明史卷十九 本紀第十九 穆宗
明の穆宗 朱載垕(?–1572年)、世宗の第三子で母は杜康妃。嘉靖十八年に裕王に封ぜられ、莊敬太子の没後に世宗が継承の順序を定めた。嘉靖四十五年十二月に即位して翌年を隆慶と改元し、遺詔によって先朝の弊政を改め、方士を処罰し齋醮と造営を廃し、海瑞を釈放した。在位六年、諳達を順義王に封じて封貢と互市を許し、北辺は平穏を得た。しかし高拱・徐階・趙貞吉ら閣臣の争いが続き、隆慶六年五月に三十六歳で崩じ、高拱・張居正・高儀に顧命を託した。
年表(25件)
- 嘉靖十八年1539年二月、裕王に封ぜられ、莊敬太子・景恭王と同日に冊命を受ける
- 嘉靖四十五年1566年十二月、世宗の崩御を受けて即位し、翌年を隆慶元年と改めて大赦する
- 嘉靖四十五年1566年遺詔により方士を処罰し齋醮・造営を廃し、海瑞を獄から釈放する
- 隆慶元年1567年正月、睿宗の明堂配享を廃し、生母康妃を孝恪皇太后と追尊する
- 隆慶元年1567年二月、陳氏を皇后に冊立し、陳以勤と張居正を入閣させて機務に参与させる
- 隆慶元年1567年三月、世宗を永陵に葬る
- 隆慶元年1567年五月、黄河決口の工事が完成し、高拱が罷免される
- 隆慶元年1567年九月、諳達が石州を陥れ、土黙特が薊鎮を侵して京師が戒厳となる
- 隆慶二年1568年三月、皇子の翊鈞を皇太子に立てて天下に赦を行う
- 隆慶二年1568年七月、徐階が退官する
- 隆慶二年1568年十二月、世宗の神主を太廟に合祀し、勲臣・外戚の荘田に上限を設ける
- 隆慶三年1569年八月、広東の賊が平定されて曽一本が処刑され、趙貞吉が入閣する
- 隆慶三年1569年十二月、東廠・錦衣衛に部院の政事を内偵させ、高拱を召して閣に復帰させる
- 隆慶四年1570年三月、三大営に文武の提督六人を分けて置く
- 隆慶四年1570年九月、京営の文武提督を廃し、總督と協理大臣を置く
- 隆慶四年1570年十月、諳達の孫の巴噶奈濟が来降し、指揮使とされる
- 隆慶四年1570年十一月、諳達が封爵を乞い、趙貞吉が罷免され殷士儋が入閣する
- 隆慶四年1570年十二月、諳達が叛人の趙全ら九人を捕らえて献じ、趙全らを市中で磔にする
- 隆慶五年1571年三月、諳達を順義王に封じる
- 隆慶五年1571年五月、古田の獞賊が平定され、李春芳が退官する
- 隆慶五年1571年八月、河套部との互市を許し、九月に三鎮の貢市が成立する
- 隆慶六年1572年正月、徐州から宿遷まで三百七十里の堤を築く
- 隆慶六年1572年閏二月、皇極殿門に出御した際に発病して急ぎ還宮する
- 隆慶六年1572年五月、高拱・張居正・高儀に顧命を託し、乾清宮で崩じる。年三十六
- 隆慶六年1572年七月、廟号を穆宗として昭陵に葬る
出自と生い立ち
- 穆宗契天隆道淵懿寛仁顯文廣武純徳𢎞孝莊皇帝、諱は載垕。世宗の第三子で、母は杜康妃。
- 嘉靖十八年(1539年)二月、裕王に封ぜられ、莊敬太子・景恭王と同じ日に冊命を受けた。
- のちに莊敬太子が没し、世宗は裕王が年長で賢明であることから継承の順序を定めたが、朝廷内外に危ぶみ疑う声が絶えず、たびたび建言する者があったため、景王を任国へ下らせた。
- 嘉靖四十五年(1566年)十二月庚子、世宗が崩じ、壬子に皇帝の位に即いた。翌年を隆慶元年と改め、天下に大赦した。
- 先朝の政令のうち不都合なものはすべて遺詔によって改めた。直言して罪を得た諸臣を召し出して用い、死んだ者には撫恤と名誉回復を行った。方士はことごとく司法官に引き渡して処罰し、いっさいの齋醮(道教の祭祀)・造営工事および定例外の買い上げを廃止した。翌年の天下の田賦の半分と、嘉靖四十三年(1564年)以前の未納分を免除し、戸部主事の海瑞を獄から釈放した。
- この年、吐魯番が入貢した。
隆慶元年(1567年)
- 春正月丙寅、睿宗の明堂配享を廃止。戊辰、鄭王厚烷の爵位を回復。丁丑、生母康妃を孝恪皇太后と追尊した。
- 二月戊子、大社・大稷を祭る。乙未、妃の陳氏を皇后に冊立。吏部侍郎の陳以勤を禮部尚書兼文淵閣大學士とし、禮部侍郎の張居正を吏部左侍郎兼東閣大學士として機務に参与させた。
- 三月壬申、肅皇帝(世宗)を永陵に葬る。乙酉、土黙特が遼陽を侵し、指揮の王承徳が戦死した。
- 夏四月丙戌朔、太廟に親祭。丙午、属国が珍禽異獣を献上することを禁じた。丁未、経筵に臨んだ。
- 五月己未、黄河決口の工事が完成。辛酉、北郊で地を祀る。丁丑、髙拱が罷免された。
- 六月戊戌、長雨により反省の意を示し、素服で正殿を避け、皇極門で政務を執った。この月、新河がふたたび決壊した。
- 秋七月辛巳、山東・河南の被災流民を招撫し、五年間の課役を免除した。
- 八月癸未朔、先師孔子に釋奠を行った。
- 九月乙卯、諳達が大同に侵入し、戦守を厳にせよと詔した。癸亥、諳達が石州を陥れ、知州の王亮采を殺し、交城・文水を掠奪した。壬申、土黙特が薊鎮を侵し、昌黎・盧龍を掠め灤河にまで及んだので、宣大總督侍郎の王之誥を懐来に帰駐させ、巡撫都御史の曹亨を通州に駐屯させた。甲戌、郭朴が退官。襄陽・鄖陽の被災地の秋糧を免除。乙亥、總兵官の李世忠が永平を救援し、撫寧で敵と戦い、京師は戒厳となった。
- 冬十月丙戌、敵が退いて京師の戒厳を解いた。甲辰、群臣に辺防の事宜を議せよと諭した。寧夏總兵官の雷龍が塞外に出て河套部を迎え撃ち、これを破った。
- 十一月癸亥、南郊で天を祀った。
- この年、広東で賊が大いに蜂起し、琉球が入貢した。
隆慶二年(1568年)
- 春正月己卯、給事中の石星が六箇条を上疏したため、宮門下で杖刑に処し庶民に落とした。
- 二月丁酉、敵が柴溝堡を侵し、守備の韓尚忠が戦死。己亥、耤田を耕す儀を行う。丁未、天寿山に赴いて長陵・永陵に謁し、庚戌に還宮。通過した地の田租を差をつけて免除した。
- 三月辛酉、皇子の翊鈞を皇太子に立て、詔して天下に赦を行った。乙丑、廣西總兵官の俞大猷に広東の賊を討たせた。戊辰、羅萬化らに進士及第・出身を差をつけて賜った。丙子、南海子に行幸。戊寅、京師に地震があり、百官に反省を命じた。
- 夏六月庚辰、両畿に使者を遣わして囚人を再審させた。己丑、広東の賊曽一本が広州を侵し、知県の劉師顔を殺した。
- 秋七月己酉、賊が廉州に入る。丙寅、徐階が退官した。
- 冬十月戊寅、南畿の被災地の秋糧を免除し、淮・徐の飢民を賑恤した。己亥、遼王憲㸅が僭上・奢侈で法を犯したため廃して庶人とした。甲辰、畿内・河南の被災地の秋糧を免除。
- 十一月壬子、宣府總兵官の馬芳が長水海子で諳達を襲い、さらに鞍子山でこれを破った。辛酉、江西の被災地の税糧を免除。戊辰、南郊で天を祀る。己巳、広東・福建の総督・巡撫と将領に、合同で曽一本を討伐せよと命じた。
- 十二月庚寅、世宗の神主を太廟に合祀した。丁酉、勲臣・外戚の荘田に上限を設けた。
- この年、琉球が入貢した。
隆慶三年(1569年)
- 春正月壬子、大同總兵官の趙岢が𢎞賜堡で諳達を破った。
- 二月庚辰、陝西の被災地の秋糧を免除。
- 三月戊辰、曽一本が碣石衛を陥れ、禆将の周雲翔が參將の耿宗先を殺して叛き、賊に加担した。
- 夏四月己丑、總兵官の盧龍が塞外に出て河套部を襲い、これを破った。
- 五月庚戌、總兵官の郭成らが平山で賊を破り、周雲翔は処刑された。甲寅、御史の詹仰庇が無駄な出費の廃止を請うたため、庶民に落とされた。
- 秋七月壬午、黄河が沛県で決壊。乙酉、天下の官司に穀物の備蓄と備荒の政を実際に行えと詔した。壬辰、使者を遣わして沿河の被災州県を賑恤した。
- 八月癸丑、広東の賊が平定され、曽一本が処刑された。壬戌、禮部尚書の趙貞吉を文淵閣大學士兼務として機務に参与させた。丁卯、南畿・浙江・山東の水害を賑恤。
- 九月丙子、諳達が大同を侵し、山陰・応州・懐仁・渾源を掠めた。辛卯、大閲兵を行った。
- 冬十一月甲戌、南郊で天を祀る。庚辰、京師に音を伴う地震があり、反省を命じる勅を下した。
- 十二月己亥、東廠・錦衣衛に部院の政事を内偵させた。庚申、髙拱を召して閣に復帰させた。乙丑、尚寶司丞の鄭履淳が上言により廷杖のうえ下獄。
- この冬、両畿・山東・浙江・河南・湖廣の税糧を免除した。
- この年、陝西で賊が蜂起し、琉球と吐魯番が入貢した。
隆慶四年(1570年)
- 春正月乙巳朔、日食があり、朝賀を取りやめた。辛未、正殿を避けて反省の意を示した。この月、倭が広海衛城に侵入した。
- 三月壬午、三大営に文武の提督六人を分けて置いた。
- 夏四月戊戌、京師に地震。乙巳、諳達が大同・宣府を侵したが、官軍がこれを撃退した。この月、陝西の賊が四川を侵した。
- 五月癸酉、給事中の李已が金銀財宝の買い上げを諫め、廷杖のうえ下獄。李吾徳(李已・陳吾徳の二人を指すか)は庶民に落とされた。
- 秋七月己巳、上奏文が冗長に流れることを禁じ、撫按官に官司の酷刑を厳禁させた。戊子、陳以勤が退官。乙未、四川の被災地の税糧を免除。
- 八月庚戌、宣府・大同から警報があり、辺境の防備を勅した。
- 九月癸酉、陝西の水害に対し免税と賑恤を差をつけて行った。甲戌、黄河が邳州で決壊。壬午、北畿・湖廣の被災地の税糧を免除。癸未、諳達がふたたび大同を侵し、副總兵の錢棟が戦死。戊子、錦州を侵し、總兵官の王治道らが戦死した。甲午、京営の文武提督を廃し、總督と協理大臣を置いた。
- 冬十月癸卯、諳達の孫の巴噶奈濟が来降。丁未、巴噶奈濟を指揮使とした。壬戌、給事中・御史の勤務評定を行った。
- 十一月丁丑、諳達が封爵を乞うた。己卯、南郊で天を祀る。乙酉、趙貞吉が罷免。己丑、禮部尚書の殷士儋を文淵閣大學士兼務として機務に参与させた。
- 十二月丁酉、諳達が叛人の趙全ら九人を捕らえて献じたので、詔して巴噶奈濟を帰らせ、手厚く下賜した。乙卯、俘虜を受け、趙全らを市中で磔刑に処した。
隆慶五年(1571年)
- 春二月甲午、廷臣および朝覲の官が文華左門で皇太子に謁した。己未、皇子の翊鏐を潞王に封じた。
- 三月己卯、張元忭らに進士及第・出身を差をつけて賜った。己丑、諳達を順義王に封じた。
- 夏四月甲午、黄河がふたたび邳州で決壊。
- 五月壬戌、古田の獞賊が平定された。戊寅、李春芳が退官。
- 六月辛卯、京師に三度地震があり、反省を勅した。甲辰、河套部の長である吉納を都督同知に任じた。甲寅、順義王諳達が馬を貢いだので、太廟に報告し祝賀を受けた。丙辰、諳達が趙全の残党十三人を捕らえて献じた。
- 秋八月癸卯、河套部との互市を許可した。
- 九月癸未、三鎮の貢市が成立した。
- 冬十月己亥、河南・山東で大水があり、河防の引き締めを命じた。
- 十一月己巳、殷士儋が退官。
- この年、琉球と吐魯番が入貢した。
隆慶六年(1572年)
- 春正月辛未、徐州から宿遷まで三百七十里の堤を築いた。
- 二月丙申、倭が広東を侵して神電衛を陥れ、大いに掠奪し、山賊もふたたび蜂起した。
- 閏二月丁卯、皇極殿門に出御した際に発病し、急ぎ還宮した。乙亥、倭が高雷を侵したが、官軍がこれを撃破した。
- 夏四月戊辰、禮部尚書の髙儀を文淵閣大學士兼務として機務に参与させた。
- 五月壬辰、広東の用兵に関わった諸郡の未納分を免除。己酉、病が重篤となり、大學士の髙拱・張居正・髙儀を召して顧命を託した。庚戌、乾清宮で崩御、享年三十六。
- 七月丙戌、尊諡と廟号を穆宗と奉り、昭陵に葬った。
史論
贊に言う。穆宗は在位六年、慎み深く構えて多くを企てず、みずから倹約を行い、供御の食費だけでも年に巨万を節約した。諳達の封貢を許し、賦税を減じて民を休ませたので、辺境は平穏となり、まずまずの小康を得たといえる。ただし権柄を握る臣たちが互いに傾け合い、党派の争いが芽生えたのに、帝は綱紀を引き締めて積年の弊習を正すことができなかった。寛容さは十分でも、剛毅明察が足りなかった人というべきであろうか。