明史卷十四 本紀第十四 憲宗二

明の憲宗 朱見深の成化十二年から崩御までを記す巻。鄖陽府を置いて荆襄の流民を落ち着かせ、雲南巡撫をはじめて設ける一方、西厰を置いて太監 汪直に探索を委ね、商輅・項忠らを退けた。李孜省・顧玒・鄧常恩ら方士や道士を用い、伝奉によって任じた官が五百六十余人に及ぶなど人事は乱れた。辺境では伊斯瑪音・小王子の侵入が続き、成化二十三年八月に四十一歳で崩じ、茂陵に葬られた。

年表(28件)

成化十二年(1476年)

  • 春正月辛亥、南京で音を伴う地震。戊午、南郊で天地を大祀した。
  • 二月乙亥朔、日食。甲午、群臣に修省を命じる敕を下した。
  • 三月壬子、内府の供用物を減らした。壬戌、李震が靖州の苖を大破した。
  • 夏五月丁卯、副都御史の原傑に荆襄の流民の撫治を命じた。庚申、囚人の記録調べを行った。
  • 秋七月庚戌、黒𤯝(黒い妖気)が現れた。乙丑、帝は禁中で天地に自ら祈り、用度が節度を欠くこと・工役が民を疲れさせていること・忠言が届かぬこと・仁政が行われぬことの四事を挙げて自らを責めた。戊辰、使者を遣わして天下の囚人を記録させた。
  • 八月、はじめて雲南巡撫を置き、戸部侍郎の王恕を任じた。
  • 冬十月辛巳、京師で地震。
  • 十一月、巡撫四川都御史の張瓚が灣溪の苖を討ってこれを破った。乙卯、大学士の商輅らが『続資治通鑑綱目』を進呈した。
  • 十二月己丑、鄖陽府を置き、行都司と衛所を設けて流民を落ち着かせた。
  • この年、吐魯番・賽瑪爾堪・琉球・烏斯藏が入貢した。

成化十三年(1477年)

  • 春正月庚戌、南郊で天地を大祀した。己巳、西厰を置き、太監の汪直に官校を提督して探索にあたらせた。
  • 夏四月、汪直が郎中の武清、楽章、太医院院判の蒋宗武、行人の張廷綱、浙江布政使の劉福を捕らえて西厰の獄に下した。
  • 五月甲戌、左通政の方賢を捕らえて西厰の獄に下した。丙子、大学士の商輅と尚書の項忠が西厰の廃止を請い、容れられた。
  • 六月甲辰、項忠を罷免して庶人とした。庚戌、西厰を再び設けた。丁巳、商輅が致仕した。
  • 秋八月壬戌、錦衣衛の官校が工部尚書の張文質を捕らえて投獄したが、帝はこれを知って釈放した。
  • 冬十月戊申、哈密衛を苦峪谷に再び立て、土田と牛・種を給した。
  • 十一月、張瓚が松潘・畳溪の苖を破った。
  • この年、浙江・山東・河南・江西・福建の被災した税糧を免じ、山東と南畿の州県の飢えを振恤した。安南・琉球・烏斯藏・暹羅・日本が入貢し、們都埒・伽嘉色稜がそれぞれ使者を遣わして馬を貢いだ。

成化十四年(1478年)

  • 春正月甲戌、南郊で天地を大祀した。
  • 二月戊申、皇太子が出閣して学に就いた。
  • 三月戊辰、浙江の被災した秋糧を免じた。己卯、曾彦らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。辛巳、烏什衛の銀場を廃した。丙戌、遼東の馬市を再び開いた。丁亥、浙江の飢饉のため花木の採取を停めた。
  • 夏四月丁酉、南畿・山東の被災した秋糧を免じた。
  • 六月庚子、太白と歳星がともに昼に現れた。癸卯、太監の汪直に遼東の辺境巡視を命じた。
  • 秋七月丁丑、使者を遣わして畿南・山東の飢えを振恤した。
  • 八月癸巳、直隷・山東の災害のため、六部に民を恤む事宜を条陳させ、南京刑部侍郎の金紳に江西の水害の巡視を命じた。庚戌、湖広の被災した秋糧を免じた。甲寅、巡撫蘇松副都御史の牟俸を錦衣衛の獄に下し、辺境守備に流謫した。
  • 九月癸亥、黄河が開封で決壊した。
  • 十二月甲午、畿内の被災した秋糧を免じた。
  • この年、占城・烏斯藏・賽瑪爾堪が入貢した。

成化十五年(1479年)

  • 春正月丁卯、南郊で天地を大祀した。辛巳、山東の飢えを振恤し秋糧を免じた。
  • 二月、湖広の被災した秋糧を免じた。甲寅、開国の勲臣で後嗣の絶えた者の墓を修理し、守墓の者一人を置くよう詔した。
  • 夏四月丁亥、方士の李孜省を太常寺丞とした。丙午、南畿の被災した税糧を免じた。壬子、駙馬都尉の馬誠を錦衣衛の獄に下した。
  • 五月壬戌、汪直が侍郎の馬文升を弾劾し、馬文升は獄に下されて辺境守備に流謫された。癸酉、馬文升・牟俸の件で給事中の李俊、御史の王濬ら五十六人を闕下で杖打した。己卯、湖広・河南の被災した税糧を免じた。
  • 秋七月癸酉、汪直が大同・宣府の辺境を巡視した。
  • 冬十月丁亥、撫寧侯の朱永を靖虜将軍・総兵官とし、汪直を監軍として布達扎卜を防がせた。
  • 十二月辛未、功を論じて朱永を保国公に封じ、汪直に歳禄を加えた。昇進・恩賞に与った者は二千六百余人にのぼった。この月、四川・江西の被災した税糧を免じた。
  • この年、琉球・安南・烏斯藏が入貢した。

成化十六年(1480年)

  • 春正月甲午、南郊で天地を大祀した。丁酉、保国公の朱永を平虜将軍・総兵官、王越を提督軍務、汪直を監軍とし、延綏で伊斯瑪音を防がせた。
  • 二月癸酉、湖広の被災した税糧を免じた。戊寅、王越が威寧海子で伊斯瑪音を襲ってこれを破った。
  • 三月戊子、凶作のため光禄寺の供用物を減らした。
  • 夏六月癸丑、有力者が民田を侵し占めることを禁じた。戊午、巡按遼東御史の強珍が陳鉞・韋朗らの欺瞞を弾劾したが、取り上げられなかった。
  • 秋八月辛酉、孤児と老人を恤む令を重ねて申し渡した。
  • 冬十二月庚申、伊斯瑪音が大同に侵入した。丙寅、朱永・汪直・王越が京軍を率いてこれを防いだ。この月、総督両広軍務都御史の朱英と総兵官平郷伯の陳政が広西の猺を討って破った。
  • この年、両畿・湖広・河南・山東・雲南の被災した税糧を免じた。琉球・暹羅・蘇門答剌・吐魯番・賽瑪爾堪が入貢した。

成化十七年(1481年)

  • 春正月壬午、方士の顧玒を太常寺少卿とした。丙戌、南郊で天地を大祀した。
  • 二月壬戌、天下の庫蔵の出納の数を調査させた。この月、浙江・山西の被災した税糧を免じた。
  • 三月辛卯、王華らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。
  • 夏四月庚申、長い旱と風霾のため、群臣に修省を命じる敕を下した。戊辰、法司に刑獄を慎むよう諭し、太監の懐恩に法司とともに囚人を記録させた。以後五年ごとに内臣を遣わして審録することを常例とした。癸酉、伊斯瑪音が宣府に侵入した。
  • 五月己亥、汪直に監督軍務を命じ、王越を平胡将軍・総兵官としてこれを防がせた。
  • 秋七月甲戌、南畿の被災した秋糧を免じた。甲午、各地の鎮守総兵・巡撫に汪直・王越の指揮を受けるよう命じた。己亥、雷が郊壇と承天門に落ちた。
  • 冬十月壬戌、河南の飢えを振恤し、道士の鄧常恩を太常卿とした。
  • 十一月戊子、太倉の銀の三分の一を内庫に納れた。
  • この年、安南・占城・満剌加・烏斯藏が入貢した。安南の黎灝が老撾宣慰司を侵したので、敕を賜わって諭した。

成化十八年(1482年)

  • 春正月壬午、南郊で天地を大祀した。庚寅、劉吉が喪を切り上げて復職した。
  • 三月己巳朔、南畿の飢えを振恤した。壬申、西厰を廃した。
  • 夏四月癸丑、哈商が哈密城を回復した。甲子、山西の被災した夏税を免じた。
  • 五月、山東・南畿の被災した税糧を免じた。
  • 六月壬寅、伊斯瑪音が延綏に侵入し、汪直・王越が兵を調えて防ぎこれを破った。
  • 秋八月癸丑、使者を遣わして畿内・山東の飢えを振恤した。辛酉、河南の被災した税糧を免じた。
  • 閏月壬申、倉副使の応時用が饒州で御器を焼造している内臣の廃止を請うたが、獄に下され、贖罪して復職した。
  • 冬十一月、畿内・陝西・遼東の被災した秋糧を免じた。
  • 十二月庚午、帝の自ら撰した『文華大訓』が成った。
  • この年、琉球・哈密・暹羅・吐魯番・烏斯藏が入貢した。

成化十九年(1483年)

  • 春正月丙午、南郊で天地を大祀した。
  • 三月丙辰、湖広の被災した税糧を免じた。
  • 夏四月丁丑、河南の被災した税糧を免じた。
  • 五月壬子、京軍の雑役を停めるよう詔した。
  • 六月乙亥、汪直が罪を得て南京御馬監に転出させられた。丁丑、陳政が広西の猺を破った。
  • 秋七月辛丑、迤北の小王子が大同に侵入した。癸卯、総兵官の許寧がこれを防いだが敗れた。己未、朱永を鎮朔大将軍・総兵官とし、京軍を率いてこれを防がせた。
  • 八月甲子、宣府に侵入したので、巡撫都御史の秦紘と総兵官の周玉が防いで退けた。乙丑、戸部侍郎の李衍と刑部侍郎の何喬新に辺関の巡視を命じた。壬申、汪直を奉御に降し、その一党の王越・戴縉らを差をつけて貶め退けた。この月、朱永が大同・宣府で寇を破った。
  • 九月丁未、僧の継暁の母である朱氏を表彰するよう詔した。
  • 冬十月壬申、朱永を召し還した。
  • この年、賽瑪爾堪が獅子を貢いだ。

成化二十年(1484年)

  • 春正月庚寅、京師で地震。壬辰、群臣に修省を命じる敕を下し、貢献を減らし、辺境の備えを整え、造営を停め、冤罪の獄を裁き、銀課・工役・馬価を寛くし、大同で陣没した士卒を恤むよう詔した。丁酉、南郊で天地を大祀した。
  • 三月庚寅、李旻らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。己酉、太監の張善を監督軍務、定西侯の蒋琬を総兵官とし、総督尚書の余子俊とともに大同・宣府を守備させた。
  • 夏四月戊午、囚人の記録調べを行った。
  • 五月甲午、再び囚人の記録調べを行い、死罪以下を減刑した。
  • 六月、南畿・陝西の被災した税糧を免じた。
  • 秋八月壬申、太白と歳星がともに昼に現れた。
  • 九月己酉朔、日食。この月、寇が再び河套に入った。
  • この秋、陝西・山西が大旱となり、飢えて人が人を食う有様となった。歳ごとの調達物料を停め、税糧を免じ、国庫の銀を出して穀を輸送し、米を納めさせる事例を開いてこれを振恤した。
  • 冬十月丁巳、刑部員外郎の林俊が妖僧の継暁と太監の梁芳の誅殺を請うたため錦衣衛の獄に下され、都督府経歴の張黻が上疏して救おうとしたためともに逮捕・訊問され、杖と流謫に差をつけて処された。癸酉、雲南元江の諸府の銀坑を廃した。
  • 十二月、山西・河南の被災した夏税を免じた。
  • この年、安南・日本・琉球・哈密・吐魯番が入貢した。

成化二十一年(1485年)

  • 春正月甲申朔、星が音を伴って落ちた。丙戌、群臣に時政について極言するよう詔した。庚寅、天下に赦を行った。乙未、南郊で天地を大祀した。乙巳、侍郎の李賢・何□新・賈俊を遣わして陝西・山西・河南の飢えを振恤した。
  • 二月己未、伝奉によって任じられた文武官五百六十余人を放免した。丁丑、陝西の被災した税糧を免じた。
  • 夏四月戊午、泰山がしばしば震動したので使者を遣わして祭告した。壬戌、漕運四十万石を回して陝西の飢えを振恤した。この月、南畿・山東の被災した税糧を免じた。
  • 五月壬戌、京師で地震。丙子、京師の飢えた民を振恤した。
  • 六月辛巳、武臣が粟を納めて職を襲うことを認めた。癸未、盛暑・厳寒の時期は廷臣の上奏を五事までとするよう詔した。
  • 秋八月己卯朔、日食。
  • 九月甲子、劉珝が致仕した。
  • 冬十月、山東・山西・河南・陝西・四川の被災した税糧を免じた。
  • 十一月丙寅、京師で地震。
  • 十二月甲申、詹事の彭華を吏部左侍郎兼翰林学士として入閣させ機務に与らせた。甲午、南畿の飢えを振恤した。
  • この冬、小王子が蘭州・荘浪・鎮番・涼州に侵入した。
  • この年、哈密・烏斯藏が入貢した。

成化二十二年(1486年)

  • 春正月己未、南郊で天地を大祀した。乙丑、河南の被災した秋糧を免じた。
  • 二月庚辰、畿南および湖広の被災した秋糧を免じた。
  • 夏四月乙未、畿内の勲戚の荘田を整理した。
  • 六月、南畿・陝西の被災した税糧を免じた。乙亥、群臣に職務に励むよう敕した。甲午、法司に刑を慎むよう諭した。
  • 秋七月、小王子が甘州に侵入し、指揮の姚英らが戦死した。
  • 九月癸卯、南京兵部尚書の王恕を罷免し、河南・広東の被災した税糧を免じた。戊申、広東布政使の陳選を逮捕した。市舶司の中官である韋眷が陳選を貪汚だと誣告したもので、陳選は逮捕されて護送の途中に死んだ。丁卯、兵部左侍郎の尹直を戸部侍郎兼翰林学士として入閣させ機務に与らせた。
  • 冬十一月癸丑、占城が安南に侵され、王子の古来が亡命してきた。
  • 十二月、江西・広西の被災した税糧を免じた。
  • この年、哈密・琉球が入貢した。

成化二十三年(1487年)

  • 春正月、陝西・湖広の被災した税糧を免じた。庚戌、南郊で天地を大祀した。
  • 二月庚辰、李孜省を礼部右侍郎とした。乙酉、副都御史の辺鏞と通政司参議の田景賢に大同ほか諸辺の巡視を命じた。
  • 三月丁未、彭華が致仕した。丁巳、費宏らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。癸亥、山東の被災した税糧を免じた。
  • 夏四月乙亥、浙江の被災した秋糧を免じた。
  • 五月乙卯、旱のため使者を分遣して天下の山川に祈らせた。丙辰、群臣に修省を命じる敕を下した。この月、朶顔三衛の巴爾諾海が遼東に入ったので、辺境近くに駐牧させ、米と布を給した。
  • 六月、陝西・南畿の被災した秋糧を免じた。
  • 秋七月戊申、皇子の祐杬を興王、祐棆を岐王、祐檳を益王、祐楎を衡王、祐橒を雍王に封じた。
  • 八月庚辰、帝が不豫となった。甲申、皇太子が文華殿で政務を代行した。己丑、崩御した。享年四十一。
  • 九月乙卯、尊諡を奉り、廟号を憲宗とし、茂陵に葬った。

史論

  • 賛にいう。憲宗は即位の初め、朝廷に長老・俊才が多く、賦を免じ刑を省いたので民間は豊かであった。景帝の尊号を回復し、于謙の冤罪を雪ぎ、黎淳を抜擢し商輅を召したのは、綱紀を明らかにして奮い立つに足るものであった。ところが人事の登用は混濁し、雑多な出身の者が競って進み、土木の失政を鑑としないまま汪直を用いたため、威福の権が下へ移り、厰衛の禍は明朝の終わりまで続くこととなった。霜を履めばやがて堅氷に至るというように、その勢いは積み重なって重くなる。慎まずにいられようか、畏れずにいられようか。