明史卷八 本紀第八 仁宗
明の仁宗、諱は髙熾。成祖の長子で母は仁孝文皇后。靖難の役では世子として北平を守り、一万の兵で李景隆の五十万を防いだ。永樂二年に皇太子となってからは、髙煦・髙燧とその党の讒言に耐えながら監國して庶政を裁いた。永樂二十二年に即位し、西洋の宝船や採辦を罷め、建文の諸臣の家属を宥し、誹謗の罪を除くなど寛政を布いたが、在位一年足らず、洪熙元年に四十八歳で崩じた。
年表(21件)
- 洪武二十八年1395年燕の世子に冊立される
- 永樂二年1404年二月、はじめて京へ召され、皇太子に立てられる
- 永樂十年1412年使者の遅参と上奏の非礼により宮僚の黄淮らが獄に下される
- 永樂十五年1417年髙煦が罪により安樂へ移され、翌年の讒言も胡濙の上疏で解ける
- 永樂二十二年1424年七月、成祖が榆木川で崩じ、八月に皇帝の位に即いて翌年を洪熙元年とする
- 永樂二十二年1424年西洋の宝船、迤西の馬市、雲南・交阯の採辦を罷める
- 永樂二十二年1424年夏原吉・呉中・楊勉の官を復し、三公・三孤の官をふたたび設ける
- 永樂二十二年1424年楊士竒・楊榮・黄淮・金㓜孜・楊溥を大學士・学士として内制を掌らせる
- 永樂二十二年1424年妃の張氏を皇后に立て、長子の瞻基を皇太子、瞻埈ら八人を王に封じる
- 永樂二十二年1424年はじめて南京守備を設け、襄城伯 李隆を充てる
- 永樂二十二年1424年蹇義・楊士竒・楊榮・金㓜孜に「䋲愆紏謬」の銀印を賜って密封の進言を許す
- 永樂二十二年1424年建文の諸臣の家属で奴となっている者を宥して民に戻し、田土を返させる
- 永樂二十二年1424年十二月、文皇帝を長陵に葬る
- 洪熙元年1425年𢎞文閣を建て、楊溥に閣の事を掌らせる
- 洪熙元年1425年二月、太宗の神主を太廟に祔す
- 洪熙元年1425年律外の籍没・凌遲を戒め、誹謗の罪を除くよう詔する
- 洪熙元年1425年都を南京へ還そうとして、北京の諸司をすべて行在と称させる
- 洪熙元年1425年山東・淮徐の民のため、門楼で楊士竒に詔を書かせて夏税と秋糧の半分を免じる
- 洪熙元年1425年皇太子に孝陵へ謁させ、そのまま南京に留守させる
- 洪熙元年1425年五月、遺詔して位を皇太子に伝え、欽安殿で崩じる。年四十八
- 洪熙元年1425年七月、廟號を仁宗として獻陵に葬る
出自と生い立ち
- 仁宗敬天體道純誠至徳𢎞文欽武章聖逹孝昭皇帝は諱を髙熾といい、成祖の長子である。母は仁孝文皇后。冠と冕をつけ圭を執る者が現れて拝謁する夢を見、目覚めて帝を生んだという。
- 帝は幼くして端正で重々しく物静かで、言動に筋道があった。やや長じて射を習うと、放つ矢は当たらぬものがなかった。学問を好み、儒臣に従って講論して倦むことがなかった。
洪武二十八年(1395年)
- 燕の世子に冊立された。
- かつて秦・晉・周の三世子とともに皇城の四門の衛士を分けて閲するよう命じられたが、帝だけ遅れて復命した。理由を問われると「朝が非常に寒かったので、衛士が朝食をとるのを待ってから閲したため遅れました」と答えた。
- また上奏文を分けて閲するよう命じられたとき、帝は軍民の利害に切実なものと宗社の大計にかかわるものだけを取り上げて申し上げ、文字の誤りは報告しなかった。太祖がそれを指し示して「おまえは見落としたのか」と言うと、「見落としたのではありません。ただ小さな過ちは天聴をわずらわすに足りないと思ったのです」と答えた。
- また、堯や湯の世の水旱のとき百姓は何を頼りにしたのかと問われると、「聖人に民を恤む政があることを頼りにしました」と答えた。太祖は喜んで「孫には人君たる見識がある」と言った。
靖難の役と讒言
- 成祖が兵を挙げると世子は北平を守り、士卒をよく労わって、一万の兵で李景隆の五十万の衆を防ぎ、城はこれによって保たれた。
- これより先、髙煦・髙燧はともに敏くさとくて成祖に寵愛され、髙煦は従軍して功があった。宦官の黄巖(黄儼の誤りか)らはまた髙燧に党して、ひそかに嫡を奪おうと謀り、世子を讒言した。
- 折しも朝廷は方孝孺の策を用い、世子に書を賜って離間を図った。世子は封を開かずにそのまま差し出したが、儼が先にひそかに成祖へ「世子は朝廷と通じており、使者が到着しました」と報じた。まもなく世子の遣わした使者も到着した。成祖は書を開いて見ると、嘆いて「わが父子はこの上ない情愛で結ばれていてなお讒言によって隔てられる。まして君臣ではどうであろうか」と言った。
- 成祖が即位すると北平を北京とし、なお世子に留守を命じた。
永樂二年(1404年)
- 二月、はじめて京へ召され、皇太子に立てられた。
- 成祖がしばしば北征したので、監國を命じられて庶政を裁決した。四方に水害・旱害・飢饉があればただちに賑恤を遣わし、仁徳の評判が大いに高まった。
- 一方で髙煦・髙燧とその党は日ごとに隙をうかがって讒言し構えた。ある人が太子に「讒言する者がいるのをご存じか」と問うと、「知らぬ。わたしは子の職を尽くすことだけを知っている」と答えた。
永樂十年(1412年)
- 北征から還ったとき、太子の遣わした使者が期日に遅れ、かつ上奏の文言が礼を失していたことにより、宮僚の黄淮らをことごとく召し出して獄に下した。
永樂十五年(1417年)
- 髙煦が罪により安樂へ移された。翌年、黄儼らがふたたび太子が勝手に罪人を赦したと讒言し、宮僚に死罪に坐する者が多かった。侍郎の胡濙が命を奉じてこれを調べ、太子が誠実・敬慎・孝順であることを示す七つの事をひそかに上疏して報告したので、成祖の疑いはようやく解けた。
- その後、黄儼らが髙燧を立てようと謀ったことが発覚して誅に伏したが、髙燧は太子の力添えの弁明によって免れた。これ以後、太子の地位はようやく安定した。
永樂二十二年(1424年)
- 七月辛卯、成祖が榆木川で崩じた。
- 八月甲辰、遺詔が届き、皇太孫を遣わして開平で喪を迎えさせた。丁未、夏原吉らを獄から出した。
- 丁巳、皇帝の位に即き、天下に大赦し、翌年を洪熙元年とした。西洋の宝船、迤西の馬市、および雲南・交阯の採辦を罷めた。
- 戊午、夏原吉・呉中・楊勉の官を復した。己未、武安侯鄭亨に大同、保定侯孟瑛に交阯、襄城伯李隆に山海、武進伯朱榮に遼東を鎮めさせた。三公・三孤の官をふたたび設け、公・侯・伯・尚書に兼ねさせた。楊榮を太常寺卿に進め、金㓜孜は戸部侍郎兼大學士のままとし、楊士竒を禮部左侍郎兼華蓋殿大學士、黄淮を通政使兼武英殿大學士としてともに内制を掌らせ、楊溥を翰林學士とした。
- 辛酉、鎮遠侯顧興祖を總兵官として廣西の叛いた蠻を討たせた。甲子、冗官を削った。乙丑、漢王髙煦を京へ召した。戊辰、官吏で軍籍に落とされた者を郷里へ帰した。己巳、文臣は七十歳で致仕すると詔した。
- 九月癸酉、鈔を用いて鹽を買い入れる則例を定めた。交阯都指揮の方政が茶籠州で黎利と戦って敗れ、指揮同知の伍雲が力戦して死んだ。丙子、尚書の黄福を交阯から召し、兵部尚書の陳洽を代わりとした。庚辰、開封で河があふれたので税糧を免じ、右都御史の王彰を遣わして撫恤させた。
- 壬午、勅して、今後、官司が用いる物資は産地で値を計って買い求めることとし、割り当てて民を苦しめる者は罪を宥さないとした。癸未、禮部尚書の吕震が服を除くことを請うたが許さなかった。乙酉、諸王の歳祿を増した。交阯を鎮守する中官の山壽が、交阯の頭目である黎利を清化知府に任じることを請うたので、勅を持たせて赴かせ諭させた。
- 丙戌、風憲の官を外任の備えとし、給事中の李謙ら三人を僉事、蕭竒ら三十五人を州縣の官とした。丁亥、黎利が清化を侵し、指揮同知の陳忠が戦死した。戊子、はじめて南京守備を設け、襄城伯李隆をこれに充てた。乙未、畿内の民が飼っていた官馬を諸衛所へ分けた。
- 戊戌、吏部尚書の蹇義および楊士竒・楊榮・金㓜孜に「䋲愆紏謬」の銀の印章を一つずつ賜り、心を合わせて政務を助け、欠点や過失で申し上げるべきことがあればこの印を用いてひそかに封じて報告するよう諭した。
- 冬十月壬寅、民間から金銀を買い上げることを罷め、両京の戸部の行用庫を廃した。癸卯、天下の都司・衛所に城池を修治するよう詔した。
- 戊申、通政司が四方の雨量の上奏文を給事中に送って収蔵させたいと請うた。帝は「祖宗が天下に雨量を奏させたのは、水旱を知って民を恤む政を施すためである。通政司に積み置くだけでもすでに趣旨を失っているのに、さらに収蔵させるとは、上に立つ者にいつまでも知らせぬということだ。今後、奏が届いたらすぐ報告せよ」と言った。
- 己酉、妃の張氏を皇后に冊立した。壬子、長子の瞻基を皇太子に立て、子の瞻埈を鄭王、瞻墉を越王、瞻墡を襄王、瞻堈を荆王、瞻墺を淮王、瞻塏を滕王、瞻垍を梁王、瞻埏を衛王に封じた。
- 乙卯、内外の官に賢才を挙げるよう詔し、推挙した者の連坐の法を厳しくした。丁巳、三法司に大學士・府・部・通政・六科を会して承天門で囚を録させ、令とした。戊午、安遠王貴燮・巴東王貴煊が父の喪に赴かなかったので庶人とした。庚申、京官および軍士の月の扶持を増した。壬戌、保母の楊氏を衛聖夫人に封じた。丁卯、監生の徐永溍ら二十人を給事中に抜擢した。
- 十一月壬申朔、禮部に詔して、建文の諸臣の家属で教坊司・錦衣衛・浣衣局および習匠として功臣の家の奴となっている者をことごとく宥して民に戻し、その田土を返させた。意見を述べたことで戍に落とされた者も同様とした。
- 癸酉、有司に、民に不便な政令を箇条にして報告させ、災害を受けながらただちに賑わしを請わない者は罪すると詔した。阿嚕台が馬を貢しに来た。甲戌、群臣に時政の欠点を述べるよう詔した。乙亥、烏梁海の罪を赦した。はじめて近畿の諸衛の官軍に交代で京師へ来て操練するよう命じた。丙子、御史を遣わして辺の衛を巡按させた。癸未、御史を分け遣わして天下を巡らせ官吏を考察させた。丙戌、戸部尚書の夏原吉に「䋲愆紏繆」の銀の印章を賜った。己丑、禮部が冬至の節に賀を受けることを奏請したが許さなかった。庚寅、諸將に勅して辺の備えを厳しくさせた。辛卯、所司が勝手に屯田の軍士を使役することを禁じた。壬辰、都督の方政を榮昌伯陳智とともに交阯を鎮めさせた。
- この月、蹇義・楊士竒・夏原吉・楊榮・金㓜孜に諭した。前代の人主には、みずから尊大にして直言を聞くのを嫌い、臣下が互いに阿り従って敗亡に至った者がある。朕と卿らはこれを戒めとすべきだ、と。また士竒に諭して「このごろ群臣はかなり忠愛の心を抱いており、朕に過ちがあって自ら悔いようとするところへもう諫言が届く。まことに朕の心にかなっている」と言った。
- 十二月癸卯、建文の諸臣・外戚で一家そろって辺に戍っている者は一人を留め、残りをことごとく放ち還した。辛辛(辛亥の誤りか)、天下の三司の官の姓名を奉天門の西序に掲げた。癸丑、被災地の税糧を免じた。庚申、文皇帝を長陵に葬った。丙寅、鎮遠侯顧興祖が平樂・潯州の蠻を破った。
- この年、于闐・琉球・占城・哈密・古麻剌朗・滿剌加・蘇祿・衛拉特が入貢した。
洪熙元年(1425年)
- 春正月壬申朔、奉天門に出て朝を受けたが楽は奏さなかった。乙亥、内外の群臣に勅して職務に励ませた。己卯、太廟に享した。𢎞文閣を建て、儒臣に入直を命じ、楊溥に閣の事を掌らせた。癸未、時節の雪が降らないので群臣に勅して身を修め省みさせた。丙戌、南郊で天地を大祀し、太祖・太宗を配して祀った。壬辰、朝臣で休暇を得て郷里へ帰省する者に鈔を差をつけて賜り、令とした。己亥、布政使の周幹、按察使の胡槩、參政の葉春を遣わして南畿・浙江を巡視させた。
- 二月辛丑、將軍の印を諸辺の將に頒った。戊申、社稷を祭った。太監の鄭和に南京を守備させた。丙辰、耤田を耕した。丙寅、太宗の神主を太廟に祔した。この月、南京にたびたび地震があった。
- 三月壬申、前の光祿署丞の權謹を孝行により文華殿大學士に抜擢した。丁丑、直言を求めた。戊子、隆平が飢え、戸部が官の麦を貸すことを請うたが、帝は「賑わせばよいのに、なぜ貸すのか」と言った。
- 己丑、詔にいう。刑とは暴を禁じ邪を止め、民を善へ導くためのもので、誅殺に努めるためではない。吏がときに法文を深読みし付会して冤罪を濫発するのを、朕は深く憫れむ。今後、朕がもし悪を憎むあまり、律の外で籍没や凌遲の刑を用いようとしたら、法司は執奏せよ。五度奏して許されなければ、三公・大臣とともに執奏し、必ず許されるまでやめてはならない。諸司は囚の背を鞭打つことや、人に宮刑を加えることをしてはならない。自ら宮刑を施した者は不孝として論ぜよ。謀反でなければ親属を連坐させてはならない。古の盛世は民の言葉を採り聴いて戒めの資とした。今、奸人はしばしば言葉尻を拾って誹謗と誣告し、法吏は苛酷に事を練り上げて獄を成す。刑が当を得なければ民は身の置きどころがない。誹謗の罪を除き、告発する者があっても一切取り上げてはならない、と。
- 庚寅、陽武侯薛祿を鎮朔大將軍として師を率い開平・大同の辺を巡らせた。辛卯、參將の安平伯李安に榮昌伯陳智とともに交阯を鎮めさせた。
- 戊戌、都を南京へ還そうとして、北京の諸司をすべて行在と称させ、北京行部および行後軍都督府を復した。この月、南京にたびたび地震があった。
- 夏四月壬寅、帝は山東および淮・徐の民が食に乏しいのに有司が夏税の徴収を急いでいると聞き、西角門に出て大學士の楊士竒に詔を草させ、今年の夏税および秋糧の半分を免じた。士竒が「上の恩は至れり尽くせりですが、戸部・工部の二部にも知らせる必要があります」と言うと、帝は「民の窮乏を救うのは火事や溺れる者を救うのと同じで、ためらってはならない。有司は国用が足りなくなることを心配して必ず決しかねる態度をとる」と言い、すぐに中官へ紙筆を用意させ、士竒に門楼でその場で詔を書かせた。帝は読み終えるとただちに璽を押して外へ下して施行させ、士竒を顧みて「今こそ部の臣に語ってよい」と言った。
- 大理少卿の弋謙を副都御史に進め、四川で木を伐り出す中官のうち貪欲横暴で民を苦しめる者を処断させた。北京行都察院を設けた。壬子、皇太子に孝陵へ謁するよう命じ、そのまま南京に留守させた。戊午、天壽山へ行って長陵に謁した。己未、宮に還った。この月、河南および大名の飢えを賑わした。南京にたびたび地震があった。
- 五月己卯、侍讀の李時勉、侍講の羅汝敬が意見を述べたことにより御史に改められ、まもなく獄に下された。庚辰、帝は体調を崩し、使者を遣わして南京の皇太子を召した。辛巳、病が重くなり、遺詔して位を皇太子に伝えた。この日、欽安殿で崩じた。年は四十八であった。
- 七月己巳、尊諡を奉り、廟號を仁宗とし、獻陵に葬った。
史論
- 贊にいう。靖難の師が起こったとき、仁宗は世子として留守し、城を全うして師を助けた。その後、成祖の乗輿が年ごとに北征に出るあいだ、東宮が監國し、朝廷に廃れた事はなかった。
- しかしその間に讒言の種が仕組まれ、危うく疑われかけたことが幾度もあった。それでも最後まで誠実と敬慎によって身を全うした。人に告げて「わたしは子の職を尽くすことだけを知っており、讒言する者があることは知らぬ」と言ったのは立派で、万世の子たり臣たる者の手本とすべきである。
- 在位は一年であったが、人を用い政を行うにあたっての善事は書き尽くせない。もし天が年を貸して民を潤し養わせていたなら、その徳化の盛んなことは文帝・景帝の治世と肩を並べたのではあるまいか。