明史卷二十 本紀第二十 神宗一

明の神宗 朱翊鈞、穆宗の第三子で母は貴妃の李氏。隆慶二年に六歳で皇太子に立てられ、隆慶六年に即位して翌年を萬歴と改元した。高拱を退けて張居正を首輔とし、その在世中は官吏の考成・書院の取り壊し・検地・冗官の整理など引き締めの政が行われたが、張居正の没後はその官階を追奪し家財を没収した。本巻は萬歴二十四年までを記し、寧夏の巴拜の乱、播州の楊應龍、豊臣秀吉の朝鮮侵攻への出兵が相次いだ。晩年は朝に臨むことがまれとなり、宦官を派遣して鉱山を開かせ商税を徴収させ、群臣の諫めを容れなかった。

年表(37件)

出自と生い立ち

  • 神宗範天合道哲肅敦簡光文章武安仁止孝顯皇帝、諱は翊鈞。穆宗の第三子で、母は貴妃の李氏。
  • 隆慶二年(1568年)に皇太子に立てられた。当時わずか六歳だったが、生まれつき聡明だった。穆宗が宮中で馬を走らせたとき、「陛下は天下の主です。おひとりで馬を駆けさせては、落馬の憂いがありましょう」と諫めたので、穆宗は喜んで下馬し、これをねぎらった。
  • 陳皇后が病んで別宮にいたころ、翊鈞は毎朝、貴妃に従って起居を伺った。皇后は履の音を聞くと喜んで無理にも起き上がり、経書を取って問いを出したが、答えられないことがなかった。貴妃もこれを喜び、こうして両宮の仲はいっそう睦まじくなった。

隆慶六年(1572年)

  • 五月、穆宗が崩じた。
  • 六月乙卯朔、日食。甲子、皇帝の位に即き、翌年を萬歴元年と定め、詔して天下に赦を行った。建文朝で節に殉じた諸臣をその郷里で祀り、子孫のある者には撫恤と名誉回復を行った。庚午、髙拱を罷免し、張居正が髙拱に代わって首輔となった。丁丑、髙儀が没した。壬午、禮部尚書の吕調陽を文淵閣大學士兼務として機務に参与させた。
  • 秋七月丁亥、はじめて密雲へ漕運を通じた。庚寅、京官の勤務評定。己亥、廷臣を戒め諭す詔を下した。その趣旨は――近年、士人の気風は薄っぺらになり、官の規範は欠け、老練実直な者を無用と誹り、こざかしく媚びる者を有能と誇る。その結果、朝廷の賞罰の権柄が、臣下どうしの報復の道具にされている。今回は軽く懲戒を示すにとどめ、残りはみな寛大に赦す。諸臣は過去の過ちを洗い流し、ともに新政を支えよ。もし旧習に溺れて公を背き私に走り、祖宗に対して罪を得るならば、朕は赦すことをしない――というものであった。庚子、皇后に仁聖皇太后、貴妃に慈聖皇太后の尊号を奉った。
  • 八月戊午、大社・大稷を祀る。
  • 九月甲午、莊皇帝(穆宗)を昭陵に葬った。
  • 冬十月丙辰、彗星が現れた。己未、侍郎の王遴・吳百朋・汪道昆に手分けして辺防を視察させた。辛酉、刑の執行を停止。
  • 十一月乙未、河川工事が完成。
  • 十二月辛酉、榆林・延綏の飢民を賑恤。甲戌、大喪から一年が経っていないため、翌年の元宵の灯火と宮中の宴を取りやめた。

萬歴元年(1573年)

  • 春二月癸丑、経筵に臨む。甲戌、廣西府江の叛いた猺族が平定された。
  • 三月丙申、内外の官に将才の推挙を詔した。
  • 夏四月乙丑、潮州・恵州の賊が平定された。庚午、旱魃により百官に反省を諭した。
  • 五月甲申、内外の官に刑獄を慎重に扱えと詔した。
  • 六月壬申、淮安の水害を賑恤。
  • 秋七月、黄河が徐州で決壊。
  • 八月癸丑、海運を廃止。
  • 九月癸未、荊州・承天および済南の災害を賑恤。丙戌、四川の都掌蠻が平定された。癸卯、刑の執行を停止。
  • 冬十一月庚辰、諸官庁に期限を記す帳簿を設けさせ、事務の遅滞を防いだ。
  • 十二月己未、遼東の飢民を賑恤。
  • この年、暹羅・琉球が入貢した。

萬歴二年(1574年)

  • 春正月甲午、朝覲に来た清廉有能な官を皇極門で引見した。
  • 二月甲寅、四川の賊の被害を受けた諸県を賑恤。
  • 三月癸巳、孫繼臯らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
  • 夏四月丙寅、内外の官に久しく同じ任にとどまらせる法を行えと詔した。
  • 五月辛丑、穆宗の神主を太廟に合祀した。
  • 八月己巳、山西の災害を賑恤。庚午、淮安・揚州・徐州の水害を賑恤。
  • 冬十月甲寅、囚人の裁決。丁卯、朝に臨んで人事選考を閲した。
  • 閏十二月庚寅、翌年の元宵の灯火を取りやめると詔した。
  • この年、琉球が入貢した。

萬歴三年(1575年)

  • 春正月丁未、太廟に親祭。
  • 二月戊寅、大社・大稷を祀る。辛巳、南京は職務が簡素なので官を定員どおり満たす必要はないと詔した。丙申、はじめて日講官に交替で当直させ、起居を記録し章奏を編纂し、臨朝の際に列侍させた。
  • 夏四月己巳朔、皆既日食があった。壬申、次の十二事を座右に書いて自戒とした。天の戒めを謹むこと、賢能を任じること、賢臣に親しむこと、寵臣や佞人を遠ざけること、賞罰を明らかにすること、出入りを慎むこと、起居を慎むこと、飲食を節すること、放縦な心を引き締めること、敬畏の念を保つこと、忠言を受け入れること、財用を節すること。
  • 五月庚子、淮安・揚州で大水があり、両府の官吏で貪欲・苛酷な者や老病の者を調査して罷免せよと詔した。
  • 六月戊辰、浙江で海が溢れた。戊寅、撫按官に、官吏の賢否を一律に推薦・弾劾し、科挙出身者ばかりを重んじてはならないと命じた。
  • この夏、蘇州・松江・常州・鎮江で大水。
  • 秋八月丙子、禮部侍郎の張四維を禮部尚書兼東閣大學士として機務に参与させた。丁丑、黄河が高郵・碭山で決壊。戊子、淮安・揚州・鳳陽・徐州の水害を受けた田租を免除。
  • 九月戊午、京師に地震。
  • 冬十月丁卯、ふたたび地震があり、群臣に反省を勅した。戊辰、刑の執行を停止。
  • 十一月乙巳、南郊で天を祀る。
  • 十二月辛未、翌年の元宵の灯火を取りやめると詔した。
  • この年、安南・琉球・暹羅・吐魯番が入貢した。

萬歴四年(1576年)

  • 春正月丁巳、遼東巡按御史の劉臺が張居正を論じたため逮捕・下獄され、官籍を削られた。
  • 夏五月戊申、北郊で地を祀る。
  • 六月庚辰、ふたたび宦官を派遣して蘇州・杭州の織造を監督させた。
  • 秋七月丁酉、吏部・戸部に官吏の綱紀を正させ、未納の賦税を差をつけて免除し、翌年の漕糧は十分の三を代納とした。壬寅、御史を遣わして江浙の水利工事を監督させた。甲辰、泗州の祖陵を修築。辛亥、草灣の河川工事が完成。
  • 八月壬戌、先師孔子に釋奠を行った。
  • この秋、黄河が崔鎮で決壊。
  • 冬十月乙亥、徐州および豊・沛・睢寧・金郷・魚台・単・曹の七県の水害を賑恤し、租を差をつけて免除した。
  • この年、安南・琉球・烏斯藏・吐魯番・天方・賽瑪爾堪・魯黙特・哈密が入貢した。

萬歴五年(1577年)

  • 春正月己酉、鳳陽・淮安で営田(屯田)に力を入れよと詔した。
  • 二月乙丑、廣西の飢民を賑恤。
  • 三月乙巳、沈懋學らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
  • 夏五月癸巳、廣東羅旁の叛いた猺族が平定された。
  • 秋八月癸亥、黄河がふたたび崔鎮で決壊。
  • 閏八月乙酉朔、日食があったが雲に隠れて見えなかった。
  • 九月己卯、張居正を喪中から起用して復職させた。
  • 冬十月乙巳、張居正の奪情(喪に服さず留任すること)を論じたとして、編修の呉中行・検討の趙用賢・員外郎の艾穆・主事の沈思孝を杖刑に処し、罷免・追放・辺地流配と差をつけて処分した。丁未、進士の鄒元標を杖刑に処し辺地に流した。
  • 十一月癸丑、星の異変を理由に百官の勤務評定を行った。
  • この年、琉球が入貢した。

萬歴六年(1578年)

  • 春正月、決壊した河の堤を築いた。
  • 二月戊戌、兖州・青州・登州・莱州の管下の未納賦税を免除。庚子、王氏を皇后に立てた。
  • 三月甲寅、禮部尚書の馬自強を文淵閣大學士兼務、吏部侍郎の申時行を東閣大學士兼務として機務に参与させた。甲子、張居正が父を葬るため帰郷した。
  • 夏四月乙未、湖廣・四川の未納賦税を免除。丙午、戸部に金花銀を年二十万両増徴せよと詔した。
  • 六月乙未、張居正が帰朝した。
  • 秋七月乙卯、吕調陽が退官。壬申、宦官三千五百人を選任せよと詔した。丙子、江北諸府の民で十五歳以上の田を持たぬ者に、官から牛一頭と田五十畝を給して開墾させ、三年後に課税すると詔した。
  • 九月庚午、蘇州など諸府で荒地を開墾させ、六年後に課税すると詔した。辛未、刑の執行を停止。
  • 冬十月辛卯、馬自強が没した。
  • 十一月辛酉、南郊で天を祀る。
  • この年、烏斯藏が入貢した。

萬歴七年(1579年)

  • 春正月戊辰、天下の書院を取り壊せと詔した。
  • 二月己丑、使者を手分けして派遣し辺防を視察させた。
  • 三月甲子、淮安・揚州の未納賦税を免除。
  • 夏五月癸亥、北郊で地を祀る。
  • 六月辛卯、両畿・山東・陝西の勲臣・外戚の田賦を調査した。
  • 秋七月壬子、蘇州・松江の水害を賑恤し税糧を免除。戊午、京師に地震。乙丑、水害のため蘇州の織造を停止した。
  • この年、烏斯藏が入貢した。

萬歴八年(1580年)

  • 春二月辛未朔、日食。戊子、耤田を耕す儀を行う。戊戌、河川工事が完成。
  • 三月辛亥、両宮の皇太后を奉じて天寿山に赴き陵に謁し、通過した地の田租を免除。甲寅、還宮。丁卯、張懋修らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
  • 夏閏四月庚申、廣西八寨の賊が平定された。
  • 冬十月辛丑、内外の余剰の官を整理。乙巳、蘇州・松江・常州・鎮江の飢民を賑恤。
  • 十一月丙子、民の田を検地せよと詔した。
  • この年、琉球が入貢した。

萬歴九年(1581年)

  • 春正月庚午、辺境の臣に警備を固めよと勅した。辛未、諸官庁の余剰の官を削減。癸酉、土黙特が錦州を侵し、遊撃の周之望が敗れて戦死した。己卯、翰林官を毎日四人ずつ当直させた。辛巳、南京の余剰の官を削減。甲申、遼東總兵官の李成梁が鄂蘭圖で土黙特を襲って破った。
  • 三月丙寅、大閲兵。この月、土黙特が遼陽を侵し、副總兵の曹簠が防いだが敗れた。
  • 夏四月丁酉、山西の被災州県を賑恤。乙卯、蘇州・松江・淮安・鳳陽・徐州・宿州の災害を賑恤。戸部が『萬歴會計録』を進呈した。
  • 秋八月丁未、揚州で大水。
  • 九月丁亥、刑の執行を停止。
  • 冬十月己亥、土黙特が広寧・義州を侵したが、李成梁が防ぎ退けた。
  • 十一月丙戌、真定・順徳・広平の災害を賑恤し税糧を免除。
  • この年、各省の余剰の官を整理し、徭役・賦税を調査し、諸官庁の不正な支出と無駄な経費を削った。琉球・安南・吐魯番・天方・賽瑪爾堪・魯黙特・哈密・烏斯藏が入貢した。

萬歴十年(1582年)

  • 春二月癸巳、順義王の諳達が没した。丁酉、天下の積年の未納賦税を免除。
  • 三月庚申、杭州で兵変が起き、巡撫の呉善言が捕らえられた。丁卯、兵部侍郎の張佳允を浙江巡撫として討伐・鎮定させた。丙子、泰寧衛の部長蘇巴爾噶が義州を侵したが、李成梁が撃って斬った。己卯、倭が温州を侵した。
  • 夏四月戊子朔、禮部に諭して、民に時節に応じた農桑を勧め、遊惰に流れさせぬようにさせた。甲午、寧夏の土軍の馬景が參將の許汝繼を殺し、巡撫都御史の晉應槐が討って誅した。庚子、久しい旱魃により反省を勅した。
  • 五月庚申、先師孔子および宋儒の朱熹・李侗・羅從彦・蔡沈・胡安國・游酢・真徳秀・劉子翬、故大學士の楊榮の子孫の賦役を差をつけて免除した。庚辰、畿内の飢民を賑恤。
  • 六月丁亥朔、日食。壬寅、太原・平陽・潞安の飢民を賑恤。乙巳、前禮部尚書の潘晟を武英殿大學士兼務、吏部侍郎の余有丁を禮部尚書兼文淵閣大學士として機務に参与させたが、潘晟はほどなく罷免された。丙午、張居正が没した。
  • 秋七月庚午、平涼・慶陽・延安・臨洮・鞏昌の飢民を賑恤。
  • 九月丙辰、皇長子の誕生により詔して天下に赦を行った。甲子、両宮の皇太后に徽号を奉った。
  • 冬十月丙申、蘇州・松江の大水に対し免税と賑恤を差をつけて行った。
  • 十二月壬辰、太監の馮保を奉御に降格し、その家財を没収した。壬寅、直言して処罰された諸臣の官職を回復した。
  • この年、畿内・山西の被災地の税糧を免除。哈密・烏斯藏が入貢した。

萬歴十一年(1583年)

  • 春正月壬戌、辺境の防備を厳にせよと勅した。
  • 閏二月甲子、諳達の子の徹辰汗が順義王を襲封した。緬甸が永昌を侵した。乙丑、天寿山に赴いて九陵に謁し、通過した地の田租を免除。庚午、西山に赴いて恭讓章皇后および景皇帝の陵に謁した。辛未、還宮。乙酉、臨洮・鞏昌・平涼・延安・慶陽の五府の旱害を賑恤し田租を免除。
  • 三月甲申、張居正の官階を追奪した。庚子、朱國祚らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
  • 夏四月丁巳、張四維が喪のため職を去った。己未、吏部侍郎の許國を禮部尚書兼東閣大學士として機務に参与させた。甲戌、承天で大雨があり江が溢れた。この月、廣東羅定で兵変があった。
  • 五月、我が大清の太祖髙皇帝が兵を起こして尼堪外蘭を征し、圖倫城を攻め落とした。
  • 六月乙丑、承天・漢陽・鄖陽・襄陽の災害を賑恤。
  • 秋八月丙辰、山西の被災地の税糧を免除。
  • 九月甲申、天寿山に赴いて陵に謁し、己丑に還宮。
  • 冬十月癸亥、刑の執行を停止。辛未、河南の水害に対し免税と賑恤を差をつけて行った。
  • 十一月己卯朔、日食。
  • 十二月庚午、慈寧宮が火災に遭い、反省を勅した。
  • この年、琉球が入貢した。

萬歴十二年(1584年)

  • 春二月丁卯、京師に地震。己巳、建文の諸臣の外戚で流配された者の子孫を釈放した。
  • 三月己亥、江西で焼成する磁器を減らした。
  • 夏四月乙卯、張居正の家財を没収した。丁巳、遊撃将軍の劉綎が隴川の賊を討ち平らげた。
  • 五月甲午、京師に地震。
  • 六月辛亥、雲南の用兵のため税糧と未納賦税を免除。
  • 秋八月丙辰、張居正の罪状を天下に掲示し、家族を辺地に流した。
  • 九月丙戌、両宮の皇太后を奉じて天寿山に赴き陵に謁した。己丑、寿宮(自身の陵)を造営。辛卯、還宮。
  • 冬十月丁巳、刑の執行を停止。丙寅、湖廣・山東の被災地の税糧を免除。
  • 十一月己丑、余有丁が没した。
  • 十二月甲辰、前禮部侍郎の王錫爵を禮部尚書兼文淵閣大學士、吏部侍郎の王家屏を東閣大學士兼務として機務に参与させた。癸亥、銀鉱の開発を取りやめた。
  • この年、安南・烏斯藏が入貢した。

萬歴十三年(1585年)

  • 春正月辛卯、四川建武所で兵変が起き、總兵の沈思學が撃たれて負傷した。
  • 二月丁未、南京に地震。京師は前年八月から雨が降らず、この月に至った。庚午、大規模な雨乞いを行った。
  • 三月甲申、雨乞い。己丑、李成梁が塞外に出て巴圖嚕綽哈を襲い、大いに破った。壬辰、杭州の織造および尚衣監の材料銀を減らした。
  • 夏四月丙午、雨乞い。戊申、旱魃のため中央・地方に冤罪を正させ、鳳陽に幽閉された軽犯および長年禁錮されていた罪ある宗室を釈放した。戊午、徒歩で南郊に赴いて祈り、大學士らに面と向かって「旱魃は朕の不徳によるとはいえ、天下の官吏が貪欲に小民を虐げ、それが天の調和を乱したのでもある。今後は官吏の選任を慎むように」と諭し、天下の被災地の田租を一年免除した。
  • 五月丙戌、雨が降った。
  • 六月辛丑、慈寧宮が完成。壬寅、建武所の反乱兵が処刑された。この月、四川松潘・茂州の番族が反乱を起こした。
  • 秋八月己酉、京師に地震。
  • 九月丁丑、尚寶司少卿の徐貞明に御史を兼ねさせ墾田使として京畿の水田開発を監督させた。
  • 閏九月戊戌、淮安・鳳陽の災害を賑恤。癸卯、天寿山に赴いて寿宮を検分し、戊申に還宮。庚申、刑の執行を停止。
  • 冬十二月丁卯、惜薪司の宦官の余剰人員を整理した。この月、順義王の徹辰汗が没した。
  • この年、吐魯番・烏斯藏が入貢した。

萬歴十四年(1586年)

  • 春二月癸未、地方官の贈答を厳禁した。
  • 三月戊戌、旱魃と土ぼこりの霞のため廷臣に時政を述べさせた。癸卯、六部の属官が政事を論じることを禁じ、京畿の水田開発を取りやめた。癸丑、唐文獻らに進士及第・出身を差をつけて賜った。戊午、長く続く旱魃のため反省を勅した。
  • 夏四月癸酉、京師に地震。
  • 六月癸未、松潘・茂州の叛いた番族が平定された。
  • この夏、直隷・河南・陝西および廣西の潯州・柳州・平楽、廣東の瓊山など十二県の飢民を賑恤した。山西で盗賊が蜂起した。
  • 秋七月癸卯、江西の災害を賑恤。戊申、戸部・兵部に被災民を慰撫し保甲を厳しく行えと勅した。この月、淇県の賊王安が徒党を集めて掠奪したが、まもなく討ち平らげられた。
  • 九月壬辰、王家屏が喪のため職を去った。乙卯、刑の執行を停止。己未、内帑を出し使者を遣わして河南・山東・直隷・陝西・遼東・淮安・鳳陽の災害を賑恤した。
  • 冬十月丙寅、禮部主事の盧𢎞春が疾病への養生を請う上疏をしたため、宮門下で杖刑に処され官籍を削られた。
  • 十一月癸卯、南郊で天を祀る。
  • この年、吐魯番が入貢した。

萬歴十五年(1587年)

  • 春正月壬辰、内帑を出して山西・河南・山東・陝西の諸宗室を賑恤した。
  • 三月乙卯、徹辰汗の子の徹哩克が順義王を襲封した。
  • 夏四月、京師で旱魃と大疫。
  • 六月戊辰、廷臣の奢侈・僭越を禁じた。この月、京師で大雨があり、貧民を賑恤した。
  • 秋七月、江北で蝗害、江南で大水、山西・陝西・河南・山東で旱魃、黄河が開封で決壊し、免税と賑恤を差をつけて行った。
  • 八月庚申、災異が続くため、撫按官に貪吏を懲らし冤罪を正し、租を免じて賑恤せよと勅した。
  • 九月丁亥朔、日食があるはずだったが雲に隠れて見えなかった。己丑、刑の執行を停止。
  • 冬十月庚申、大學士の申時行が、宮中に留め置かれたままの上奏文を下付するよう請うた。
  • 十一月戊子、鄖陽で兵が騒擾し、巡撫都御史の李材が罷免された。
  • この年、哈密・琉球・烏斯藏が入貢した。

萬歴十六年(1588年)

  • 春三月壬辰、景皇帝の実録を改め、郕戾王の号を削れと詔したが実行されなかった。山西・陝西・河南および南畿・浙江でともに大飢饉と疫病。
  • 夏四月、江北・大名・開封など諸府の飢民を賑恤。
  • 五月、四川建昌の番族が反乱を起こしたが討ち平らげた。乙巳、軍糧倉の火災と各省の災害により、内外の官に反省を勅した。
  • 六月庚申、京師に地震。甲子、災害のため蘇州・杭州の織造を停止・減額した。
  • 秋七月乙卯、山東の被災地の夏税を免除。庚午、辺境の臣の勤務評定法を定めた。
  • 八月乙未、太倉の銀二十万両を取って陵参拝の賞賜費に充てよと詔した。
  • 九月己未、刑の執行を停止。庚申、天寿山に赴いて寿宮を検分。甲子、石景山に宿り渾河を観た。乙丑、還宮。庚午、甘粛で兵変が起き、巡撫都御史の曹子登が罷免された。この月、青海の部長塔布囊が西寧を侵し、副總兵の李魁を殺した。
  • 冬十一月辛酉、上奏文が冗長に流れることを禁じた。
  • この年、烏斯藏が入貢した。

萬歴十七年(1589年)

  • 春正月己酉朔、日食。丁巳、太湖・宿松の賊劉汝國らが反乱を起こし、安慶指揮の陳越が討ったが敗れて戦死した。
  • 二月丙申、呉淞指揮の陳懋功がこれを討ち平らげた。
  • 三月丙辰、昇進・任官した官が面と向かって謝辞を述べる儀を免じ、これ以後、朝に臨むことがまれになった。癸亥、雲南永昌で兵変。乙丑、焦竑らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
  • 夏四月、南畿・浙江・江西・湖廣で大旱魃。己亥、王家屏がふたたび入閣した。始興で妖僧の李圓朗が反乱を起こして南雄を侵したが、官司が討って誅した。
  • 六月甲申、浙江で大風が吹き海が溢れた。己丑、永昌の反乱兵が平定された。乙巳、南畿・浙江で大旱魃となり太湖の水が涸れたので、内帑の金八十万を出して賑恤した。
  • 秋八月壬寅、匿名の投書の禁を厳しくした。
  • 冬十月癸未、刑の執行を停止。癸卯、黄河の決口の工事が完成。
  • 十二月己丑、諸臣に、事にあたって怒りにまかせて争い勝とうとしてはならないと諭した。
  • この年、安南・烏斯藏が入貢した。

萬歴十八年(1590年)

  • 春正月甲辰朔、大學士の申時行らを毓徳宮に召し、皇長子を出して引き合わせた。
  • 夏四月甲申、湖廣の飢民を賑恤。
  • 六月己卯、畿内の被災地の夏税を免除。甲申、青海の部長浩爾齊が旧洮州を侵し、副總兵の李聨芳が敗れて戦死した。乙酉、宗藩の事例を改め、はじめて爵位を持たぬ者に自由な生業を許した。
  • 秋七月庚子朔、日食。乙丑、閣臣を召して辺事を議し、廷臣に将才を推挙させた。己巳、兵部尚書の鄭雒に陝西四鎮および山西・宣府・大同の辺務を経略させた。この月、浩爾齊がふたたび河州を侵し、臨洮總兵官の劉承嗣が敗れた。
  • 八月癸酉、徹哩克への市賞(互市の恩賞)を停止した。
  • 冬十月戊寅、臨洮の兵災を受けた軍民を賑恤。
  • 十二月甲申、廷臣九人を遣わして辺境を視察させた。この月、河套部の長布色圖が永昌を侵したが、總兵官の張臣がこれを破った。
  • この年、安南が入貢した。

萬歴十九年(1591年)

  • 春正月、緬甸が永昌・騰越を侵した。
  • 二月乙酉、總兵官の尤繼先が莽拉川で浩爾齊の残兵を破った。
  • 閏三月丁丑、彗星が現れたため反省を勅した。己卯、給事中・御史が風聞をもとに上を誹ったと責め、それぞれ一年分の俸禄を奪った。
  • 夏四月丙申、太廟に親祭。これ以後、廟の祭祀はみな代理を遣わすようになった。
  • 五月壬午、四川の四哨の番族が反乱を起こし、巡撫都御史の李尚思が討ち平らげた。
  • 六月壬子、王錫爵が郷里の親を見舞うため帰った。
  • 秋七月癸未、廷臣に諭して、国政の議論が紛糾して大臣が争って辞職を願い出るに至っている、今後みだりに人を誣告する者は厳しく処断すると告げた。
  • 八月丁酉、河南の被災地の田賦を免除。
  • 九月壬申、許國が退官。甲戌、申時行が退官。丁丑、吏部侍郎の趙志臯を禮部尚書、前禮部侍郎の張位を吏部侍郎とし、ともに東閣大學士を兼ねさせて機務に参与させた。
  • 冬十月癸巳、京営の軍官が長安門で騒いだ。
  • 十二月甲午、外戚の荘田の定めを詔した。癸丑、河套部が榆林を侵し、延綏總兵官の杜桐がこれを破った。
  • この年、畿内で蝗害、南畿・浙江で大水があり、免税と賑恤を差をつけて行った。琉球が入貢した。

萬歴二十年(1592年)

  • 春正月丙戌、給事中の孟養浩が皇太子の建立を論じたため、宮門下で杖刑に処され官籍を削られた。
  • 三月戊辰、寧夏の退官した副總兵の巴拜が巡撫都御史の党馨と副使の石繼芳を殺し、城に拠って反乱を起こした。辛未、王家屏が退官。壬申、總督軍務兵部尚書の魏學曽に寧夏の賊を討たせた。戊寅、翁正春らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
  • 夏四月甲辰、總兵官の李如松に陝西の討賊軍務を提督させた。甲寅、甘粛巡撫都御史の葉夢熊が軍を率いて魏學曽と合流し賊を討った。徹哩克が賊を捕らえて関門に来て俘虜を献じたので、二年分の市賞を復活させた。
  • 五月、倭が朝鮮を侵して王京を陥れ、朝鮮王の李昖は義州に逃れて救援を求めた。
  • 六月丁未、諸軍が進んで寧夏に迫った。賊は河套部を誘い込んで侵入させたが、官軍がこれを撃退した。
  • 秋七月癸酉、陝西の未納賦税を免除。甲戌、副總兵の祖承訓が軍を率いて朝鮮を援け、平壌で倭と戦って敗れた。甲申、三邊總督の魏學曽を罷免し葉夢熊を代わりとし、まもなく魏學曽を逮捕して下獄させた。
  • 八月乙巳、兵部右侍郎の宋應昌に備倭軍務の経略を命じた。己酉、天下の督撫に将才を推挙させた。
  • 九月壬申、寧夏の賊が平定された。
  • 冬十月壬寅、李如松に薊遼・保定・山東の軍務を提督させ、防海禦倭總兵官として朝鮮を救援させた。この月、畿内・浙江・河南の被災諸府を賑恤し、租を差をつけて免除した。
  • 十一月戊辰、午門に出御して寧夏の俘虜を受けた。
  • 十二月甲午、寧夏の賊の平定を天下に告げた。
  • この年、暹羅・吐魯番が入貢した。

萬歴二十一年(1593年)

  • 春正月甲戌、李如松が平壌の倭を攻めてこれを陥れた。辛未、王錫爵が帰朝。辛巳、三人の皇子をあわせて王に封じると詔したが、廷臣が強く争い、まもなく取り消しが伝えられた。壬午、李如松が進んで王京を攻め、碧蹄館で倭と遭遇して敗れた。
  • 二月甲寅、東征の将士をねぎらう勅を下した。
  • 夏四月癸卯、倭が王京を棄てて逃走した。
  • 六月丁酉、天下に毎年夏に囚人を再審し軽罪の囚人を減免すること、両京の例に倣うよう詔した。癸卯、倭の使者小西飛が講和を請うた。
  • 秋七月癸丑、朝鮮救援に出した諸辺鎮の兵を呼び戻した。乙卯、彗星が現れ、反省を勅した。
  • 八月丙戌、災異により内外の諸臣に実効ある政治を挙行せよと戒めた。
  • 冬十月丙申、刑の執行を停止。
  • 十二月丙辰、薊遼總督の顧養謙に朝鮮の事を兼務させ、宋應昌・李如松を呼び戻した。
  • この年、江北・湖廣・河南・浙江・山東の飢民を賑恤した。河南で鉱山の賊が大いに蜂起した。烏斯藏が入貢した。

萬歴二十二年(1594年)

  • 春正月己亥、詔して――各省の災害のうち山東・河南・徐州・淮安がとくにひどく、盗賊が各地に起こっているのに官司は怠って朝廷の詔令が行われていない。今後は民を安んじ盗を鎮めることを撫按・官司の昇降の基準とする――と定めた。
  • 二月癸丑、皇長子の常洛が出閣して講学を始めた。甲子、使者を遣わして河南を賑恤し田租を免除。
  • 三月癸卯、国史の編修を詔した。
  • 夏四月己酉朔、日食。
  • 五月辛卯、禮部尚書の陳于陛と南京禮部尚書の沈一貫にともに東閣大學士を兼ねさせ機務に参与させた。庚子、王錫爵が退官。
  • 六月己酉、雷雨があり西華門が被災したので反省を勅した。
  • 秋七月丙申、河套部の長布色圖が延綏を侵した。この月、延綏總兵官の麻貴が下馬関で河套部を破った。
  • 冬十月己未、南京兵部右侍郎の邢玠に川貴の軍務を総督させ、播州宣慰使の楊應龍を討たせた。丁卯、倭の使者の入朝を詔した。この月、綽哈が遼東を侵したが、總兵官の董一元がこれを破った。
  • この年、琉球・烏斯藏が入貢した。

萬歴二十三年(1595年)

  • 春正月癸卯、都督僉事の李宗城と指揮の楊方亨を遣わし、平秀吉を日本国王に封じさせた。
  • 三月乙未、朱之蕃らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
  • 夏五月丁酉、京師に地震があり、反省を勅した。
  • 秋九月戊寅、青海の部長永什卜が甘粛を侵したが、參將の達雲がこれを破った。乙酉、建文の年号を復活させると詔した。
  • 冬十一月辛未、湖廣の災害に対し免税と賑恤を差をつけて行った。
  • 十二月辛丑、大學士の趙志臯らが宮中に留め置かれた上奏文の下付を請うたが、返答はなかった。
  • この年、江北で大水があり、淮水が溢れて泗州の祖陵を浸した。

萬歴二十四年(1596年)

  • 春二月戊申、麻貴が河套部を襲って破った。
  • 三月乙亥、乾清宮・坤寧宮の両宮が火災に遭い、反省を勅した。壬辰、詔を下して自らを責めた。この月、浩爾齊が洮河を侵したが、總兵官の劉綎がこれを破って敗走させた。
  • 夏四月己亥、李宗城が倭の陣営から王京へ逃げ帰った。
  • 五月戊辰、河套部が甘粛を侵したが、總兵官の楊濬がこれを撃破した。庚午、ふたたび倭の冊封を議し、都督僉事の楊方亨と遊撃の沈惟敬を派遣し、李宗城を逮捕して下獄させた。
  • 六月、福建の飢民を賑恤。
  • 秋七月丁卯、吏部尚書の孫丕揚が官員の推薦・補任に関する上疏の下付を請うたが、返答はなかった。戊寅、仁聖皇太后が崩じた。乙酉、はじめて宦官を遣わして畿内で鉱山を開かせ、まもなく河南・山東・山西・浙江・陝西でもことごとく採掘を命じ、宦官にこれを統轄させた。群臣がたびたび諫めたが聴き入れなかった。
  • 閏八月乙丑朔、日食。丁卯、大學士の趙志臯が、朝に臨むこと、上奏文を下付すること、採鉱をやめることを請うたが、返答はなかった。
  • 九月乙未、楊方亨が日本に至ったが、平秀吉は冊封を受けず、ふたたび朝鮮を侵した。乙卯、孝安莊皇后を葬った。この月、河套部が寧夏を侵したが、總兵官の李如松がこれを撃破した。
  • この秋、黄河が黄堌口で決壊。
  • 冬十月丙子、刑の執行を停止。乙酉、はじめて宦官に通州の商税徴収を命じ、これ以後、各省にみな税使が置かれた。群臣がたびたび諫めたが聴き入れなかった。
  • 十二月乙亥、陳于陛が没した。