明史卷七 本紀第七 成祖三
明の成祖 朱棣の永樂十二年から崩御までを記す巻。衛拉特・阿嚕台を相手にたびたび漠北へ親征し、烏梁海の残党を降した。北京の宮殿を造営して永樂十九年に遷都を果たし、東廠を設けて中官に事を探らせ、鄭和の西洋行を重ねて三十国に及ぶ入貢を得た。永樂二十二年、最後の親征の帰路、榆木川で六十五歳で崩じ、長陵に葬られた。
年表(26件)
- 永樂十二年1414年張輔が老撾で陳季擴を捕らえ、交阯が平定される
- 永樂十二年1414年みずから衛拉特を征し、六月に和拉和錫衮で瑪哈木特を大破する
- 永樂十二年1414年駕を迎えるのが遅れた咎で黄淮・楊士竒・楊溥らが獄に下される
- 永樂十三年1415年清江浦を掘って北京への漕運路を通じさせる
- 永樂十三年1415年死罪はみな五度覆奏することを令と定める
- 永樂十四年1416年禮部尚書 吕震の封禅の請いを退ける
- 永樂十四年1416年錦衣衛指揮使 紀綱が謀反して誅に伏す
- 永樂十四年1416年群臣に北京の営建を議するよう詔する
- 永樂十五年1417年谷王 橞が謀反して庶人となり、漢王 髙煦の封を樂安州へ移す
- 永樂十五年1417年陳珪に北京の造営を統べさせ、三月に北巡して皇太子が監國する
- 永樂十六年1418年交阯の黎利が反する
- 永樂十六年1418年姚廣孝が死に、太祖實錄の重修が完成する
- 永樂十七年1419年劉江が望海堝で倭寇を殲滅し、廣寧伯に封じられる
- 永樂十八年1420年蒲臺の唐賽兒が乱を起こし、柳升らが討って賽兒は逃げ去る
- 永樂十八年1420年九月、翌年より京師を南京、北京を京師とすると詔し、遷都を天下に告げる
- 永樂十八年1420年北京の郊廟・宮殿が完成し、はじめて東廠を設ける
- 永樂十九年1421年正月、五廟の神主を太廟に安置して朝賀を受け、天下に大赦する
- 永樂十九年1421年奉天・華蓋・謹身の三殿が火災に遭い、遷都を論じた主事 蕭儀を殺す
- 永樂十九年1421年北征の軍糧を議して夏原吉・呉中を獄に下し、方賓が自殺する
- 永樂二十年1422年みずから阿嚕台を征し、その輜重を焼いて烏梁海を撃ち降す
- 永樂二十一年1423年ふたたび阿嚕台を親征するが、敗走を聞いて師を駐める
- 永樂二十一年1423年北方の王子 額森托干が降り、忠勇王に封じて金忠の姓名を賜う
- 永樂二十二年1424年四月、三度目の阿嚕台親征に出るが逹蘭納穆爾河で敵を見ず師を返す
- 永樂二十二年1424年七月、榆木川で崩じる。年六十五。遺詔して位を皇太子に伝える
- 永樂二十二年1424年九月、諡を文皇帝・廟號を太宗として長陵に葬る
- 嘉靖十七年1538年尊号をあらため、廟號を成祖とする
永樂十二年(1414年)
- 春正月庚寅、思州の苗が平定された。辛丑、山東・山西・河南および鳳陽・淮安・徐・邳の民十五万を徴発して糧を宣府へ運ばせた。
- 二月己酉、大閲兵を行った。庚戌、みずから衛拉特を征した。安遠侯柳升に大營を、武安侯鄭亨に中軍を、寧陽侯陳懋・豐城侯李彬に左右の哨を、成山侯王通・都督の譚青に左右の掖を領させ、都督の劉江・朱榮を前鋒とした。庚申、鳳翔・隴州の飢えを賑わし、報告しなかった長吏を調べて罪した。
- 三月癸未、張輔が老撾で陳季擴を捕らえて献じ、交阯が平定された。庚寅、北京を発ち、皇太孫が従った。
- 夏四月甲辰朔、興和に宿って大閲兵を行った。己酉、軍中の賞罰の号令を頒った。庚戌、傳令官・紀功官を設けた。丁卯、屯雲谷に宿り、博羅布哈らが降って来た。
- 五月丁丑、尚書・光祿卿・給事中を督陣官として、將士が命令に従うか否かを監察させた。
- 六月甲辰、劉江が衛拉特の兵と剛哈拉海で戦って破った。戊申、和拉和錫衮に宿ったところ、瑪哈木特が衆を率いて侵して来た。帝は高所に登って敵が三隊に分かれているのを見、柳升らに隊を分けて挟み撃ちにさせ、火器を一斉に放ち、みずから鉄騎を率いて駆け撃ってこれを大破し、王子十余人を殺し、圖拉河まで追った。瑪哈木特は夜陰に逃げた。庚戌、師を凱旋させ、勝報を阿嚕台に伝えた。戊午、三峰山に宿り、阿嚕台が使者を遣わして来朝した。己巳、衛拉特を破ったことを天下に詔した。
- 秋七月戊子、紅橋に宿り、六師が関に入るにあたり、田の作物を踏み民の蓄えを取る者は軍法で処すると詔した。己亥、沙河に宿り、皇太子が使者を遣わして迎えた。
- 八月辛丑朔、北京に至り、奉天殿に出て朝賀を受けた。丙午、北京の州縣の租を二年免じた。戊午、従征した將士に賞を与えた。
- 九月癸未、郭亮・徐亨に開平の防備をさせた。丙戌、靖州の苗が平定された。甲午、費瓛に甘肅を、劉江に遼東を鎮めさせた。この月、晉王濟熺が讒言により廃されて庶人となり、平陽王濟熿が進んで晉王に封じられた。
- 閏月甲辰、太子が使者を遣わして駕を迎えるのが遅れたことにより、侍讀の黄淮、侍講の楊士竒、正字の金問および洗馬の楊溥・芮善を獄に下した。まもなく士竒は釈されて官に復した。甲子、呉髙を召し還した。丁卯、都督の朱榮に大同を鎮めさせた。
- 冬十一月甲辰、囚を録した。庚申、蘇・松・杭・嘉・湖の水害の田租四十七万九千余石を免じた。
- この年、尼博囉國の沙的新葛が来朝したので王に封じた。彭亨・烏斯藏が入貢し、真臘が金の縷衣を進め、琉球中山王が馬を貢し、榜葛剌が麒麟を貢した。
永樂十三年(1415年)
- 春正月丙午、居庸から北の隘路を塞いだ。丁未、瑪哈木特が謝罪して朝貢を請うたので許した。壬子、北京の午門が火災に遭った。戊午、内外の諸司に勅して積年の滞納を免じ、將士・軍官で罪を犯した者をことごとく宥した。
- 二月癸酉、指揮の劉斌、給事の張磬ら十二人を遣わして、山西・山東・大同・陝西・甘肅・遼東の軍の操練と屯政を巡視させ、実情を調べて報告させた。甲戌、行在の禮部に天下の貢士を會試させた。癸未、張輔らの師が還った。戊子、交阯平定の功を論じ、賞賜に差をつけた。乙未、工事に使われていた囚徒を釈放した。
- 三月己亥、北京で士を策問し、陳循らに進士及第・出身を差をつけて賜った。丙午、廣西の蠻が叛いたので、指揮同知の葛森が討ち平らげた。
- 夏四月戊辰、張輔に交阯を鎮めさせた。甲申、兵部尚書兼詹事の金忠が卒した。
- 五月丁酉朔、日食があった。乙丑、清江浦を掘って北京への漕運路を通じさせた。
- 六月、北京・河南・山東の水害を賑わした。
- 秋七月癸卯、鄭和が還った。乙巳、四川戎縣の山都掌蠻が平定された。
- 八月庚辰、山東・河南・北京・順天の州縣の飢えを賑わした。
- 九月壬戌、北京に地震があった。
- 冬十月甲申、近郊で狩りをした。壬辰、法司が官の糧を横領した者を奏したので、帝は怒って殺すよう命じたが、覆奏のときに「朕が過った」と言い、なお法どおりに論じさせ、今後は死罪の者はみな五度覆奏することとし、令とした。
- 十二月、順天・蘇州・鳳陽・浙江・湖廣・河南・山東の州縣の水害・旱害の田の作物にかかる租を免じた。
- この年、琉球山南・山北、瓜哇西王、占城、古里、柯枝、南渤海、甘巴里、滿剌加、忽魯謨斯、哈密、哈喇、賽馬爾堪、火州、吐魯番、蘇門荅剌、俺都淮、錫喇斯が入貢し、麻林および諸番が麒麟・天馬・神鹿を進め、琉球中山は二度入貢した。
永樂十四年(1416年)
- 春正月己酉、北京・河南・山東が飢えたので、永樂十二年の滞納の租を免じ、粟百三十七万石余を出して賑わした。辛酉、都督の金玉が山西廣靈の山賊を討って平らげた。
- 三月癸巳、都督の梁福に湖廣・貴州を鎮めさせた。壬寅、阿嚕台が衛拉特を破って勝報を献じた。壬申、禮部尚書の吕震が封禅を請うたが、帝は「今、天下は無事とはいえ、四方に水害や疫病が多い。どうして自ら太平だと言えようか。それに六經には封禅の記述がなく、事が古に則らないのはまことに無意味だ」と言い、聴かなかった。
- 夏四月乙亥、胡廣を文淵閣大學士とした。
- 六月丁卯、都督同知の蔡福らを会して山東で倭に備えさせた。
- 秋七月丁酉、使者を遣わして北京・河南・山東の州縣の蝗を捕らえさせた。壬寅、河が開封で決壊した。乙巳、錦衣衛指揮使の紀綱が謀反して誅に伏した。
- 八月癸酉の朝、寿星が現れ、禮臣が表を上げて賀することを請うたが許さなかった。丁亥、北京の西宮を造った。
- 九月癸卯、京師に地震があった。戊申、北京を発した。
- 冬十月丁丑、鳳陽に宿って皇陵を祀った。癸未、北京から至り、孝陵に謁した。
- 十一月壬寅、文武の群臣に集まって北京の営建を議するよう詔した。丙午、張輔に還るよう詔した。戊申、漢王髙煦が軍士に略奪をさせたので二護衛を削った。山東・山西・湖廣の流民を保安州へ移し、三年の徭役を免じた。
- 十二月丁卯、鄭和がふたたび西洋へ使いした。
- この年、占城・古里・瓜哇・滿剌加・蘇門荅剌・南巫里・浡泥・彭亨・錫蘭山・溜山・南渤利・阿丹・麻林・忽魯謨斯・柯枝が入貢し、琉球中山は二度入貢した。
永樂十五年(1417年)
- 春正月丁酉、南郊で天地を大祀した。壬子、平江伯陳瑄に漕運と材木の北京輸送を督させた。
- 二月癸亥、谷王橞が謀反したので廃して庶人とした。丁卯、豐城侯李彬に交阯を鎮めさせた。壬申、泰寧侯陳珪に北京の造営を統べさせ、柳升・王通を副とした。
- 三月丁亥、交阯がはじめて貢士を京師へ送った。丙申、雑犯の死罪以下の囚を北京の工事に送って罪を贖わせると詔した。丙午、漢王髙煦の謀反が発覚した。帝は庶人に落とそうとしたが、皇太子の取りなしにより封を樂安州へ移した。壬子、北巡のため京師を発し、皇太子が監國した。
- 夏四月己巳、邾城に宿り、軍士が民の田の作物を踏まぬよう重ねて禁じ、損なわれた分は今年の租を除き、先に水害・旱害を受けて租を滞納している分もあわせて除いた。癸未、西宮が完成した。
- 五月丙戌、北京に至った。
- 六月丁酉、李彬が交阯の賊の黎核を討って斬った。己亥、中官の張謙が西洋への使いから還る途中、金鄉衛で倭寇を破った。
- 秋七月乙亥、皇太子に務本之訓を賜り、「この書は修身・斉家・治国・平天下の道を備えている。よく沈□(底本欠字)して玩味すれば大いに益がある」と諭した。
- 八月甲午、甌寧の人が金丹を進めたので、帝は「これは妖人だ」と言い、自ら服させ、その処方の書を破棄した。
- 九月丁卯、曲阜の孔子廟が完成し、帝はみずから文を作って石に刻ませた。
- 冬十月、李彬が交阯の賊の楊進江を破って斬った。
- 十一月癸酉、禮部尚書の趙羾を兵部尚書として、塞北の屯戍と軍民の利害を巡視させた。
- この年、西洋の蘇祿東王・西峒王が来朝し、琉球中山・巴什伯里・琉球山南・真臘・浡泥・占城・暹羅・哈喇・賽瑪爾堪が入貢した。
永樂十六年(1418年)
- 春正月甲寅、交阯の黎利が反したので、都督の朱廣が撃ち破った。甲戌、倭が松門衛を陥れ、按察司僉事の石魯が罪に問われて誅された。興安伯徐亨・都督の夏貴に開平の防備をさせた。
- 二月辛丑、交阯四忙縣の賊が知縣の毆陽智を殺して叛いたので、李彬が將を遣わして撃ち走らせた。
- 三月甲寅、李騏らに進士及第・出身を差をつけて賜った。都督僉事の劉鑑に大同で辺に備えさせた。戊寅、姚廣孝が死んだ。
- 夏五月庚戌、太祖實錄の重修が完成した。丁巳、胡廣が卒した。
- 秋七月己巳、陝西の諸司を勅して責めた。近ごろ聞くところでは、管下は年々不作で民は流亡し飢え死んでいるのに、有司は座視して恤まず、また報告もしない。その咎はどこにあるのか。速やかに倉の蓄えを出して賑わせ、と。贊善の梁潛、司諫の周冕が皇太子の輔導に欠けるところがあったとして、いずれも獄に下されて死んだ。
- 冬十二月戊子、法司に諭した。朕はしばしば内外の官に身を清くして民を愛せと勅したのに、不肖の官吏は依然ほしいままにふるまい、百姓は苦しんでいる。よい農夫が必ず稂莠を除くのは、それが苗の害となるからだ。今後、贓罪を犯した者は必ず法どおりに論ぜよ、と。辛丑、成山侯王通に駅伝を馳せて陝西の飢えを賑わさせた。
- この年、暹羅・占城・瓜哇・蘇門荅剌・尼博囉・滿剌加・南渤利・哈喇沙哈爾・千里逹・賽瑪爾堪が入貢し、琉球中山は二度入貢した。
永樂十七年(1419年)
- 春二月乙酉、興安伯徐亨に興和・開平・大同の防備をさせた。
- 夏五月丙午、都督の方政が可藍柵で黎利を破った。
- 六月壬午、順天府の昨年の水害の田租を免じた。戊子、劉江が望海堝で倭寇を殲滅したので、江を廣寧伯に封じた。
- 秋七月庚申、鄭和が還った。
- 八月、中官の馬騏が交阯乂安の土知府である潘僚を刺激して反かせた。
- 九月丙辰、慶雲が現れ、禮臣が表を上げて賀することを請うたが許さなかった。
- 冬十二月庚辰、法司に諭した。刑は聖人の慎むところである。一人の男女でもその死に方を得なければ、天地の和を損ない、水旱の災いを招く。それは朕の寛大に恤む意にまったく反する。今後、外の諸司の死罪はすべて京師へ送って審理し、三度覆奏したうえで刑を行え、と。乙未、工部侍郎の劉仲廉に交阯の戸口と田賦の実情を調べさせ、軍民の利害を察させた。
- この年、哈密・吐魯番・錫喇斯・伊思帕罕・真臘・占城・哈喇・阿魯・南渤利・蘇門荅剌・㧞逹克山・滿剌加が入貢し、琉球中山は四度入貢した。
永樂十八年(1420年)
- 春正月癸卯、李彬と都指揮の孫霖・徐謜が磊江で黎利を破った。
- 閏月丙子、翰林院學士の楊榮・金㓜孜を文淵閣大學士とした。庚辰、人材である布衣の馬麟ら十三人を抜擢して布政使・參政・參議とした。
- 二月己酉、蒲臺の妖婦である唐賽兒が乱を起こしたので、安遠侯柳升に師を率いて討たせた。
- 三月辛巳、卸石柵寨で賊を破ったが、都指揮の劉忠が戦没し、賽兒は逃げ去った。甲申、山東都指揮僉事の衛青が安邱で賊を破り、指揮の王真が諸城で賊を破り、俘虜を京師へ献じた。戊子、山東布政使の儲埏・張海、按察使の劉本らが盗を放置した罪で誅された。戊戌、進軍を遅らせた罪で柳升を召し出して吏に下したが、まもなく釈した。
- 夏五月壬午、左都督の朱榮に遼東を鎮めさせた。庚寅、交阯參政の侯保・馮貴が賊を防いで戦死した。
- 六月丙午、北京に地震があった。
- 秋七月丁亥、徐亨に開平の防備をさせた。
- 八月丁酉朔、日食があった。
- 九月己巳、皇太子を召した。丁亥、翌年より京師を南京とし、北京を京師とすると詔した。
- 冬十月庚申、李彬が指揮使の方政を遣わして老撾で黎利を破った。
- 十一月戊辰、北京への遷都を天下に詔した。この月、青・萊の飢えを賑わした。
- 十二月己未、皇太子と皇太孫が北京に至った。癸亥、北京の郊廟・宮殿が完成した。
- この年、はじめて東廠を設け、中官に事を探らせた。古麻剌朗王が来朝し、暹羅・占城・瓜哇・滿剌加・蘇門荅剌・蘇祿西王が入貢した。
永樂十九年(1421年)
- 春正月甲子朔、五廟の神主を太廟に安置し、奉天殿に出て朝賀を受け、大いに宴した。甲戌、南郊で天地を大祀した。戊寅、天下に大赦した。癸巳、鄭和がふたたび西洋へ使いした。
- 二月辛丑、都督僉事の胡原に師を率いて海を巡り倭を捕らえさせた。
- 三月辛巳、曾鶴齡らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
- 夏四月庚子、奉天・華蓋・謹身の三殿が火災に遭った。群臣に欠点を率直に述べるよう詔したが、遷都は不便だと述べた主事の蕭儀を殺した。乙巳、民に不便な務めと急を要さぬ諸務を罷め、十七年以前の滞納賦税を免じ、昨年の被災した田の糧を免ずると詔した。己酉、万寿節にあたるが、三殿の火災のため賀を止めた。癸丑、蹇義ら二十六人に天下を巡行させ軍民を安撫させた。
- 五月乙丑、意見を述べた給事中の柯暹、御史の何忠・鄭維桓・羅通らを出して知州とした。庚寅、交阯で屯田を行わせた。
- 秋七月己巳、帝が北征しようとして勅し、都督の朱榮に前鋒を、安遠侯柳升に中軍を、寧陽侯陳懋に御前の精騎を、永順伯薛斌・恭順伯呉克忠に馬隊を、武安侯鄭亨・陽武侯薛祿に左右の哨を、英國公張輔・成山侯王通に左右の掖を領させた。
- 八月辛卯朔、日食があった。
- 冬十一月辛酉、中官の楊實、御史の戴誠らを分け遣わして天下の倉庫の出納の数を調べさせた。丙子、北征の軍糧を議し、戸部尚書の夏原吉、刑部尚書の呉中を獄に下し、兵部尚書の方賓は自殺した。辛巳、侍讀の李時勉が時務十五事を条上して帝の意に逆らい、獄に下された。甲申、直隷・山西・河南・山東および南畿の應天など五府、滁・和・徐の三州の丁壮を徴発して糧を運ばせ、翌年二月に宣府へ届くようにした。
- この年、衛拉特の賢義王太平、安樂王巴圖博囉が来朝した。忽魯謨斯・阿丹・祖法兒・剌撒・不剌哇・木骨都束・古里・柯枝・加異勒・錫蘭山・溜山・南渤利・蘇門答剌・阿魯・滿剌加・甘巴里・蘇祿・榜葛剌・浡泥・古麻剌朗王が入貢し、暹羅は二度入貢した。
永樂二十年(1422年)
- 春正月己未朔、日食があったので朝会を罷め、群臣に身を修め省みるよう詔した。辛未、南郊で天地を大祀した。壬申、豐城侯李彬が交阯で卒した。
- 二月乙巳、隆平侯張信、兵部尚書の李慶に北征の軍糧を分けて督させ、民夫二十三万五千余を役して糧三十七万石を運ばせた。
- 三月丙寅、有司が災害に遭ったときはまず賑わし後に報告するよう詔した。乙亥、阿嚕台が興和を侵し、都指揮の王喚が戦死した。丁丑、みずから阿嚕台を征し、皇太子が監國した。戊寅、京師を発した。辛巳、鷄鳴山に宿り、阿嚕台は逃げた。
- 夏四月乙卯、雲州に宿り大閲兵を行った。
- 五月乙丑、偏嶺で狩りをした。丁卯、大閲兵を行った。辛未、西凉亭に宿った。壬申、大閲兵を行った。乙酉、開平に宿った。
- 六月壬辰、軍が應昌を出るにあたり、方陣を組んで進ませた。癸巳、阿嚕台の兵が萬全を攻めているとの諜報があり、諸將は兵を分けて還り撃つことを請うたが、帝は「偽りだ。彼らは大軍がその巣穴を衝くのを恐れ、わが師を牽制しようとしているのだ。あえて城を攻めるものか」と言った。甲午、陽和谷に宿ると、萬全を攻めた寇は果たして逃げ去った。
- 秋七月己未、阿嚕台が輜重を庫掄海のほとりに棄てて北へ逃げたので、兵を出してこれを焼き、その家畜を収め、ついに師を返した。帝は諸將に「阿嚕台があえて背き逆らうのは、烏梁海を羽翼と恃んでいるからだ。師を還してこれを翦るべきである」と言い、歩騎二万を選んで五道に分けて並び進ませた。庚午、竒拉爾河で遭遇し、帝がみずから撃ち破って三十里追い、部長数十人を斬った。辛未、河西を巡って捕らえ斬ること甚だ多かった。甲戌、烏梁海の残党が軍門に至って降った。この月、皇太子が南北直隷・山東・河南の郡縣の水害の糧と飼い葉あわせて六十一万余を免じた。
- 八月戊戌、道を分けて進んだ諸將がみな勝報を献じた。辛丑、凱旋を天下に詔した。壬寅、鄭亨・薛祿に開平を守らせた。鄭和が還った。
- 九月壬戌、京師に至った。癸亥、左春坊大學士の楊士竒が輔導に欠けるところがあったとして獄に下された。丙寅、ふたたび吏部尚書の蹇義、禮部尚書の吕震を獄に下したが、まもなくいずれも釈した。辛未、従征の功を録し、左都督の朱榮を武進伯、都督僉事の薛貴を安順伯に封じた。
- 冬十月癸巳、中官および朝臣八十人を分け遣わして天下の倉の糧の出納の数を調べさせた。
- 十二月辛卯、朱榮に遼東を鎮めさせた。
- 閏月戊寅、乾清宮が火災に遭った。
- この年、暹羅・蘇門答剌・阿丹などの国が使者を遣わし貢物に随行させた。占城・琉球中山・布哈爾・哈密・衛拉特・吐魯番・瓜哇が入貢した。
永樂二十一年(1423年)
- 春正月乙未、南郊で天地を大祀した。癸卯、交阯參將の榮昌伯陳智が車來で黎利を追って破った。
- 二月己巳、都指揮使の鹿榮が柳州の叛いた蠻を討ち平らげた。
- 三月庚子、御史の王愈らが重罪の囚を会同して処断した際、誤って無罪の四人を殺したので、棄市に処された。
- 夏五月癸未、開封・南陽・衛輝・鳳陽などの府の昨年の水害の田租を免じた。己丑、常山護衛指揮の孟賢らが謀反して誅に伏した。
- 六月庚戌朔、日食があった。
- 秋七月戊戌、ふたたびみずから阿嚕台を征した。安遠侯柳升・遂安伯陳英に中軍を、武安侯鄭亨・保定侯孟瑛に左哨を、陽武侯薛祿・新寧伯譚忠に右哨を、英國公張輔・安平侯李安に左掖を、成山侯王通・興安侯徐亨に右掖を、寧陽侯陳懋に前鋒を領させた。庚子、李時勉を釈してその官を復した。辛丑、皇太子が監國した。壬寅、京師を発した。戊申、宣府に宿り、居庸關の守將に勅して諸司の進上を止めさせた。
- 八月己酉、大閲兵を行った。庚申、黒峪・長安嶺など辺の要害を塞いだ。丁丑、皇太子が両京・山東の郡縣の水害の田租を免じた。
- 九月戊子、西陽河に宿った。癸巳、阿嚕台が衛拉特に敗れて部落が潰え散ったと聞き、そこで師を駐めて進まなかった。
- 冬十月甲寅、上莊堡に宿った。北方の王子である額森托干が部下を率いて降ったので、忠勇王に封じ、金忠の姓名を賜った。庚午、師を凱旋させた。
- 十一月甲申、京師に至った。
- この年、錫蘭山王が来朝し、また使者を遣わして入貢した。占城・古里・忽魯謨斯・阿丹・祖法兒・剌撒・不剌哇・木骨都束・柯枝・加異勒・溜山・南渤利・蘇門答剌・阿魯・滿剌加・錫拉斯・榜葛剌・琉球中山が入貢した。
永樂二十二年(1424年)
- 春正月甲申、阿魯台が大同・開平を侵したので、群臣に北征を議するよう詔し、辺將に勅して兵を整え命を待たせた。丙戌、山西・山東・河南・陝西・遼東の五都司および西寧・鞏昌・洮・岷の各衛の兵を徴し、三月に北京および宣府へ集まるよう期した。戊子、南郊で天地を大祀した。癸巳、鄭和がふたたび西洋へ使いした。
- 三月戊寅、大閲兵を行い、諸將に親征を諭した。柳升・陳英に中軍を、張輔・朱勇に左掖を、王通・徐亨に右掖を、鄭亨・孟瑛に左哨を、薛祿・譚忠に右哨を、陳懋・金忠に前鋒を領させた。己卯、邢寛らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
- 夏四月戊申、皇太子に監國を命じた。己酉、京師を発した。庚午、隰寧に宿り、阿嚕台が逹蘭納穆爾河へ走ったとの諜報を得て、ただちに師を進めた。
- 五月己卯、開平に宿り、使者を遣わして阿嚕台の諸部を招き諭した。乙酉、道中の遺骸を埋めた。丁酉、應昌で群臣に宴し、中官に太祖の御製の詞五章を歌わせて、「これは先帝が後嗣を戒められたものである。軍旅にあってもどうして忘れられようか」と言った。己亥、威遠州に宿り、ふたたび群臣に宴し、みずから詞五章を作って中官に歌わせた。皇太子が令して廣平・順徳・揚州および湖廣・河南の郡縣の水害の田租を免じた。
- 六月庚申、前鋒が逹蘭納穆爾河に至ったが敵を見なかったので、張輔らに山谷を三百里にわたって捜し尽くさせたが得るところがなく、進んで河のほとりに駐した。癸亥、陳懋らが兵を引いて白邙山に達したが、糧が尽きて還った。甲子、師を凱旋させ、鄭亨らに歩卒を率いて西の開平で合流させた。壬申の夜、南京に地震があった。
- 秋七月庚辰、清水源の崖に石を刻んだ。戊子、吕震を遣わして凱旋を太子に諭し、詔して天下に告げた。己丑、蒼崖戍に宿ったところ体調を崩し、左右を顧みて「夏原吉は朕を愛してくれていた」と嘆いた。庚寅、榆木川に至って病が重くなり、遺詔して位を皇太子に伝え、喪礼はすべて髙皇帝の遺制どおりとさせた。辛卯、崩じた。年は六十五であった。
- 太監の馬雲がひそかに大學士の楊榮・金㓜孜と謀り、六軍が外にあるため喪を秘して発せず、錫を鎔かして棺を作って納め、龍轝に載せ、至る所で朝夕の食膳を常の儀式どおり供えた。壬辰、楊榮が御馬監少監の海壽とともに馳せて皇太子に訃を告げた。壬寅、武平鎮に宿り、鄭亨の歩軍が来て合流した。
- 八月甲辰、楊榮らが京師に至り、皇太子はその日のうちに太孫を遣わして開平で迎えさせた。己酉、鵰鶚谷に宿り、皇太孫が軍中に至って喪を発した。壬子、郊に至り、皇太子が迎え入れて仁智殿で加殮し、梓宮に納めた。
- 九月壬午、尊諡を奉って體天𢎞道髙明廣運聖武神功純仁至孝文皇帝、廟號を太宗とし、長陵に葬った。嘉靖十七年(1538年)九月、尊号をあらためて啟天𢎞道髙明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝、廟號を成祖とした。
史論
- 贊にいう。文皇は若くから兵事に習熟し、幽燕という要害の地に拠り、建文の弱さに乗じて長駆して内に向かい、四海を領有した。
- 即位ののちは、みずから節倹を行い、水害・旱害は朝に報告があれば夕には賑わし、ふさぎ隠されることがなかった。人を知り任用に長け、内も外も見通しがきいた。雄々しく武を用いる方略は高祖と符を合わせるようで、六師をしばしば出して漠北の塵を清めた。
- 晩年に至って威徳は遠くまで及び、四方は服従し、朝命を受けて入貢した国はおよそ三十国、版図の広さは漢唐をはるかに越えた。その成功と偉業は際立って盛んである。
- しかし建文の代を革めたときの倒行逆施は、恥ずべき欠点としてやはり覆い隠せるものではない。