明史卷九 本紀第九 宣宗
明の宣宗、諱は瞻基。仁宗の長子で母は誠孝昭皇后。成祖に愛されて皇太孫となり、巡幸・征討にことごとく随行した。洪熙元年に即位すると、叛いた叔父の漢王 髙煦を自ら親征して降し、交阯を放棄して黎利と和し、はじめて巡撫を置いて地方を治めた。寛恤の令を重ねて出し、預備倉を設け、贓吏を厳しく処した。宣徳十年、三十八歳で崩じ、景陵に葬られた。
年表(25件)
- 永樂七年1409年成祖の北京行幸に随行し、『務本訓』を授けられる
- 永樂八年1410年成祖の沙漠親征に際して北京留守を命じられる
- 永樂九年1411年十一月、皇太孫に立てられ、はじめて冠を着ける
- 洪熙元年1425年六月、良鄉で遺詔を受けて即位し、翌年を宣徳元年とする
- 洪熙元年1425年皇后を皇太后に尊び、妃の胡氏を皇后に立てる
- 洪熙元年1425年胡槩・葉春に南畿と浙江の巡撫を命じる。巡撫の設置はここに始まる
- 洪熙元年1425年九月、昭皇帝を獻陵に葬り、科挙の取士の定員を定める
- 宣徳元年1426年八月、漢王 髙煦が反したので親征し、樂安で降して西内に幽閉する
- 宣徳元年1426年王通を征夷將軍として黎利を討たせるが、應平で敗れて陳洽が戦死する
- 宣徳二年1427年柳升が倒馬坡で伏兵に遭って戦死し、軍が大潰する
- 宣徳二年1427年十月、王通が交阯を放棄して黎利と盟約し、文武の吏士を召還する
- 宣徳三年1428年二月、皇長子 祁鎮を皇太子に立て、『帝訓』が完成する
- 宣徳三年1428年三月、皇后 胡氏を廃し、貴妃 孫氏を皇后に立てる
- 宣徳三年1428年交阯放棄の罪を論じ、王通・弋謙・山壽・馬騏らを下獄して死罪と定める
- 宣徳三年1428年九月、みずから精卒三千を率いて喜峯口を出、寛河で烏梁海を大破する
- 宣徳五年1430年二月、寛恤の令を頒布して官田の課税を十分の三減らす
- 宣徳五年1430年預備倉を修め、官銭で穀を買い上げて荒年に備える
- 宣徳五年1430年九月、于謙・周忱ら六人を侍郎に抜擢して両京・諸省の巡撫にあてる
- 宣徳六年1431年六月、黎利に安南国の事を権署せよと詔する
- 宣徳六年1431年貪暴な中官 袁琦ら十一人を棄市し、罪状を天下に示す
- 宣徳七年1432年寛恤の詔を握りつぶした户部を戒め、令が出れば必ず行えと諭す
- 宣徳七年1432年『官箴』三十五篇が完成し、百官に示す
- 宣徳九年1434年黎利が死に、子の麟に安南国の事を権署させる
- 宣徳九年1434年衛拉特の托歡が阿嚕台を攻め殺し、みずから軍を率いて辺境を巡る
- 宣徳十年1435年正月、乾清宮で崩じる。年三十八。廟号を宣宗として景陵に葬る
出自と生い立ち
- 宣宗憲天崇道英明神聖欽文昭武寛仁純孝章皇帝は、諱を瞻基といい、仁宗の長子である。母は誠孝昭皇后。
- 誕生の前夜、成祖が夢の中で太祖から大圭を授けられ「これを子孫に伝えよ、永世にわたって栄えるだろう」と告げられた。生後一か月を過ぎて成祖が対面し、「この子は英気が顔に溢れている、わたしの夢と符合する」と述べた。
- 成長すると読書を好み、知識・見識が人並み外れていた。
- 永樂七年(1409年)、成祖の北京行幸に随行。成祖は農具や農家の衣食・作業を見せ、『務本訓』を作って授けた。
- 永樂八年(1410年)、成祖の沙漠親征に際して北京留守を命じられた。
- 永樂九年(1411年)十一月、皇太孫に立てられ、はじめて冠を着けた。以後、巡幸にも征討にもすべて随行した。
- 成祖は学士胡廣らに命じ、陣中で太孫のために経史を講じさせた。また仁宗にしばしば「この子は後日の太平の天子だ」と語った。
- 仁宗が即位すると皇太子に立てられた。夏四月、南京で地震が続いたため、赴いて留守することを命じられた。
即位(洪熙元年、1425年)
- 五月庚辰、仁宗が病に倒れ、璽書で召還された。
- 六月辛丑、良鄉まで戻ったところで遺詔を受け、宮中に入って発喪した。庚戌、皇帝の位に即き、天下に大赦して、翌年を宣徳元年とした。
- 辛亥、辺境の将に守備を厳にせよと諭した。甲寅、外地で買い付けにあたっていた中官を急ぎ帰還させ、買い上げた品物を取り止めた。
- 秋七月乙亥、皇后を皇太后に尊び、妃の胡氏を皇后に立てた。辛卯、鎮遠侯顧興祖が大藤峽の蠻を討ってこれを平らげた。乙未、法司に刑獄を慎むよう諭した。
- 閏七月戊申、安順伯薛貴・清平伯呉誠・都督馬英・都指揮梁成に軍を率いて辺境を巡らせた。乙丑、楊溥が文淵閣に入直した。
- 八月戊辰、都指揮李英が安定の庫森の叛番を討ち大いに破った。安定王桑爾節沙克罝が闕下に至って謝罪した。壬申、内外の群臣に、廉潔公正で民を治めるに堪える者を推挙せよと詔した。癸未、大理卿胡槩・参政葉春に南畿と浙江の巡撫を命じた。巡撫の設置はこれに始まる。
- 九月壬寅、昭皇帝(仁宗)を獻陵に葬った。乙卯、科挙の取士の定員を定めた。
- 冬十月戊寅、南京で地震。戊子、公・侯・伯および五府・六部・大学士・給事中に、重罪の囚人を再審させた。
- 十一月戊戌、顧興祖が思恩の蠻を討ち平らげた。辛酉、陽武侯薛祿を鎮朔大將軍として辺境を巡らせた。
- 十二月甲申、顧興祖が宜山の蠻を討ち平らげた。
- この年、哈宻・回回・滿拉薩鼎・占城・琉球中山・𤓰哇・烏斯藏・衛拉特・浡泥が入貢した。
宣徳元年(1426年)
- 春正月癸卯、太廟を祀った。丁未、南郊で天地を大祀した。癸丑、死罪以下の者に糧を宣府へ運ばせて贖罪させた。己未、侍郎黄宗載ら十五人を遣わして天下の軍籍を整理させた。以後、使者を遣わすことを恒例とした。
- 二月戊辰、社稷を祭った。丁丑、耤田を耕した。丙戌、長陵・獻陵に詣でた。丁亥、還宮。
- 三月己亥、榮昌伯陳智と都督方政が茶籠州で黎利に敗れ、乂安知府琴彭が戦死した。癸丑、行在禮部侍郎張瑛を華蓋殿大學士兼任として文淵閣に直せしめた。
- 夏四月乙丑、成山侯王通を征夷將軍・總兵官として黎利を討たせ、尚書陳洽を參贊軍務とした。陳智と方政は官を奪われ、従軍して功を立てるよう命じられた。
- 五月甲午朔、囚を録した(罪囚の再審)。丙申、交阯に赦を下し、黎利の自新を許した。丙午、郡県に遺骸を埋葬させた。庚申、薛祿を還らせた。
- 秋七月癸巳、京師で地震。乙未、山東の夏税を免じた。己亥、六科に対し、中官が伝える上意はすべて覆奏を経てから施行せよと諭した。壬子、湖廣の採木を取り止めた。
- 八月壬戌、漢王高煦が反した。丙寅、武臣の死罪以下を宥し、その官を復した。己巳、高煦を親征することとし、鄭王瞻埈・襄王瞻墡に留守を、陽武侯薛祿・清平伯呉誠に前鋒を命じ、五軍の将士に大いに賜与した。辛未、京師を発した。辛巳、樂安に至り、二度書を送って降伏を諭し、さらに勅を矢に結んで城中に射込み禍福を説いた。壬午、高煦が降った。癸未、樂安を武定州と改めた。乙酉、凱旋した。
- 九月丙申、武定州から帰還した。高煦を西内に幽閉した。戊戌、法司が高煦の同謀者を訊問すると、供述が晉王濟熿・趙王高燧に及んだが、詔して問わなかった。
- 冬十月戊寅、李時勉を釈放して侍讀に復した。
- 十一月乙未、成山侯王通が應平で黎利を撃って敗れ、尚書陳洽が戦死した。
- 十二月辛酉、六師が通過した地の秋糧を免じた。辛未、囚を録し、三千余人を宥免した。乙酉、征南將軍・總兵官の黔國公沐晟に興安伯徐亨・新寧伯譚忠を率いさせ、征虜副將軍の安遠侯柳升に保定伯梁銘・都督崔聚を率いさせ、雲南と廣西の二道から分かれて黎利を討たせ、兵部尚書李慶を參贊軍務とした。工部尚書黄福に交阯を鎮せしめ、布政司・按察司の事を掌らせた。
- この月、𤓰哇・暹羅・琉球・蘇門荅剌・滿剌加・白葛達・賽瑪爾堪・吐魯番・哈宻・烏斯藏が入貢した。
宣徳二年(1427年)
- 春正月庚子、南郊で天地を大祀した。丁未、有司が年間の訊問した囚人数を奏上した。帝は「百姓が軽々しく法を犯すのは教化が行われていないためだ」と述べ、教化を申し明らかにするよう命じた。
- 二月癸亥、行在户部侍郎陳山を同部尚書兼謹身殿大學士とした。乙亥、黎利が交阯城を攻めたが、王通が撃退した。
- 三月辛卯、馬愉らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
- 夏四月庚申、黎利が昌江を陥れ、都指揮李任、指揮顧福・劉順、知府劉子輔、中官馮智が戦死した。甲子、晉王濟熿の呪詛と謀逆が発覚し、庶人に落とされた。己巳、王通が黎利との和議を許した。
- 五月癸巳、薛祿に開平の督餉を命じた。己亥、仁宗の神主を太廟に祔した。丙午、囚を録した。
- 六月戊寅、囚を録した。
- 秋七月己亥、黎利が隘留關を陥れた。鎮遠侯顧興祖は兵を擁したまま救援しなかったため、逮捕して罪を問うた。庚子、囚を録した。辛丑、都督同知陳懐を總兵官として松潘の蠻を討たせた。丁未、薛祿が開平で敵を破った。己酉、都督僉事山雲を征蠻將軍として廣西を鎮せしめた。
- 八月甲子、黄淮が致仕した。両京・山西・河南の被災した州県の税糧を免じた。
- 九月壬辰、囚を録した。乙未、柳升の軍が倒馬坡に宿営し、伏兵に遭って柳升が戦死。同日、保定伯梁銘が病没した。丙申、尚書李慶が病没し、軍は大潰し、參將崔聚、郎中史安、主事陳鏞・李宗昉が戦死した。
- 冬十月戊寅、王通が交阯を放棄して黎利と盟約した。
- 十一月乙酉、黎利を赦し、侍郎李琦・羅汝敬を遣わして陳暠を安南國王に立て、文武の吏士をことごとく召還した。己亥、皇長子誕生により天下に大赦し、翌年の税糧の三分の一を免じた。
- 十二月丁丑、陝西の飢饉を賑わし、あわせて絹布十五万疋を給した。
- この年、𤓰哇・占城・暹羅・琉球・衛拉特・哈宻・伊蘭巴里・賽瑪爾堪が入貢した。
宣徳三年(1428年)
- 春正月甲午、南郊で天地を大祀した。丙申、陳懐が松潘の蠻を平らげた。
- 二月戊午、皇長子祁鎮を皇太子に立てた。この月、『帝訓』が完成した。
- 三月癸未、皇后胡氏を廃し、貴妃孫氏を皇后に立てた。壬辰、囚を録した。
- 夏四月癸亥、官民が建言する章疏はすべて尚書・都御史・給事中が会議して奏聞し、隠すことのないようにと勅した。
- 閏四月壬午朔、松潘の蠻を平らげた功により都督同知陳懐らの爵を差をつけて進めた。壬寅、囚を録し、山西の旱害の税糧を免じた。甲辰、有司に振恤を命じた。庚戌、交阯放棄の罪を論じ、王通らおよび布政使弋謙、中官山壽・馬騏を下獄して死罪と定め、その家産を没収した。鎮遠侯顧興祖もあわせて下獄した。
- 五月壬子、李琦・羅汝敬が帰還した。黎利は表を奉り、陳暠が死んで子孫も絶えたので、国を守って命を待ちたいと請うた。辛酉、囚を録した。己巳、あらためて羅汝敬らを遣わし、黎利に陳氏の後嗣を立てよと諭した。辛未、交阯で死んだ諸臣に贈位した。壬申、北京の被災地の夏税を免じた。
- 六月丙戌、陝西の被災地の夏税を免じた。丁未、都御史劉觀に河道の巡視を命じた。
- 秋七月戊辰、囚を録した。
- 八月辛卯、北京行部および行後軍都督府を廃した。丁未、帝みずから軍を率いて辺境を巡った。
- 九月辛亥、石門驛に宿営した。烏梁海が會州を侵したので、帝は精卒三千を率いて出撃した。乙卯、喜峯口を出て寛河で敵を撃ち、帝みずから前鋒を射て三人を斃し、両翼の軍が同時に発して大いに破った。敵は黄龍旗を望み見ると馬を下りて並び拝し降伏を請うたので、ことごとく生け捕りにし、首魁を斬った。甲子、凱旋。癸酉、喜峯口から帰還した。
- 冬十一月癸酉、錦衣指揮鍾法保が東莞での採珠を請うたが、帝は「これは民を煩わせて利を求めようとするものだ」と述べ、下獄させた。
- 十二月庚子、廣西總兵官山雲が忻城の蠻を討って捕らえた。
- この年、占城・暹羅・𤓰哇・琉球・衛拉特・哈宻・安南・庫森・吐魯番・伊蘭巴里・賽瑪爾堪が入貢した。
宣徳四年(1429年)
- 春正月、両京で地震。己未、南郊で天地を大祀した。
- 二月巳月、南京が騶虞二頭を献じた。禮部が表を奉って賀すことを請うたが許さなかった。
- 三月甲戌、侍郎李琦らを遣わし、重ねて黎利に陳氏の後嗣を訪ね立てるよう諭した。
- 夏四月辛巳、山雲が柳潯の蠻を討ち平らげた。戊子、工部尚書黄福と平江伯陳瑄に漕運の経略を命じた。
- 五月壬子、囚を録した。
- 六月甲午、文吏が贓罪を犯した際に贖罪を認める例を廃した。己亥、敵が開平を犯し、鎮撫張信らが戦死した。庚子、薛祿を鎮朔大將軍として開平の督餉にあたらせた。
- 秋七月己未、文淵閣に行幸した。
- 八月己卯、楊溥を起復した。癸未、勾軍(軍籍補充)の法を定めた。
- 九月癸亥、顧興祖を獄から釈放した。
- 冬十月庚辰、文淵閣に行幸した。癸未、寒気が厳しいとして法司に囚を録するよう諭した。丙戌、「猗蘭操」を作って廷臣に賜い、賢者を薦めることが国を治める道であると諭した。庚寅、張瑛と陳山を罷免した。甲午、近郊で閲武した。乙未、谷口で狩猟した。戊戌、還宮。
- 十一月癸卯、薛祿と恭順侯呉克忠に軍を率いて宣府を巡らせた。
- 十二月乙亥、京師で地震。壬辰、中官による松花江での造船を取り止めた。
- この年、𤓰哇・占城・琉球・榜葛剌・哈宻・吐魯番・伊蘭巴里・賽瑪爾堪が入貢した。
宣徳五年(1430年)
- 春正月癸丑、南郊で天地を大祀した。戊辰、尚書夏原吉が卒した。
- 二月壬辰、工部の採木を取り止めた。癸巳、寛恤の令を頒布した。災害に遭った地の負担を省き、馬政を緩め、未納分を免じ、薪芻の徴を免じ、流民を招き、一年間の復(賦役免除)を賜い、買い上げを取り止め、官田の旧来の課税を十分の三減らし、工匠を恤み、司倉官による包納を禁じ、法司に刑獄を慎むよう戒めた。乙未、皇太后に従って陵に詣でた。
- 三月戊申、道中で耕作する者を見て馬を下り農事を尋ね、耒を取って三度耕した。そして侍臣を顧みて「朕は三度押しただけで既に疲れを覚える。まして我が民は年中働き続けているではないか」と語り、通過した地の農民に鈔を賜うよう命じた。己酉、還宮。辛亥、李琦が帰還し、黎利は陳氏に後嗣がないと称して表を上り封を請うた。丙辰、山西の前年の被災田の租を免じた。丁巳、林震らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
- 夏四月戊寅、薛祿に軍を率いさせ、赤城・鵰鶚・雲州・獨石の周囲に城堡を築かせた。
- 五月癸卯、贓吏の誥敕を追奪することを恒例と定めた。丙辰、預備倉を修め、官銭を出して穀を買い上げ荒年に備えた。癸亥、郎中況鍾、御史何文淵ら九人を抜擢して知府とし、勅を賜って遣わした。
- 六月己卯、官を遣わして近畿の蝗を捕らえさせ、户部に「往年、捕蝗の使者が民を害することは蝗に劣らなかった。この弊を知るべきだ」と諭し、「捕蝗詩」を作って示した。
- 秋七月癸亥、守令を甄別した。
- 八月己巳朔、日食があったが陰雨で見えなかった。禮官が表を奉って賀すことを請うたが許さなかった。
- 九月丙午、御史于謙、長史周忱ら六人を抜擢して侍郎とし、両京・山東・山西・河南・江西・浙江・湖廣の巡撫にあてた。乙卯、近郊を巡った。乙未、還宮。
- 冬十月乙亥、阿嚕台が遼東を犯し、遼海衛指揮同知皇甫斌が力戦して死んだ。丙子、近郊を巡った。己卯、坌道で狩猟した。丙戌、洗馬林に至り、城堡の兵備をあまねく検分した。壬辰、還宮。
- 十二月癸巳、庫森の叛番が平定された。
- 閏十二月己未、内外の諸司で獄囚を長く滞留させている者を罪せよと勅した。
- この年、占城・琉球・𤓰哇・衛拉特・哈宻・罕東・吐魯番・賽瑪爾堪・伊蘭巴里が入貢した。
宣徳六年(1431年)
- 春正月丁丑、南郊で天地を大祀した。庚辰、大雨と雷電。
- 二月丁酉、侍郎羅汝敬に陝西の屯田を監督させた。己亥、金龍口を浚渫して河水を徐州まで通し、漕運の便を図った。
- 三月乙亥、吏部による外官の考察を、布政・按察の二司から始めることを恒例と定めた。
- 夏四月己酉、侍郎柴車に山西の屯田の経理を命じた。
- 五月乙丑、黎利が使者を遣わして謝罪し、方物を貢いだ。
- 六月己亥、使者を遣わして黎利に安南国の事を権署(暫定代行)せよと詔した。
- 秋七月己巳、囚を録した。壬辰、朶顔三衛の交易を許した。
- 冬十月甲辰、陳懐が松潘の蠻を平らげた。
- 十一月丙子、官軍に民の糧を兌運させることをはじめて命じた。乙酉、御史を分遣して貪暴な中官袁琦らを逮捕させた。
- 十二月乙未、袁琦ら十一人を棄市し、その罪状を掲示して天下に示した。丁未、金幼孜が卒した。庚戌、御史を遣わして寧夏・甘州の屯田と水利を巡視させた。
- この年、琉球・衛拉特・哈宻・蘇門荅剌・伊蘭巴里が入貢した。
宣徳七年(1432年)
- 春正月辛酉朔、日食があり、朝賀を免じた。癸酉、南郊で天地を大祀した。
- 二月甲午、春の和らぎに際して法司に囚を録するよう諭した。
- 三月庚申朔、詔を下して寛恤の政を行った。辛酉、禮部に諭して言った。「朕は官田の賦が重いとして十分の三を減じた。ところが聞けば、以前に租を免ずる詔が下ったとき、户部はみな実行せず、甚だしきは有司に対し詔書を口実にしてはならぬと戒めたという。これは詔令を握りつぶし、恩沢が下まで及ばぬようにするものだ。今後は令が出れば必ず行い、これを遮る者があってはならぬ。」
- 夏四月辛丑、山西の未納の賦を免じた。壬寅、商人を募って中鹽(塩引の交付と引き換えに)辺境へ穀を輸送させた。
- 六月癸卯、囚を録した。癸丑、中官が番地に入って馬を買い付けることを取り止めた。この月、『官箴』が完成した。全三十五篇で、百官に示した。
- 秋八月乙未、三品以上の百官に、才行と文学に優れた士を推挙させ、吏部と都察院には地方長官・有司のうち不適格な者を退けさせた。
- 九月庚午、諸将に辺境を巡らせた。
- この秋、両畿および嘉興・湖州の水害の税糧を免じた。
- 十一月辛酉、督漕の平江伯陳瑄と侍郎趙新らを召し、年末に京へ至って糧賦の利害を議させた。
- この年、占城・琉球・哈宻・哈喇・衛拉特・伊蘭巴里が入貢した。
宣徳八年(1433年)
- 春正月丁卯、南郊で天地を大祀した。
- 二月壬子、囚を録し、五千余人を宥免した。
- 三月丙辰、曹鼐らに進士及第・出身を差をつけて賜った。庚辰、内外に軍士を手厚く恤むよう諭し、違反する者は風憲官が調査して奏上し罪せよとした。
- この春、両京・河南・山東・山西の長い旱魃により使者を遣わして賑恤した。
- 夏四月戊戌、詔して京師・諸省の被災地の未納の租と雑課を免除し、本年の夏税を免じ、一年間の復を賜い、冤獄を糺し、死罪以下を減じ、軍匠の逃亡者の罪を赦し、有司にそれぞれ賢良方正一人を推挙させ、巡按御史と按察使に貪酷な吏および使臣で事を生じさせる者を摘発させた。
- 五月丁巳、總兵官都督蕭授が貴州の烏羅の蠻を討ち平らげた。丁卯、山雲が宜山の蠻を討ち平らげた。
- 六月乙酉、雨乞いをしたが応じなかったので、「閔旱詩」を作って群臣に示した。辛丑、中外に罪囚の疏決(滞留の解消)を詔した。
- この夏、あらためて両京・河南・山東・山西・湖廣の飢饉を賑わし、税糧を免じた。
- 秋七月壬申、江西の水害の税糧を免じた。
- 八月癸巳、京師の冗官を汰した。
- 閏八月辛亥、西域が麒麟を貢いだ。戊午、景星が現れた。禮官が表を奉って賀すことを請うたが、いずれも許さなかった。
- 九月乙酉、官を遣わして天下の重囚を録した。己亥、阿嚕台の部の藏布が涼州を侵し、總兵劉廣が撃って斬った。
- 冬十二月乙亥、法司に諭して京官の過失を宥した。
- この年、暹羅・占城・琉球・安南・滿剌加・天方・蘇門荅剌・古里・柯枝・阿丹・錫蘭山・佐法兒・甘巴里・加異勒・忽魯謨斯・哈宻・衛拉特・賽瑪爾堪・伊蘭巴里が入貢した。
宣徳九年(1434年)
- 春正月辛卯、南郊で天地を大祀した。
- 二月庚戌、鳳陽・淮安・揚州・徐州の飢饉を賑わした。乙卯、両京・山東・山西・河南に寛恤の令を重ねて申し渡した。
- 三月戊寅、山雲が思恩の叛蠻を討ち平らげた。
- 夏四月己未、黎利が死に、子の麟が喪を告げに来たので、麟に安南国の事を権署させた。戊辰、囚を録した。
- 五月壬午、野ざらしの遺骸を埋葬した。
- 秋七月甲申、給事中・御史・錦衣衛の官を遣わし、両畿・山東・山西・河南の蝗の捕獲を監督させた。
- 八月庚戌、湖廣の飢饉を賑わした。甲子、両京・湖廣・江西・河南の巡撫・巡按御史および三司の官に、被災地を巡視して秋糧の十分の四を免除するよう勅した。乙丑、工部の採辦を取り止めた。己巳、衛拉特の托歡が阿嚕台を攻め殺し、勝報を告げてきた。
- 九月癸未、みずから軍を率いて辺境を巡った。乙酉、居庸關を越えた。丙戌、坌道で狩猟した。乙未、阿嚕台の子の諤博爾濟延が帰順してきた。丁酉、洗馬林に至り城堡の兵備を検分した。己亥、大閲を行った。
- 冬十月丙午、還宮。丙辰、都督方政が松潘の蠻を討ち平らげた。甲子、陝西での馬の買い付けを取り止めた。丁卯、両畿・浙江・湖廣・江西が飢えたので、南京および臨清の倉へ運ぶべき穀を充てて賑済した。
- 十一月戊戌、刑の執行を停めた。庚子、四川の被災地の税糧を免じた。
- 十二月甲子、帝が病んだので、衛王瞻埏が代わって太廟を享祀した。
- この年、暹羅・占城・琉球・蘇門荅剌・哈宻・衛拉特が入貢した。
宣徳十年(1435年)
- 春正月癸酉朔、朝に臨まず、群臣に文華殿で皇太子に謁するよう命じた。甲戌、病が篤くなり、買い上げや造営の諸使を取り止めた。乙亥、乾清宮で崩じた。年三十八。遺詔して、国家の重要事は皇太后に申し上げるべしとした。
- 丁酉、尊諡を上り、廟号を宣宗とした。景陵に葬った。
史論
- 賛に曰く。仁宗は太子であったころ成祖の愛を失っていたが、危うくなっては再び安泰を得た。それには太孫(宣宗)の力があずかっていた。
- 即位ののちは官吏がその職にふさわしく働き、政治は公平を得て、綱紀は整い、倉庫は満ち溢れ、民は生業を楽しみ、凶年も災いをなし得なかった。明が興ってからここまで六十年を経て、民の気力はしだいにゆるやかとなり、盛んに治平の兆しが現れた。
- 強大な藩王が突如として起こってもたちまち削平し、辺境の塵を掃い、狡猾な敵も震え上がった。帝の英□(底本欠字)・睿略は、祖の武業を継ぐに近いものだったといえようか。