。帝王・山川・四瀆・中嶽・風雲雷雨・神祗の壇は酒盞各三十で、その他は嶽鎮と同じ。
  • 太廟の時享。洪武元年の定めでは、廟ごとに登一・鉶三・籩豆各十二・簠簋各二、酒尊三・金爵八・瓷爵十六を殿にまとめて東向きに設ける。二十一年の改定で廟ごとに豋二・鉶二。𢎞治の時には九廟に通じて酒尊九(祫祭にはさらに一)、金爵十七(祫祭にはさらに二)、瓷爵三十四(祫祭にはさらに四)。
  • 親王の配享。洪武三年の定めでは豋・鉶各三、籩豆各十二、簠簋各二、酒尊三、酒注二。二十一年の改定で豋・鉶各一、爵各三、籩豆各十、簠簋各二、酒尊三を殿の東にまとめて用いる。
  • 功臣の配享。洪武二年の定めでは各位に籩豆各二、簠簋各二。三年に酒尊二・酒注二を共用と増し定めた。二十一年の改定で十壇とし、壇ごとに鉶一・籩豆各二・簠簋各一・爵三、酒尊三を殿の西にまとめて用いる。
  • 太社稷。洪武元年の定めでは鉶三、籩豆各十、簠簋各二、配位も同じ。正位・配位ともに酒尊三を壇の東に設ける。十一年(1378年)の改定で各位に豋一・鉶二・籩豆十二、正位と配位に酒尊三・爵九をまとめて設ける。のちに太祖・成祖を並べて配した際、酒尊一・爵三を加えた。府州縣の社稷は鉶一、籩豆四、簠簋二。
  • 朝日・夕月。洪武三年の定めでは、太尊・著尊・山罍各二を壇上の東南隅に北向きに、象尊・壺尊・山罍各二を壇下に置く。籩豆各十、簠簋各二、豋・鉶各三。
  • 先農は社稷と同じで、豋を一つ加え籩豆を二つ減らす。
  • 神祗。洪武二年の定めでは壇ごとに籩豆各四、簠簋・豋・爵各一。九年の改定で正殿に酒尊三・爵七をまとめて設け、両廡にそれぞれ酒尊三・爵三、その他は従来どおり。二十一年の改定で壇ごとに豋一・鉶二・籩豆各十・簠簋各二・酒盞三十。星辰は正殿中央に豋一・鉶二、他の九壇は鉶二とし、壇ごとに籩豆十・簠簋各一・酒盞三十・爵一、酒尊三をまとめて設ける。太嵗の諸神は籩豆各八・簠簋各二・酒尊三。嶽瀆山川も同じ。
  • 歴代帝王。洪武四年の定めでは豋一、鉶二、籩豆各八、簠簋各一、俎一、爵三、尊三。七年の改定で豋・鉶・簠簋各一、籩豆各十、爵各三、酒尊五を殿の西の階に、酒尊三を殿の東の階にまとめて設ける。二十一年の増定で各位に鉶二・簠簋各二、五室に酒尊三・爵四十八をまとめて設ける。配位は壇ごとに籩豆各二・簠簋各一・饋盤一、各位に鉶一・酒盞三。
  • 三皇は籩豆各八、簠簋各二、豋・鉶各二、爵三、犧尊・象尊・山罍各一。配位は籩豆各四、簠簋各二、鉶一、爵三、犧尊・象尊各一。
  • 至聖先師。洪武元年の定めでは籩豆各六、簠簋各二、豋一、鉶二、犧尊・象尊・山罍各一。四配位は籩豆各四、簠簋各一、豋一。十哲と両廡は籩豆二。四年の改定で正位は籩豆各十、酒尊三、爵三、その他は従来どおり。四配は各位に酒尊一、その他は正位と同じ。十哲は東西に各爵一、各位に籩豆各四・簠簋各一・鉶一・酒盞一。両廡は東西各十三壇、東西に各爵一、壇ごとに籩豆各四・簠簋各一・酒盞四十。五年(1372年)の改定で正位は酒尊一・爵三・豋一・鉶二・籩豆各八・簠簋各二、四配位は酒尊一を共用し各々爵三・豋一・鉶二・籩豆各六・簠簋各一、十哲は酒尊一を共用し東西に各爵五・鉶一・籩豆各四・簠簋各一、東西の廡は四位ごとに爵四・籩豆各二・簠簋各一。景泰六年(1455年)、両廡に籩豆各二・簠簋各一を増した。成化十二年(1476年)、正位の籩豆を十二に増した。嘉靖九年、これをまた十に減らした。
  • 旗纛は先農と同じ。馬神は籩豆各四、簠簋・豋・象尊・壺尊各一。

神位・祭器・玉帛・牲牢・祝冊の数――玉帛と牲牢

  • 玉は三等。上帝には蒼璧、皇地祗には黄琮、太社・太稷には邸のついた両圭、朝日・夕月には五寸の圭璧。
  • 帛は五等。第一は「郊祀制帛」で郊祀の正位・配位に用い、上帝は蒼、地祗は黄、配位は白。第二は「禮神制帛」で社稷以下に用い、社稷は黒、大明は赤、夜明・星辰・太嵗・風雲雷雨・天下神祗はいずれも白、五星は五色、嶽鎮・四海・陵山は方位の色に従い、四瀆は黒、先農の正位・配位はいずれも青、群神は白、帝王・先師はいずれも白。旗纛は洪武元年に黒を用い、七年に赤に改め、九年に黒二・白五と定めた。第三は「奉先制帛」で太廟に用い廟ごとに二。第四は「展親制帛」で親王の配享に用いる。第五は「報功制帛」で功臣の配享に用いる。いずれも白で各位に一つずつ。ただし圜丘は嘉靖九年に十二を用い、周天星辰は共用で十を用いた。孔廟の十哲と両廡は東西に各一という。
  • 洪武十一年、帝は小祀に楮錢を用いる例があるのを不経とし、礼臣が議して定めた。在京の大祀・中祀には制帛を用い篚を添える。京外の王國・府州縣も同様。小祀は牲と醴のみを用いる。
  • 牲牢は三等で、犢・羊・豕。毛色は赤みのある騂を尊び、あるいは黒みのある黝を用いる。大祀は九旬、中祀は三旬、小祀は一旬、滌に入れて飼う。大祀の前月の朔日に犧牲所へみずから赴いて牲を検め、毎日大臣一人を遣わして見させる。
  • 洪武二年、帝は祭祀の省牲の場所が神壇に近すぎて人心に安からぬとして、省牲の儀を定め、神壇から二百歩離すこととした。七年の定制では、大祀は皇帝がみずから省牲し、中祀・小祀は官を遣わす。嘉靖十一年(1532年)の改定では、冬至・夏至・祈穀はいずれも祭の五日前にみずから見、その後はいずれも大臣を遣わすこととした。
  • 圜丘は蒼犢、方丘は黄犢、配位はそれぞれ純色の犢。洪武七年に増設した分では、圜丘の配位と星辰に牛一・羊豕三、太嵗に牛・羊・豕各一、風雲雷雨と天下神祗に羊豕各五、方丘の配位と天下山川に牛一・羊豕各三。
  • 太廟の禘は正位・配位ともに太牢、祫もいずれも太牢、時享は廟ごとに犢・羊・豕各一。親王の配位は洪武三年の定めで牛・羊・豕一を共用、二十一年の改定で壇ごとに犢・羊・豕各一。功臣の配位は洪武二年の定めで各位に羊・豕の体各一、二十一年の改定で壇ごとに羊・豕一。太社稷は犢・羊・豕各一、配位も同じ。府州縣の社稷は正位・配位あわせて羊一・豕一で、洪武七年にそれぞれ羊一・豕一を増設した。朝日・夕月は犢・羊・豕各一。先農は太社稷と同じ。神祗は洪武二年の定めで羊六・豕六、二十一年の改定で壇ごとに犢・羊・豕各一。嘉靖十年、天神を左、地祗を右とし、それぞれ牲五。星辰は壇ごとに羊・豕一。靈星の諸神は神ごとに羊・豕各一、共用で牛一。太嵗の諸神はいずれも太牢。嶽鎮海瀆の諸神は犢一・羊一・豕一。帝王は室ごとに犢・羊・豕各一、配位は壇ごとに羊・豕各一。先師は帝王と同じ、四配は配位と同じ。十哲は東西に各豕一を五つに分ける。両廡は東西に各豕一、のちに三に増した。府州縣の學の先師は羊一・豕一、四配は羊一・豕一を四体に解いて共用、十哲は東西に各豕一を五体に解き、両廡は豕一を百八分に解く。旗纛は洪武九年に犢・羊・豕と定め、永樂以後は犢を除いた。王國および衞所も同じ。五祀と馬神はいずれも羊・豕を用いる。

神位・祭器・玉帛・牲牢・祝冊の数――祝冊

  • 南北の郊の祝板は長さ一尺一分、広さ八寸、厚さ二分、楸梓の木を用いる。宗廟のものは長さ一尺二寸、広さ九寸、厚さ一分、梓の木を用い楮紙で覆う。群神・帝王・先師にもいずれも祝文があるが、多くは載せない。祝案は西に据える。

籩豆之實

  • 籩豆を十二用いる場合、籩には形鹽・薧魚・棗・栗・榛・菱・芡・鹿脯・白餅・黒餅・糗餌・粉餈を盛り、豆には韭葅・醯醢・菁葅・鹿醢・芹葅・兔醢・笋葅・魚醢・脾析・豚胉・□食(底本欠字)・糝食を盛る。
  • 十を用いる場合は、籩から糗餌・粉餈を、豆から□食(底本欠字)・糝食を減らす。八を用いる場合は、籩からさらに白餅・黒餅を、豆からさらに脾析・豚胉を減らす。四を用いる場合は、籩は形鹽・薧魚・棗・栗のみ、豆は芹葅・兔醢・菁葅・鹿醢のみ。各二の場合は、籩に粟・鹿脯、豆に菁葅・鹿臡。
  • 簠簋は各二の場合に黍・稷・稻・粱を、各一の場合に稷・粱を盛る。登には太羮、鉶には和羮を盛る。
  • 洪武三年、礼部が言った。『禮記』郊特牲に「郊の祭には器に陶匏を用い、質朴を尊ぶ」とあり、『周禮』籩人の「凡そ祭祀に簠簋の実を供す」の疏に「外祀には瓦の簠を用いる」とある。今の祭祀に瓷器を用いるのは古意にかなう。ただ盤盂の類は古の簠・簋・登・鉶とは形が異なる。そこで祭器はすべて瓷とし、形は古の簠・簋・登・豆に倣い、籩だけは竹を用いたい、と。詔してこれに従った。
  • 酒齊は周制に倣い、新旧の醅を用いて五齊・三酒を備える。尊に盛るものの名称と数量はそれぞれ異なる。

祭祀雜議諸儀

  • 版位。皇帝の位は方一尺二寸、厚さ三寸、紅地に金字。皇太子の位は方九寸、厚さ二寸、紅地に青字。陪祀官の位はいずれも白地に黒字。
  • 拜褥は当初は緋を用いた。洪武三年の定制では、郊丘は席を表・蒲を裏とし、宗廟・社稷・先農・山川は紅の文綺を表・紅の木綿布を裏とする。
  • 贊唱。皇帝がみずから祀って位に就くとき、太常寺が「中嚴」を奏し「外辦」を奏す。盥洗・升壇・飲福・受胙のそれぞれに贊辞を述べる。また祀ごとに爵洗位を設けて爵を洗い拭う。当初は升壇のときに再拜を唱え、祭酒のときに賜福胙を唱えていたが、洪武七年、礼部がその煩わしさを奏上して、すべて削られた。
  • 上香の礼は明初の祭祀ではみな行っていたが、洪武七年に翰林の詹同の言によって廃した。嘉靖九年に復活した。
  • 拜礼は当初は各節ごとにみな再拜だった。洪武九年、礼臣が奏した。『禮記』の一獻・三獻・五獻・七獻の文にはいずれも拜礼が載っていない。唐宋の郊祀では各節に再拜したが、亞獻・終獻は天子が行わず臣下に行わせた。今は大祀・中祀とも迎神から飲福・送神まで、それぞれ再拜を行うのがよい、と。帝は節約して十二拜とし、迎神・飲福・受胙・送神をそれぞれ四拜とするよう命じた。
  • 登壇して舄を脱ぐ礼は当初は行われなかった。洪武八年、翰林院の臣に大祀の登壇脱舄の礼を考定するよう詔した。学士の樂韶鳳が漢魏以来の朝祭の儀を広く考えて議した。郊祀・廟享の前日に有司が席を地に敷き、御幕を壇の東南門の外に設け、執事官が履を脱ぐ場所を壇門の外の西の階の脇に設ける。祭の日、大駕は幕次に入って舄を脱いで壇に登る。升壇の執事・導駕・贊禮・讀祝および分獻・陪祀の官はみな外で舄を脱ぎ、順に壇に登って役に当たる。協律郎と樂舞生は従来どおり素足に襪で位に就く。祭が終われば壇を降りて舄を履く、と。これに従った。嘉靖十七年、この礼は廃された。

祭祀日期

  • 欽天監が日を選び、太常寺があらかじめ十二月朔日に奉天殿に至って奏する。古の卜法が伝わらないため、干支の吉日を選んで卜に代えるのである。
  • 洪武七年、太常卿に命じて祭祀の日程を議定させ、それを版に書き記し、時に従って祭る式とした。祭の日には官を遣わして祭を監させ、不敬や失儀の者は罪に問うた。

習儀

  • 祭祀の三日前と二日前に、百官が朝天宫で儀式の予行を行う。
  • 嘉靖九年の改定で、郊祀と冬至については七日前と六日前に習儀することとした。

齋戒

  • 洪武二年、学士の朱升らが敕を奉じて齋戒の文を撰した。「戒」とは外を禁止することで、沐浴して衣を改め外の舎に出て泊まり、酒を飲まず葷を食わず、病を見舞わず喪を弔わず、音楽を聴かず刑名の事を処理しない。「齋」とは内を整えることで、心を専一にし厳かに畏れ慎み、思うところがあれば祭る神のことだけを思い、あたかもその上に、その左右にいますかのようにし、清く一途な誠に一瞬の切れ目もない。大祀は七日で、前の四日が戒、後の三日が齋である。
  • 太祖は言った。天地・社稷・宗廟・山川等の神を祭るのは天下のために福を祈るのだから、百官に齋戒を命じてよい。だが自分個人が天地百神に祈るもので民事に関わらないものは、令を下さない、と。また言った。致齋を五日七日とするのは長すぎて人心が怠りやすい。祭に臨んでの齋戒三日にとどめ、精専を尽くしてこそ神明に通じよう、と。そこでこれを令として定めた。
  • この年、礼部尚書の崔亮の奏に従い、大祀の七日前に陪祀官が中書省に赴いて誓戒を受けることとした。誓戒の趣旨は、各々その職を尽くせ、その務めに従わなければ国に常刑がある、というもの。宗廟・社稷は致齋三日で誓戒はしない。
  • 洪武三年、礼部尚書の陶凱に諭した。人の心の張り弛みは定まらず、必ず戒めがあってこそ放埒にならない、と。そこで礼部に銅人を一体鋳させた。高さ一尺五寸、手に牙簡を執る。大祀なら「致齋三日」、中祀なら「致齋二日」と簡の上に書き、太常司が齋所に運び置いた。
  • 洪武四年、天子がみずから祀るときは齋五日、官を遣わして代祀させるときは齋三日、降香のときは齋一日と定めた。
  • 洪武五年、諸司にそれぞれ木牌を置かせて軽んじ怠るのを戒めさせた。牌には「国には常憲あり、神はこれを鑑みる」と刻み、祭祀のたびに立てた。また陶凱の奏に従い、親祀のときは皇太子が宮中に留守し、親王は戎服で侍従することとし、皇太子・親王は陪祀しなくとも同様に齋戒することとした。
  • 洪武六年(1373年)、陪祀官の齋房を北郊の齋宫の西南に建てた。あわせて齋戒の礼儀を定めた。天地を祭る正祭は五日前の午後に沐浴・更衣して外室に居り、翌朝に百官が奉天門で誓戒牌を見、その次の日に仁祖廟に告げてから齋宫に退いて致齋三日。宗廟を享ける正祭は四日前の午後に沐浴・更衣して外室に居り、翌日から致齋三日。社稷・朝日・夕月・周天星辰・太嵗・風雲雷雨・嶽鎮海瀆・山川等の神を祭る場合は致齋二日で、儀は前と同じ。制を傳えて降香し官を遣わして代祀させる場合は、前日に沐浴・更衣して外室に居り、翌日に官を遣わす。
  • 洪武七年の定制では、大祀の四日前に太常卿が天下神祗壇に赴いて奠告し、中書丞相が京師の城隍廟に赴いて咨を発する。翌日、皇帝が仁祖廟に赴いて配享を請う。
  • 洪武二十一年の定制では、齋戒の二日前に太常司の官が本司に宿し、翌日に致齋を奏請し、さらに翌日に銅人を進め、制を傳えて文武百官に齋戒を諭す。この日、礼部・太常司の官が城隍神に檄して天下の祀るべき神祗をあまねく招き、なお各廟で三日間焚香する。
  • 洪武二十六年(1393年)、傳制誓戒の儀を定めた。大祀の三日前に百官が大朝の儀のとおり闕に参り、傳制官が制を宣べる。「某年月日、某所に祀る。汝ら文武百官は某日より致齋三日、敬み慎むべし」。傳制が終われば四拜し、礼畢を奏する。
  • 宣徳七年(1432年)、南郊で大祀を行い、帝は齋宫に入った。内官・内使で酒を飲み葷を食い、壇に入って地に唾する者はみな罪に問い、司禮監でそれを見逃した者も同罪とした。齋の日には御史が各官を齋の場所で検分し、南京にも同様に齋戒を行わせた。
  • 𢎞治五年(1492年)、鴻臚少卿の李燧が言った。分獻・陪祭等の官が道士の部屋や寝台を借りて貴賤入り交じって過ごしており、宣召にも不便である。壇所の空き地に天夀山の朝房の様式に倣って齋房を建てたい、と。これに従った。
  • 嘉靖九年、三日前に帝が奉天殿に出御し、百官が朝服で誓戒を聴くと定めた。
  • 萬厯四年(1576年)十一月、礼部が言った。二十三日の冬至の祀天について、十八日に奏祭、十九日に百官が誓戒を受けることになっているが、この日は皇太后の誕辰で百官は吉服で賀すべきである。一日に二つの礼が重なり服色も異なるので、奏祭と誓戒をともに一日繰り上げたい、と。帝は奏祭と誓戒は従来どおりとし、十八日に慶賀の礼を行わせた。

遣官祭祀

  • 洪武二十六年、傳制特遣の儀を定めた。当日、皇帝は常のとおり座に着き、百官が一拜。それが終わると獻官が拜位に赴いて四拜する。傳制官が御前から出て制を宣べる。孔子を祭る場合は「某年月日、先師孔子大成至聖文宣王を祭る。卿に命じて礼を行わせる」、歴代帝王を祭る場合は「某年月日、先聖歴代帝王を祭る。卿に命じて礼を行わせる」。獻官は俯伏して起ち四拜し、礼が終われば退出する。
  • 降香遣官の儀。祀の前日の早朝、皇帝が皮弁服で奉天殿に登り、香を捧げる者が香を獻官に授ける。獻官はこれを捧げて中央の階を降り中道を通って午門の外に出、龍亭の中に安置する。儀仗と鼓吹が導いて祭所へ向かう。のちに定めて、祭の日の降香は常の儀のとおりとし、中嚴して獻官を待ち、祭が終わって復命すれば厳を解いて還宫することとした。
  • 嘉靖九年、大祀に官を遣わす場合は飲福の礼を行わないと定めた。

分獻陪祀

  • 分獻官については太常寺があらかじめ旨を請う。洪武七年、太祖が学士の詹同に言った。大祀の終獻になってようやく分獻の礼を行うのは当を得ない、と。詹同は学士の宋濂と議し、帝が初獻して玉帛を奠え終わろうとする時に分獻官が初獻の礼を行い、亞獻・終獻もこれに倣うこととした。
  • 嘉靖九年、四郊の工事が成り、帝が太常寺に諭した。大祀の分獻官はあらかじめ定めてこそ習儀ができる、と。そこで大学士の張璁らを大明・夜明・星辰・風雲雷雨の四壇に充てた。旧制では分獻に文武の大臣および近侍の官あわせて二十四人を用いていたが、今は四人と定め、法司の官は従来の例どおり与らないこととした。
  • 陪祀について。洪武四年、太常寺が『周禮』および唐制を引いて、武官は四品、文官は五品以上を用い、老衰・疾病・瘡疥・刑余・喪中・体臭のある者は与らせないと擬し、これに従った。のちに、郊祀には六科の都給事中もみな陪祀に与り、その他の祭には与らないと定めた。また南北の郊では、先立って陪祀・執事の官に明衣の布を賜い、樂舞生には各々新衣を給する制とした。
  • 陪祀官の入壇牙牌。天子がみずから祀るときはこれを佩びて入る。二種あり、円いものは与祭官が、方いものは執事人が佩びる。いずれも内府に納めておき、祭のときに支給する。持たない者は壇に入れない。
  • 洪武二十九年(1396年)、初め山川の諸神を祀るのに、流官は祭服、未入流の官は公服を着ていた。洪武二十九年、礼臣の言に従い、未入流の官も祭にはみな祭服を用い九品と同じとした。