明史卷二十一 本紀第二十一 神宗二・光宗

萬歴二十五年(1597年)

  • 春正月丙辰、朝鮮の使者が来て救援を請うた。
  • 二月丙寅、ふたたび倭を征することを議した。丙子、前都督同知の麻貴を備倭總兵官として南北の諸軍を統べさせた。
  • 三月乙巳、山東右參政の楊鎬を僉都御史として朝鮮軍務を経略させた。己未、兵部侍郎の邢玠を尚書とし、薊遼・保定の軍務を総督させて禦倭を経略させた。
  • 夏六月戊寅、皇極・中極・建極の三殿が火災に遭い、反省を詔した。癸未、国史の編修を取りやめた。
  • 秋七月癸巳、群臣を戒め諭した。丁酉、詔して天下に赦を行った。この月、播州宣慰使の楊應龍が叛いて合江・綦江を掠奪した。
  • 八月丁丑、倭が朝鮮の閑山を破り、そのまま南原に迫った。副總兵の楊元は城を棄てて逃げ、倭は王京に迫った。甲申、市師(京師の誤りか)に地震があった。
  • 九月壬辰、前兵部尚書の石星を逮捕して下獄させ、死を諭した。
  • 冬十月甲戌、安南の黎惟潭が簒奪して立ち、関門に至って謝罪したので、詔して安南都統使に任じた。
  • この年、琉球が入貢した。

萬歴二十六年(1598年)

  • 春正月、官軍が蔚山の倭を攻めたが陥れられず、楊鎬・麻貴は王京へ逃げ帰った。
  • 三月癸卯、趙秉忠らに進士及第・出身を差をつけて賜った。壬子、群臣が文華門に赴いて皇長子の元服と婚儀を上疏して請うたが許されなかった。
  • 夏四月丁卯、土黙特が遼東を侵し、總兵官の李如松が塞外に出て伏兵に遭い戦死した。壬申、京師が旱魃となり、反省を勅した。
  • 六月丁巳、楊鎬が罷免された。戊午、宦官の李敬に廣東で真珠を採らせた。丙寅、張位が罷免。丙子、天津巡撫僉都御史の萬世徳に朝鮮を経略させた。
  • 秋七月丙戌、宦官の魯保に両淮の余剰の塩を売らせた。
  • 八月丁丑、京師に地震。
  • 九月壬辰、浙江の被災地の田租を免除。
  • 冬十月乙卯、總兵官の劉綎と麻貴が道を分けて倭を撃ち破ったが、董一元は倭の新寨を攻めて敗れた。
  • 十一月戊戌、倭が蔚山を棄てて逃走し、官軍は道を分けて進撃した。
  • 十二月、總兵官の陳璘が乙山で倭を破り、朝鮮が平定された。
  • この年、烏斯藏が入貢した。

萬歴二十七年(1599年)

  • 春二月壬子、宦官を手分けして派遣し、浙江・福建・廣東の市舶司を統轄させた。この月、貴州巡撫の江東之が兵を遣わして楊應龍を討たせたが敗れた。
  • 三月己亥、前兵部侍郎の李化龍に四川・湖廣・貴州の軍務を総督させ、楊應龍を討たせた。
  • 夏四月甲戌、午門に出御して倭の俘虜を受けた。この月、臨清で民変が起き、税使の馬堂の役所を焼き、その随員三十四人を殺した。
  • 閏四月丙戌、倭の平定により、東征のために上乗せしていた田賦(原文は「田賊」だが田賦の誤りか)の加徴を天下で廃すると詔した。己丑、久しい旱魃により反省を勅した。丙申、諸皇子の婚儀のため太倉の銀二千四百万両を出せと詔したが、戸部が不足を訴えたので、天下の備蓄を厳しく調査させた。
  • 六月己亥、楊應龍が綦江を陥れ、參將の房嘉寵と遊撃の張良賢が戦死した。
  • 秋八月甲午、陝西狄道県で山崩れ。
  • 九月、土黙特が錦州を侵した。
  • 冬十月壬午、京城の飢民を賑恤。丙戌、播州の用兵のため四川・湖廣の田賦を加徴した。戊子、貴州宣慰使の安疆臣に罪があったが、賊を討って罪を償えと詔した。
  • 十一月己酉、河南の被災地の田租を免除。癸酉、畿輔および鳳陽などの飢民を賑恤。
  • 十二月丁丑、武昌・漢陽で民変が起き、税使の陳奉を撃って負傷させた。戊子、京師に食を求めて流入した流民を賑恤。
  • この年、琉球が入貢した。

萬歴二十八年(1600年)

  • 春二月戊寅、京師に地震。丙戌、李化龍が軍を率い、八路に分かれて播州を討った。
  • 六月丁丑、海龍囤を攻め落とし、楊應龍は自縊して死に、播州が平定された。
  • 秋七月辛亥、旱魃により反省を勅した。甲寅、播州征討のために上乗せしていた田賦の加徴を廃した。
  • 八月辛未、慈慶宮が完成。丙子、朝鮮の駐屯兵を撤収した。
  • 九月甲寅、刑の執行を停止。
  • この秋、綽哈が遼東を侵し、副總兵の解生らが敗れて戦死した。
  • 冬十月辛未、貴州皮林の苗族が叛き、總兵官の陳璘がこれを討った。丙子、雲南の税監楊榮にアヴァ・猛密の宝石鉱を開かせた。
  • 十二月乙未、午門に出御して播州の俘虜を受けた。
  • この年、両畿と各省が災害に見舞われて民が飢え、盗賊が蜂起した。内外の群臣が次々と上章して鉱税と諸監の廃止を請うたが、みな聴き入れられなかった。大西洋の利瑪竇(マテオ・リッチ)が方物を進呈した。

萬歴二十九年(1601年)

  • 春正月壬子、播州平定により天下に詔し、四川・貴州・湖廣・雲南の加徴した田租と未納賦税を免除し、官民の過誤の罪を除いた。この月、皮林の苗賊が平定された。
  • 二月甲戌、大同・宣府の飢民を賑恤。
  • 三月乙卯、張以誠らに進士及第・出身を差をつけて賜った。この月、武昌で民変が起き、税監陳奉の随員六人を殺し、巡撫の役所を焼いた。
  • 夏四月乙酉、陳奉を召還し、守備承天の宦官杜茂を代わりとした。
  • 五月、蘇州で民変が起き、織造の宦官孫隆の随員数人を殺した。
  • 六月、京師は前年六月から雨が降らず、この月の乙亥にようやく雨が降った。山東・山西・河南はみな大旱魃であった。丁亥、法司が暑中の囚人再審(熱審)を請うたが返答はなかった。
  • この夏、畿内の飢民を賑恤。
  • 秋九月壬寅、黄河が開封・帰徳で決壊。丁未、趙志臯が没した。癸丑、貴州の飢民を賑恤。戊午、前禮部尚書の沈鯉と朱賡にともに東閣大學士を兼ねさせ機務に参与させた。
  • 冬十月己卯、皇長子の常洛を皇太子に立て、諸子の常洵を福王、常浩を瑞王、常潤を惠王、常瀛を桂王に封じ、詔して天下に赦を行った。壬辰、慈聖皇太后に尊号を加えた。
  • 十二月辛未、朶顔の馬市の復活を詔した。
  • この年、琉球が入貢した。

萬歴三十年(1602年)

  • 春正月己未、各地の災異により反省を勅した。
  • 二月己卯、体調を崩し、大學士の沈一貫を啓祥宮に召して、鉱税を廃し織造を停め、逮捕拘禁されている者を釈放し、直言して処罰された諸臣の官職を回復せよと命じた。翌日、病が癒えると先の詔を取り消した。甲申、乾清宮・坤寧宮を再建した。
  • 閏二月丙申、河套諸部の貢市を復活。戊午、河州で黄河が涸れた。
  • 三月甲申、騰越で民変が起き、税監の委任した官を殺した。
  • 夏四月辛丑、順天・永平の飢民を賑恤。
  • 五月乙亥、法司が熱審を請うたが返答はなかった。
  • 秋七月辛巳、辺境の兵糧が欠乏したので、未納分の督促を厳しくさせた。この月、緬甸の賊が蠻莫を陥れ、宣撫司宣撫の思正は騰越に逃れたが、賊が追ってきたので、官司は思正を殺して賊に謝り、ようやく事態が収まった。
  • 冬十月戊戌、江北の災害を賑恤。丙辰、刑の執行を停止。
  • この年、琉球・哈密が入貢した。

萬歴三十一年(1603年)

  • 春正月壬午、両宮を造営。
  • 三月戊午、吏部が天下の郡守に欠員があると奏したが返答はなかった。この月、播州の残党の呉洪らが乱を起こしたが、官司が討ち平らげた。
  • 夏四月丁亥朔、日食。
  • 五月丙辰、閣臣が熱審を請うたが返答はなかった。戊寅、京師に地震。鳳陽で大きな雹が降り、皇陵の殿の棟を壊した。
  • この夏、黄河が蘇家荘で決壊し、北の豊・沛・魚台・単県を浸した。
  • 秋九月甲子、江北で盗賊が蜂起。
  • 冬十月甲申、刑の執行を停止。丙申、睢州の賊楊思敬が乱を起こしたが、官司が討って捕らえた。
  • 十一月甲子、帝が皇太子を廃そうとしていると記した妖書が見つかり、五城で大規模な捜索を詔した。
  • 十二月丙戌、皇太子を啓祥宮に召見し、手ずからの勅を賜って慰め諭した。

萬歴三十二年(1604年)

  • 春二月壬寅、閣臣が布政司・按察司の官と郡守を補任し、巡方御史を派遣するよう請うたが返答はなかった。
  • 三月甲子、乾清宮が完成。乙丑、楊守勤らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
  • 夏四月辛巳朔、日食。この月、泇河の浚渫工事が完成。
  • 五月癸酉、落雷の火が長陵の明楼を焼いた。
  • 六月丙戌、陵の災害により、欠員の官を補い刑獄を寛大にせよと命じた。丁酉、昌平で大水があり、長陵・泰陵・康陵・昭陵の四陵の石橋を壊した。
  • 秋七月庚戌、京師で大雨があり城壁を壊した。辛酉、水害を受けた住民を賑恤。
  • 八月辛丑、群臣が文華門に伏して実効ある政治の挙行を上疏して請うたが、旨を下して厳しく責めた。丙午、分水河の工事が完成。
  • 九月戊申、畿南六府の飢民を賑恤。
  • 閏九月辛丑、武昌の宗室の藴鉁らが乱を起こし、巡撫都御史の趙可懐を殺した。
  • 冬十月甲寅、はじめて播州平定の功を叙した。
  • この年、琉球・烏斯藏が入貢した。

萬歴三十三年(1605年)

  • 春正月、京師の外城を大改修した。庚辰、伊勒敦達春が鎮番を侵したが、總兵官の達雲がこれを撃破した。
  • 夏四月辛亥、藴鉁らが処刑された。
  • 五月丙申、鳳陽で大風雨があり、陵の殿の神座を壊した。庚子、雷が圜丘の望灯の高い柱を撃った。
  • 六月乙巳、雷の警告により反省を勅した。
  • 秋七月戊戌、五路の台吉の貢市を復活。
  • 八月己巳、刑の執行を停止。
  • 九月甲午、昭和殿が火災。丙申、京師に地震。
  • 冬十一月辛巳、淮安・揚州の被災地の田租を免除。
  • 十二月壬寅、天下の鉱山開発をやめ、税務を官司に戻し、収入の半分を毎年内府に、半分を戸部・工部に納めよと詔した。丙午、河南の被災地の田租を免除。乙卯、皇長孫の由校の誕生により詔して天下に赦を行い、宗室が科挙を受けて出仕する制度を開き、廣東の真珠採取場と雲南の宝石鉱の採掘を廃した。

萬歴三十四年(1606年)

  • 春二月庚戌、皇孫の誕生により皇太后に徽号を加えた。辛亥、大學士の沈鯉・朱賡が六部の高官の補任を請うたが返答はなかった。
  • 三月己卯、雲南指揮の賀世勲らが税監の楊榮を殺し、その屍を焼いた。丁酉、真定・順徳・広平・大名の災害に対し免税と賑恤を差をつけて行った。
  • 夏四月癸亥、朱旺口の浚渫工事が完成。
  • 五月癸酉、河套部が延綏を侵したが、官軍がこれを撃退した。
  • 六月癸卯、緬甸が木邦を陥れ、副總兵の陳寅らが救援しなかったとして差をつけて罪を論じた。この月、畿内で大蝗害。
  • 秋七月癸未、沈一貫・沈鯉が退官。
  • 九月甲午、陝西に辺境の防備を厳にせよと詔した。
  • 冬十月丙申、刑の執行を停止。
  • 十一月己巳、朶顔が侵入したが、總兵官の姜顯謨が防ぎ退けた。
  • 十二月己酉、はじめて翰林院庶吉士を試験して配属することを命じた。壬子、南京の妖賊劉天緒の謀反が発覚し、処刑された。
  • この年、安南・琉球が入貢した。蒙古の喀爾喀(ハルハ)の諸部がことごとく我が大清に帰属した。

萬歴三十五年(1607年)

  • 春正月辛未、給事中の翁憲祥が、撫按官が任を解かれた際は命令を待つべきで、勝手に去らせるべきではないと言ったが返答はなかった。
  • 二月戊戌、安南の賊武徳成が雲南を侵したが、總兵官の沐叡が防ぎ退けた。
  • 三月辛巳、黄士俊らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
  • 夏四月戊戌、伊勒敦達春が涼州を侵したが、副總兵の柴國柱が撃退した。壬子、順義王の徹哩克が没した。
  • 五月戊子、前禮部尚書の于慎行、禮部侍郎の李廷機、南京吏部侍郎の葉向髙をともに禮部尚書兼東閣大學士として機務に参与させた。
  • 六月、湖廣および徽州・寧国・太平・厳州で大水。
  • 閏六月辛巳、河套諸部の貢市を復活。
  • 秋七月庚子、京師で長雨が続き、刑部が熱審の上疏を下付するよう請うたが返答はなかった。
  • 八月丙寅、畿内の飢民を賑恤。
  • 九月甲午、刑の執行を停止。
  • 冬十月癸酉、山東の旱魃と飢饉に対し免税と賑恤を差をつけて行った。
  • 十一月壬子、于慎行が没した。
  • 十二月、金沙江の蠻族の鳳阿克が叛いて武定を陥れ、雲南を攻め囲み、別に嵩明・禄豊を陥れた。安南の賊が欽州を侵した。
  • この年、琉球が入貢した。

萬歴三十六年(1608年)

  • 春正月、河南・江北で飢饉。
  • 二月戊辰、京師に地震。
  • 夏六月乙卯、南畿で大水。
  • 秋七月丁酉、京師に地震。郴州で鉱山の賊が蜂起。
  • 八月癸亥、雲南で失態を犯した諸臣の罪を裁き、巡撫都御史の陳用賓と總兵官の沐叡を下獄させ死罪と論じた。庚辰、南畿および嘉興・湖州の飢民を賑恤。
  • 九月甲午、四川巡撫都御史の喬璧星が、東川で阿克を捕らえ賊を平定したと奏した。
  • 冬十一月壬子、朱賡が没した。
  • 十二月戊午、ふたたび南畿を賑恤し税糧を免除。
  • この年、琉球が入貢した。

萬歴三十七年(1609年)

  • 春三月辛卯、恭圖が大勝堡を陥れ、遊撃の于守志が小凌河で戦って敗れた。己酉、大學士の葉向髙が、群臣が互いに攻撃し合う諸上疏を下付し、公論によって是非を定めて人心を粛正するよう請うたが返答はなかった。
  • 夏四月、倭が温州を侵した。
  • 秋九月癸卯、左都御史の詹沂が印を封じて勝手に職を去った。丁未、刑の執行を停止。
  • この秋、福建・浙江・江西で大水、湖廣・四川・河南・陝西・山西で旱魃、畿内・山東・徐州で蝗害。
  • 冬十二月己巳、畿内・山東など諸省の税銀の三分の一を現地に留めて飢民を賑恤させた。徐州の賊が如皋知県の張藩を殺した。
  • この年、日本が琉球に入って国王の尚寧を捕らえた。哈密が入貢した。

萬歴三十八年(1610年)

  • 春三月癸巳、韓敬らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
  • 夏四月丁丑、正陽門の楼が火災。辛卯、旱害が異常であるとして群臣に、各自その職務に励み互いに誹り合ってはならないと諭した。辛丑、畿内・山東・山西・河南・陝西・福建・四川の飢民を賑恤。
  • 五月、河南の賊陳目管らが乱を起こしたが、官司が討って捕らえた。
  • 冬十月辛丑、刑の執行を停止。
  • 十一月壬寅朔、日食。丁卯、軍の兵糧が欠乏したので、廷臣に国を富ませる長期の策を述べさせ、内帑の支出を請うてはならないとした。
  • この年、烏斯藏が入貢した。

萬歴三十九年(1611年)

  • 春二月庚子、河套部が甘州の紅崖・青湖を侵したが、官軍が防ぎ退けた。
  • 夏四月、京師で旱魃。戊子、怡神殿が火災。丙申、辺鎮に常平倉を設けた。
  • 五月辛丑、雷が正陽門の楼を震わせた。壬寅、御史の徐兆魁が、東林で講学する人々が裏で人事考課を操っていると弾劾する上疏をした。これ以後、諸臣はますます互いに誹り合うようになった。廣西・廣東で大水。
  • 六月、徐州から北の京師まで大水。
  • この夏、熱審を取りやめた。
  • 冬十月丁卯、戸部尚書の趙世卿が上疏を置いて勝手に職を去った。甲申、刑の執行を停止。閣臣が軽犯の釈放を請うたが返答はなかった。
  • この年、暹羅が入貢した。

萬歴四十年(1612年)

  • 春二月癸未、吏部尚書の孫丕揚が上疏を置いて勝手に職を去った。
  • 三月丙午、京師の流民を賑恤。
  • 夏四月丙寅、南京の各道の御史が、台省が空席だらけで諸事が停滞しており、上は二十余年も深宮にこもって一度も大臣に接見せず、天下は沈没の憂いを迎えようとしていると述べたが、返答はなかった。
  • 五月甲午朔、日食。
  • 秋八月、黄河が徐州で決壊。
  • 九月庚戌、李廷機が上疏を置いて勝手に職を去った。
  • 冬十月甲申、刑の執行を停止。
  • この年、琉球中山王の尚寧が使者を遣わして帰国を報告した。

萬歴四十一年(1613年)

  • 春正月庚申、朝鮮に兵を訓練して倭に備えよと諭した。
  • 三月癸酉、周延儒らに進士及第・出身を差をつけて賜った。淮安・揚州の田賦を加徴した。
  • 夏五月己巳、吏部・都察院に諭した。その趣旨は――近年、議論が入り乱れているのに朝廷が寛大に不問に付したため、いよいよ妄言をもって人を陥れ、大臣は疑い恐れてみな職を去りたがり、国体をひどく損なっている。今後なお党を結んで政を乱す者があれば罪を赦さない――というものであった。
  • 六月乙未、布色圖が順義王を襲封した。
  • 秋七月甲子、兵部尚書で都察院の事を掌る孫瑋が上疏を置いて勝手に職を去った。
  • 九月壬申、吏部左侍郎の方從哲と前吏部左侍郎の呉道南をともに禮部尚書兼東閣大學士として機務に参与させた。庚辰、吏部尚書の趙煥が上疏を置いて勝手に職を去った。
  • この年、両畿・山東・江西・河南・廣西・湖廣・遼東で大水。烏斯藏が入貢した。

萬歴四十二年(1614年)

  • 春正月乙丑、總兵官の劉綎が建昌の叛いた蠻族を討って平定した。
  • 二月辛卯、慈聖皇太后が崩じた。己丑、畿内の飢民を賑恤。
  • 三月丙子、福王が任国に赴いた。
  • 夏四月丙戌、皇太后の遺命により天下に赦を行った。
  • 六月甲午、孝定皇后を葬った。
  • 秋八月甲午、禮部右侍郎の孫慎行が上疏を置いて勝手に職を去った。癸卯、葉向髙が退官。
  • この年、安南・吐魯番が入貢した。

萬歴四十三年(1615年)

  • 春正月乙丑、徐州の決壊した河の工事が完成。
  • 三月丁未朔、日食。
  • 夏五月己酉、薊州の男子張差が棍棒を持って慈慶宮に押し入り、門番の内侍を撃って傷つけ、下獄した。丁巳、刑部提牢主事の王之宷が張差の獄事の実情を掲示して述べ、ここから梃撃の案(挺撃事件)が始まった。己巳、皇城の門の警戒を厳しくした。癸酉、廷臣を慈寧宮に召見し、御史の劉光復を下獄させた。甲戌、張差が処刑された。
  • 六月戊寅、久しい旱魃により反省を勅した。
  • 秋七月己酉、畿内の飢民を賑恤。甲戌、刑の執行を停止。
  • 閏八月庚戌、三殿を再建。丁巳、山東で大旱魃となり盗賊が蜂起したので、税銀を現地に留めて賑恤せよと詔した。丁卯、河套諸部が延綏を侵し、官軍が防いだが敗れ、副總兵の孫𢎞謨が捕らえられた。
  • 冬十月辛酉、京師に地震。
  • 十一月戊寅、京師の飢民を賑恤。
  • 十二月丙寅、ふたたび山東の飢民を賑恤。

萬歴四十四年(1616年)

  • 春三月辛未朔、日食。乙酉、錢士升らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
  • この春、畿内・山東・河南・淮安・徐州で大飢饉があり、免税と賑恤を差をつけて行った。
  • 夏四月戊午、河南で盗賊が蜂起し、官司に慰撫と討伐を諭した。
  • 六月壬寅、河套諸部が延綏を侵したが、總兵官の杜文煥が防ぎ退けた。丁卯、黄河が祥符の朱家口で決壊し、陳州・杞県・睢州・柘城など諸州県を浸した。
  • 秋七月乙未、河套部の長吉納が高家堡を侵し、參將の王國興が敗れて戦死した。この月、陝西で旱魃、江西・廣東で水害、河南・淮安・揚州・常州・鎮江で蝗害、山東で盗賊が大いに蜂起した。
  • 冬十月丁未、刑の執行を停止。
  • 十一月己巳、隆徳殿が火災。

萬歴四十五年(1617年)

  • 春二月戊午、前冬に雪が降らず、春に入っても雨がないため反省を勅した。辛未、鎮撫司に官が欠けて獄囚が長く拘禁され死者が多かったので、大學士の方從哲らが対処を請うたが返答はなかった。
  • 三月乙亥、江西の飢民を賑恤。
  • 夏五月丙子、久しい旱魃により、ふたたび反省を諭した。
  • 六月丙申、畿南で大飢饉となり、官司が賑恤を請うたが返答はなかった。この月、閣臣と法司が熱審を請うたが返答はなかった。
  • 秋七月癸亥朔、日食。丁卯、呉道南が喪のため職を去った。
  • この年、両畿・河南・山東・山西・陝西・江西・湖廣・福建・廣東が災害に見舞われた。暹羅・烏斯藏が入貢した。

萬歴四十六年(1618年)

  • 春二月乙巳、廣東の飢民を賑恤。
  • 夏四月甲辰、我が大清の兵が撫順城を攻め落とし、千總の王命印が戦死した。庚戌、總兵官の張承允が軍を率いて撫順を救援したが敗れて戦死した。
  • 閏四月庚申、楊鎬を兵部左侍郎兼右僉都御史として遼東を経略させた。
  • 六月壬午、京師に地震。
  • この夏、官司が熱審を請うたが返答はなかった。
  • 秋七月丙午、我が大清の兵が清河堡を攻め落とし、守将の鄒儲賢・張斾が戦死した。
  • 八月壬申、海運を開いて遼東に兵糧を送った。庚辰、奈曼など七部が塞に来て帰順した。辛巳、刑の執行を停止。壬辰、遼東の軍に兵糧が欠乏し、官司が各省の税銀の支出を請うたが返答はなかった。
  • 九月辛亥、天下の田賦を加徴した。乙卯、京師に地震。
  • 十一月甲午、災異により反省を勅した。
  • 十二月丁巳、河套部の長孟克什勒が来降した。
  • この年、吐魯番・天方・賽瑪爾堪・魯黙特・哈密・烏斯藏が入貢した。

萬歴四十七年(1619年)

  • 春二月乙丑、経略の楊鎬が遼陽で誓師し、總兵官の李如柏・杜松・劉綎・馬林が道を分けて塞外に出た。
  • 三月甲申、杜松が吉林崖で我が大清の兵と遭遇して戦死した。乙酉、馬林の兵が斐芬山で敗れ、兵備僉事の潘宗顔が戦死した。庚寅、劉綎の兵が深入りして阿布達哩岡で戦死した。辛丑、莊際昌らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
  • 夏四月癸酉、盔甲厰が火災。
  • 六月丁卯、我が大清の兵が開原を攻め落とし、馬林が敗れて戦死した。癸酉、大理寺丞の熊廷弼を兵部右侍郎兼右僉都御史として遼東を経略させた。甲戌、廷臣が文華門に伏して、上奏文の下付と増兵・兵糧の支給を請うたが返答はなかった。
  • 秋八月乙卯、山東で蝗害。癸亥、楊鎬を逮捕した。
  • 九月庚辰、刑の執行を停止。戊子、百官が宮門に伏して、朝に臨んで政を行うよう請うたが返答はなかった。
  • 冬十月丁巳、京師の飢民を賑恤。
  • 十二月、ふたたび天下の田賦を加徴した。辛未、鎮江・寛奠・靉陽で新たに募った援兵が潰走した。
  • この年、暹羅が入貢した。

萬歴四十八年(1620年)

  • 春正月庚子、朝鮮が救援を乞うた。
  • 三月庚寅、またも天下の田賦を加徴した。
  • 夏四月癸丑、皇后の王氏が崩じた。戊午、帝は体調を崩し、方從哲を𢎞徳殿に召見した。
  • 秋七月壬辰、病が重篤となり、英國公の張惟賢、大學士の方從哲、尚書の周嘉謨・李汝華・黄嘉善・張問達・黄克纘、侍郎の孫如游を𢎞徳殿に召し、諸臣に職務に励むよう励ました。丙申、崩御、享年五十八。遺詔により、いっさいの専売税と新たに増設された織造などの諸項目を廃した。
  • 九月甲申、尊諡と廟号を神宗と奉り、定陵に葬った。

光宗――出自と皇太子時代

  • 光宗崇天契道英睿恭純憲文景武淵仁懿孝貞皇帝、諱は常洛。神宗の長子で、母は恭妃の王氏。
  • 萬歴十年(1582年)八月に生まれ、神宗は殿に出御して祝賀を受け、郊・廟・社稷に告祭し、詔を天下に頒ち、両宮に徽号を奉った。
  • まもなく鄭貴妃が子の常洵を生んで寵愛を受け、皇太子の位が長く定まらなかった。廷臣が次々と上章して強く請うたが、いずれも聴き入れられなかった。
  • 萬歴二十九年(1601年)十月にようやく皇太子に立てられた。
  • 萬歴三十一年(1603年)、神宗が皇太子を廃そうとしていると記し、鄭貴妃を名指しで非難する妖書が見つかった。神宗は怒って捕縛を行い、連座した者はきわめて多く、最後に皦生光という者を捕らえて磔にし、事件はようやく収まった。
  • 萬歴四十一年(1613年)六月、姦人の王日乾が変事を上告し、孔學らが呪詛を行い東宮に害をなそうと謀っていると訴えた。その言葉は鄭貴妃と福王に及んだ。この事の顛末は葉向髙の伝に記されている。
  • 萬歴四十三年(1615年)夏五月己酉、薊州の男子張差が棍棒を持って慈慶宮に押し入った。事件はまたも鄭貴妃と宦官に関わったが、皇太子は司法官に委ねるよう請い、獄事が決着すると張差は市中で処刑され、宦官二人が宮中で撲殺された。ここから梃撃の案が起こった。

光宗 泰昌元年(1620年)

  • 萬歴四十八年七月、神宗が崩じた。丁酉、皇太子は遺詔に従って内帑の金百万を出して辺境の兵をねぎらい、天下の鉱税をことごとく廃し、直言して罪を得た諸臣を起用した。己亥、ふたたび内帑の金百万を出して辺境の賞賜に充てた。
  • 八月丙午朔、皇帝の位に即き、天下に大赦し、翌年を泰昌元年とし、直隷・諸省の被災地の租賦を免除した。
  • 己酉、吏部侍郎の史繼偕と南京禮部侍郎の沈㴶を禮部尚書兼東閣大學士として機務に参与させた。遼東で大旱魃。
  • 庚申、蘭州で黄河の水が澄み、あわせて三日に及んだ。
  • 甲子、禮部侍郎の何宗彦・劉一燝・韓爌を禮部尚書兼東閣大學士として機務に参与させた。
  • 乙丑、南京禮部尚書の朱國祚を禮部尚書兼東閣大學士として機務に参与させた。葉向髙を召し、使者を遣わして刑を寛大にさせた。
  • 丙寅、帝が体調を崩した。
  • 戊辰、英國公の張惟賢、大學士の方從哲ら十三人を乾清宮に召して対応し、皇長子を出して引き合わせた。
  • 甲戌、病が重篤となり、ふたたび方從哲らを召して顧命を託した。この日、鴻臚寺官の李可灼が紅丸を進めた。
  • 九月乙亥朔、乾清宮で崩御。在位一か月、享年三十九。熹宗が即位し、廷臣の議に従って萬歴四十八年八月以後を泰昌元年と改めた。
  • 冬十月、尊諡と廟号を光宗と奉り、慶陵に葬った。

史論

贊に言う。神宗は幼くして位に即き、江陵(張居正)が政を執って名目と実質を照らし合わせて引き締めたので、国勢は富強に近づいた。だがその後は旧例に流されて掣肘され、深宮に安んじて引きこもり、綱紀は廃れ、君臣は隔たった。そこで権勢と利を好む小人が競って走り回り、名節を重んじる士と仇敵となり、党派が入り乱れて対立した。やがて悊宗・愍帝の代には邪党がはびこったが、朝廷にあった正しい人士も深い見識と遠い慮りをもってその機先を折ることができず、憤激に耐えかねて互いに誹り合った。その結果、君主は疑いを抱き、賢者と姦臣を取りまぜて用い、ついに崩れ裂けて立て直せなくなった。ゆえに、明の滅亡は実は神宗に滅んだのだと論者が言うのも、もっともなことではないか。光宗は隠れた徳が久しく顕れ、天下の期待を集めていたが、位を継いで一か月、天は年を貸さず、施策を展開できないまま終わった。三案の争いが構えられて党禍はいよいよ激しくなった。哀しむべきことである。