明史卷六 本紀第六 成祖二

明の成祖 朱棣の永樂元年から十一年までを記す巻。北平を北京と改めて宮殿の造営を始め、鄭和をたびたび西洋へ遣わし、張輔らに安南を平定させて交阯布政司を置いた。北方では自ら漠北へ親征して布尼雅錫哩・阿嚕台を破り、内政では永樂大典を完成させ、會通河を開き、貴州布政司を新設した。

年表(27件)

永樂元年(1403年)

  • 春正月己卯朔、奉天殿に出て朝賀を受け、群臣と属国の使者に宴を賜った。乙酉、太廟に享した。辛卯、南郊で天地を大祀した。周王橚・齊王榑・代王桂・岷王楩の旧封を復した。北平を北京とした。
  • 癸巳、保定侯孟善に遼東を鎮めさせた。丁酉、宋晟を平羌將軍として甘肅を鎮めさせた。
  • 二月庚戌、北京に留守行後軍都督府・行部・國子監を置き、北平を順天府と改めた。乙卯、御史を分け遣わして天下を巡らせることを定制とした。己未、寧王權の封を南昌へ移した。郭勒齊汗に書を贈り、使者を遣わして通好することを許した。
  • 癸亥、耤田を耕した。乙丑、使者を遣わして烏斯藏に尚師哈里瑪を召した。己巳、北京六府の飢えを賑わした。辛未、法司に五日に一度罪囚を引き出して奏上させた。壬申、戦地の野ざらしの骨を埋めた。甲戌、髙陽王髙煦に開平で辺境に備えさせた。
  • 三月庚辰、江陰侯呉髙に大同を鎮めさせた。壬午、北平行都司を大寧都司と改めて保定へ移し、はじめて大寧の地を烏梁海に与えた。戊子、平江伯陳瑄、都督僉事の宣信を總兵官として海運を督し遼東・北京へ兵糧を送らせ、毎年の常例とした。甲午、直隷・北京・山東・河南の飢えを賑わした。
  • 夏四月丁未朔、安南の胡□が陳氏の封爵を継ぐことを乞うたので、使者を遣わして実情を調べて報告させた。己酉、戸部尚書の夏原吉に蘇・松・嘉・湖の水害を治めさせた。辛未、岷王楩がほしいままにふるまい法を守らなかったので、その官属を降した。甲戌、襄城伯李濬に江西を鎮めさせた。
  • 五月丁丑、天下の荒れて未開墾の田の額税を除いた。癸未、死罪以下を宥し、順に一等を減じた。庚寅、山東の蝗を捕らえた。丁酉、河南の蝗のため今年の夏税を免じた。四月にふたたび功を論じ、駙馬都尉の袁容ら三人を侯に、陳亨の子の懋ら六人を伯に封じた。
  • 六月壬子、代王桂を召したが来なかったので、その護衛を削った。癸丑、給事中・御史を分け遣わして天下を巡らせ軍民を撫安させ、有司で奸貪の者は逮えて処断させた。丁巳、髙皇帝・髙皇后の尊諡をあらためて奉った。戊辰、武安侯鄭亨に宣府を鎮めさせた。
  • 秋七月庚寅、ふたたび郭勒齊に書を贈った。
  • 八月己巳、流罪以下の者を出して北京の田を開墾させた。甲戌、直隷の蘇州など十郡、浙江など九省の富民を移して北京を実たした。
  • 九月癸未、寶源局に農具を鋳させ、山東の兵災に苦しむ窮民に給した。庚寅、はじめて中官の馬彬を瓜哇の諸国へ使いさせた。乙未、歴城侯盛庸が怨みごとを言ったとして爵を削られ、まもなく自殺した。庚子、岷王楩の護衛を削った。
  • 冬十一月乙亥朔、朝鮮など諸国に暦を頒ち、令とした。壬辰、河を浚う民夫を帰した。甲午、北京に地震があった。乙未、六科の辦事官に意見を述べさせた。丙申、韓觀が柳州の山賊を討って平らげた。
  • 閏月丁卯、胡□を安南國王に封じた。
  • この年、はじめて内臣を出して鎮めさせ、また京營の軍を監させた。朝鮮の入貢は六度、これ以後は年ごとの貢賀が常例となった。琉球中山・山北・山南、暹羅、占城、瓜哇西王、日本、剌泥、安南が入貢した。

永樂二年(1404年)

  • 春正月乙巳、ふたたび夏原吉に蘇・松の水を治めさせた。乙卯、南郊で天地を大祀した。丁巳、屯田の賞罰の例を定めた。己巳、世子髙熾と髙陽王髙煦を京師へ召し還した。
  • 三月乙巳、曾棨らに進士及第・出身を差をつけて賜った。己酉、はじめて進士を選んで翰林院庶吉士とした。庚戌、吏部が制に違って士を推薦した千戸を罪しようと請うたが、帝は「馬周は常何によって進んだのではないか。才があれば官を授け、なければ罷めさせればよい」と言った。戊辰、敷恵王允熙を甌寧王に改め封じ、懿文太子の祀りを奉らせた。
  • 夏四月辛未朔、東宮の官属を置いた。壬申、僧の道衍を太子少師とし、姓を姚に復させ、廣孝の名を賜った。甲戌、子の髙熾を皇太子に立て、髙煦を漢王、髙燧を趙王に封じた。壬午、汪應祖を琉球國山南王に封じた。
  • 五月壬寅、豐城侯李彬に廣東を鎮めさせ、清遠伯王友を總兵官として舟師を率い海を巡らせた。
  • 六月丁亥、冗官を削った。辛卯、松江・嘉興・蘇州・湖州の飢えを賑わした。甲午、哈密の恩克特穆爾を忠順王に封じた。
  • 秋七月壬戌、鄱陽の民が先賢をそしる書を進めたので、杖を加えその書を破棄した。丙寅、江西・湖廣の水害を賑わした。
  • 八月丁酉、もとの安南國王陳日煃の弟の天平が亡命して来た。
  • 九月丙午、周王橚が来朝して騶虞を献じた。百官が賀を請うたが、帝は「瑞応は徳に応じて至るもの。騶虞がまことに祥であるなら、朕はいっそう身を修め省みるべきだ」と言った。丁卯、山西の民一万戸を移して北京を実たした。今後、御史が巡行して吏を察するときは人の噂を拾い集めてはならず、賢否はすべて実際の事跡を挙げて報告させることとした。
  • 冬十月丁丑、河が開封で決壊した。乙酉、蒲城・河津で黄河が澄んだ。この月、長興侯耿炳文が僭上で不道であるとしてその家を没収され、炳文は自殺した。
  • 十一月甲辰、奉天門に出て囚を録した。癸丑、京師および濟南・開封に地震があり、群臣に勅して身を修め省みさせた。戊午、蘇・松・嘉・湖・杭の水害の田租を免じた。
  • 十二月壬辰、同州の韓城で黄河が澄んだ。この月、李景隆が家にあって不道であるとして爵を削られ、私邸に幽閉され、その家を没収された。
  • この年、占城・巴什伯里・琉球山北・山南・瓜哇・真臘が入貢し、暹羅・日本・琉球中山は二度入貢した。

永樂三年(1405年)

  • 春正月乙巳、韃靼の索和爾が内属した。庚戌、南郊で天地を大祀した。甲寅、使者を遣わして安南を責め諭した。庚申、順天・永平・保定の田租をあらためて二年免じた。
  • 二月己巳、行部尚書の雒僉が意見を述べたことが怨みごとにあたるとして誅された。癸未、趙王髙燧が北京に留まって守った。
  • 三月甲寅、湖廣の水害の田租を免じた。
  • 夏月壬申(夏四月の誤りか)、直隷・浙江・湖廣・四川・廣東・江西・福建・河南の、跡絶えた戸の田租三万五千余頃分を除いた。
  • 六月己卯、中官の鄭和が舟師を率いて西洋の諸国へ使いした。庚申、中官の山壽らに兵を率いて雲州へ出て敵情をうかがわせた。甲申、夏原吉らに蘇・松・嘉・湖の飢えを賑わさせ、天下の農民の戸口食鹽鈔を免じた。庚寅、胡□が謝罪し、陳天平を迎えて帰国させたいと請うた。
  • 秋九月丁酉、蘇・松・嘉・湖の水害の田租あわせて三百三十八万石を免じた。丁巳、山西の民一万戸を移して北京を実たした。
  • 冬十月乙丑、駙馬都尉の梅殷を殺した。丁卯、齊王榑に罪があったので、三度書を賜って戒めた。戊子、祖訓を諸王に頒った。
  • 十二月戊辰、沐晟が八百を討って降した。庚辰、都督僉事の黄中・吕毅が兵をもって陳天平を安南へ送り入れた。
  • この年、蘇門荅剌・滿剌加・古里・浡泥が来貢し、その長を王に封じた。日本が馬を貢し、あわせて捕らえた倭寇で辺境の害となっていた者を差し出した。瓜哇の東西・占城・碟里・日羅夏治・合貓里・火州・回回が入貢し、暹羅・琉球山南・山北は二度、琉球中山は三度入貢した。

永樂四年(1406年)

  • 春正月丁未、南郊で天地を大祀した。丙辰、はじめて午の刻の朝に出て、群臣にゆっくり事を奏し論じさせた。
  • 三月辛卯朔、先師孔子に釋奠した。甲午、遼東の開原・廣寧に馬市を設けた。乙巳、林環らに進士及第・出身を差をつけて賜った。丙午、胡□が芹站で陳天平を襲って殺し、前の大理卿薛嵓が死んだ。黄中らは兵を引いて還った。
  • 夏四月己卯、使者を遣わして散逸した書を買い求めた。
  • 五月丁酉、常州・廬州・安慶の飢えを賑わした。庚戌、齊王榑がおごり法を守らなかったので、官属と護衛を削り、京師にとどめた。
  • 六月己未朔、日食があるはずだったが曇って見えず、禮官が表を上げて賀することを請うたが許さなかった。丙寅、南陽が瑞麥を献じたので、禮部に諭して「近ごろ郡縣がしばしば祥瑞を奏するが、これだけは豊年のしるしだ」と言い、宗廟に薦めさせた。
  • 秋七月辛卯、朱能を征夷將軍とし、沐晟・張輔を副として、師を率い道を分けて安南を討たせた。兵部尚書の劉儁が軍務に参贊し、行部尚書の黄福、大理卿の陳洽が兵糧を督した。詔にいう。安南の民はみな朕の赤子である。ただ黎季犛父子は首悪であるから必ず誅し、その他の脅迫されて従った者は放免せよ。罪人を得たならば陳氏の子孫の賢者を立てよ。乱を養うな、寇を侮るな、廬や墓を毀すな、稲を損なうな、財貨を奪い子女を掠めるな、降った者を殺すな。一つでも犯せば功があっても赦さぬ、と。
  • 乙巳、誹謗の禁を重ねて申し渡した。
  • 閏月壬戌、翌年五月に北京の宮殿を建てると詔し、大臣を分け遣わして四川・湖廣・江西・浙江・山西で木を伐り出させた。
  • 八月丁酉、通政使に、民の事を上書し奏する者は小事でも必ず報告するよう詔した。癸丑、齊王榑を廃して庶人とした。
  • 九月戊辰、蘇・松・常・杭・嘉・湖の流民で生業に復した十二万余戸を賑わした。
  • 冬十月戊子、成國公朱能が陣中で卒し、張輔が代わってその衆を率いた。乙未、隘留關を克した。庚子、沐晟が師を率いて白鶴で合流した。
  • 十一月己巳、孝陵の松柏に甘露が降り、神樂觀に醴泉が湧いたので、太廟に薦め、百官に賜った。辛巳、戸部の人材である髙文雅が上書して意見を述べたので、官を授けた。
  • 十二月辛卯、天下に赦して死刑以下を宥した。張輔が嘉林江で安南の兵を大破した。丙申、多邦城を抜いた。丁酉、その東都を克した。癸卯、西都を克し、賊は逃れて海に入った。辛亥、甌寧王允熙の邸宅が火事となり、王が薨じた。
  • この年、暹羅・占城・于闐・浡泥・日本・琉球中山・山南・娑羅が入貢し、瓜哇の東西・真臘は二度、巴什伯里は三度入貢した。琉球が閹人を進めたが返し、回回の結雅渠が玉椀を進めたが受けなかった。

永樂五年(1407年)

  • 春正月丁卯、南郊で天地を大祀した。己巳、張輔が木丸江で安南の兵を大破した。
  • 二月庚寅、翰林學士の解縉を出して廣西參議とした。
  • 三月丁巳、尚師の哈里瑪を大寶法王に封じた。辛巳、張輔が富良江で安南の兵を大破した。
  • 夏四月辛卯、皇長孫の瞻基が閣を出て学に就いた。己酉、順天・河間・保定の飢えを賑わした。
  • 五月甲子、張輔が黎季犛・黎蒼を捕らえて京師へ献じ、安南が平定された。河南が飢えたので、災害を隠していた有司を逮えて処断し、都察院に勅して、災害の被害を実情どおり報告しない者は罪すると定めた。
  • 六月癸未、安南平定により天下に詔して交阯布政司を置いた。己丑、山陽の民の丁珏が同郷の者の誹謗を告発したので、刑科給事中に抜擢した。甲午、永樂二年六月以後に罪を犯して官を去った者をことごとく宥すと詔した。乙未、張輔が師を移して韓觀と会し、潯・柳の叛いた蠻を討った。癸未、張輔に交阯の人材を訪ねさせ、礼を尽くして京師へ送らせた。
  • 秋七月乙卯、皇后が崩じた。丁卯、河南で河があふれた。
  • 八月乙酉、左都督の何福に甘肅を鎮めさせた。庚子、囚を録し、雑犯の死罪は等を減じて戍に、流罪以下は釈放した。
  • 九月壬子、鄭和が海賊の陳祖義を捕らえて京師へ至ったので斬った。乙卯、奉天門に出て安南の俘虜を受け、將士に大いに賜った。
  • 冬十月、潯・柳の蠻が平定された。
  • 十一月乙丑、永樂大典の編修が完成した。
  • この年、琉球中山・山南・娑羅・日本・巴什伯里・阿魯・賽瑪爾堪・蘇門荅剌・滿剌加・小葛蘭が入貢した。

永樂六年(1408年)

  • 春正月丁巳、岷王楩にふたたび罪があったので、その官属を罷めた。辛酉、南郊で天地を大祀した。
  • 二月丁未、北京の永樂五年以前の滞納賦税を除き、諸種の課程を三年免じた。
  • 三月癸丑、寧陽伯陳懋に寧夏を鎮めさせた。乙卯、河南・山東・山西の永樂五年以前の滞納賦税を除いた。
  • 夏四月丙申、はじめて雲南で鄉試を行わせた。
  • 五月壬戌、夜に京師で地震があった。
  • 六月庚辰、北京の諸司の急を要さぬ務めと買い付けを罷めて民の困窮を救うよう詔し、流民で帰り来た者は三年の徭役を免じた。丁亥、張輔・沐晟が師を凱旋させて京へ還った。
  • 秋七月癸丑、交阯平定の功を論じ、張輔を英國公、沐晟を黔國公、王友を清遠侯に進め封じ、都督僉事の柳升を安遠伯に封じ、その他の爵賞にも差があった。
  • 八月乙酉、交阯の簡定が反したので、沐晟を征夷將軍として討たせ、劉儁がなお軍務に参贊した。
  • 九月己酉、刑部に滞った獄を疎通させた。癸亥、鄭和がふたたび西洋へ使いした。
  • 冬十一月丁巳、囚を録した。
  • 十二月丁酉、沐晟が簡定と生厥江で戦って敗れ、劉儁と都督僉事の吕毅、參政の劉昱が死んだ。この月、柳升・陳瑄・李彬らが舟師を率い、道を分けて沿海の倭を捕らえた。
  • この年、郭勒齊がその配下に弑され、布尼雅錫哩が立って汗となった。浡泥國王が来朝し、衛拉特・占城・于闐・暹羅・賽瑪爾堪・榜葛剌・馮加施蘭・日本・瓜哇・琉球中山・山南が入貢した。

永樂七年(1409年)

  • 春正月辛亥、戸部に辺関の茶の禁を厳しくさせた。癸丑、百官に上元節の休みを十日賜り、令とした。乙卯、南郊で天地を大祀した。
  • 二月乙亥、巡狩の通り道の郡縣に使者を遣わして高齢者を見舞い、八十以上には酒肉を、九十以上には帛を加えて賜った。丙子、致仕した知府の劉彦才ら九十二人を召して府・州・縣に分けて署せしめた。辛巳、北巡を天地・宗廟・社稷に告げた。壬午、京師を発ち、皇太子が監國し、張輔・王友に師を率いて簡定を討たせた。丁亥、忠誠伯茹瑺が谷王に謁さなかった罪で獄に下されて死んだ。戊子、鳳陽の皇陵に謁した。
  • 三月甲辰、東平州に宿り、泰山を望んで祭った。辛亥、景州に宿り、恒山を望んで祭った。乙卯、帝が奏文を見て平安の名があるのに気づき、「平保兒はまだ生きているのか」と言ったので、安は恐れて自殺した。壬戌、北京に至った。癸亥、官吏・軍民に大いに賜った。丙寅、挙兵のときの將士および北京で力を尽くした人民のうち、雑犯の死罪はすべて宥し、軍に充てられた者は官を復し、軍民は本籍・軍伍へ戻すよう詔した。壬申、柳升が青州の海上で倭を破ったので、勅して師を還らせた。
  • 夏四月癸酉朔、皇太子が代わって太廟に享した。壬午、海賊が欽州を侵したので、副總兵の李珪が將を遣わして撃ち破った。
  • 閏月戊申、皇太子が裁決した庶務を、六科が月ごとに類をまとめて奏することとした。丙辰、行在の法司に、重罪は必ず五度覆奏するよう諭した。
  • 五月己卯、昌平に山陵を営み、その山を天壽と名づけた。乙未、衛拉特の瑪哈木特を順寧王、太平を賢義王、巴圖博囉を安樂王に封じた。
  • 六月壬寅、北巡した郡縣の長吏を調べ、汶上知縣の史誠祖を治績第一として抜擢し、易州同知の張騰を獄に下した。辛亥、給事中の郭驥が布尼雅錫哩へ使いして殺された。丁卯、御史の洪秉ら四人を退け、今後は御史に吏員を用いないと詔した。
  • 秋七月癸酉、淇國公邱福を征虜大將軍とし、武成侯王聰・同安侯火真を副、靖安侯王忠・安平侯李遠を左右參將として布尼雅錫哩を討たせた。
  • 八月甲寅、邱福が臚朐河で敗れ、福および聰・真・忠・遠がみな戦死した。庚申、張輔が鹹子關で賊を破った。
  • 九月庚午朔、日食があった。張輔が太平海口で賊を破った。甲戌、北征で戦没した李遠に莒國公、王聰に漳國公を贈り、ついに親征を決意した。丙子、武安侯鄭亨に師を率いて辺を巡らせた。壬午、成安侯郭亮に開平の防備をさせた。
  • 冬十月丁未、邱福の封爵を削り、その家を海南へ移した。
  • 十一月戊寅、張輔が美良で簡定を捕らえ、京師へ送って誅した。
  • 十二月庚戌、濟寧から良鄉に至る、年々輸送に従事してきた民に田租一年分を賜った。乙丑、張輔を召し還した。
  • この年、滿剌加・哈喇・賽瑪爾堪・火州・古里・占城・蘇門荅剌・琉球中山・山南が入貢し、暹羅・榜葛剌は二度入貢した。

永樂八年(1410年)

  • 春正月辛未、寧陽侯陳懋を召して漠北の征に従わせた。己卯、皇太子が代わって南郊で天地を祀った。癸巳、昨年の揚州・淮安・鳳陽・陳州の水害の田租を免じ、軍民が売った子女を買い戻した。乙未、張輔が師を凱旋させ、なお沐晟らを留めて鎮めさせた。
  • 二月辛丑、北征を天下に詔し、戸部尚書の夏原吉に皇長孫瞻基を輔けて北京に留守させた。乙巳、皇太子が囚を録し、雑犯の死罪以下を赦すよう奏したので、これに従った。丁未、北京を発した。癸亥、通過する名山大川を祭らせた。乙丑、大閲兵を行った。
  • 三月丁卯、清遠侯王友に中軍を督させ安遠伯柳升を副とし、寧遠侯何福・武安侯鄭亨に左右の哨を、寧陽侯陳懋・廣恩伯劉才に左右の掖を、都督の劉江に前哨を督させた。甲戌、鳴鑾戍に宿った。乙亥、師に誓った。
  • 夏四月庚申、威虜鎮に宿り、駱駝で運ばせた水を衛士に給し、軍士がみな食べるのを見てはじめて食事を進めた。
  • 五月丁卯、臚朐河を飲馬と改名した。甲戌、布尼雅錫哩が西へ逃げたと聞き、飲馬河を渡って追った。己卯、鄂諾河で追いついて大破し、布尼雅錫哩は七騎で逃げた。丙戌、還って飲馬河に宿り、師を移して阿嚕台を征すると詔した。丁亥、回回の哈喇瑪雅が都指揮の劉秉謙を殺して肅州衛に拠って叛いたので、千戸の朱廸らが討ち平らげた。
  • 六月甲辰、阿嚕台が偽って降ったので、諸將に命じて陣を厳しくして待たせたところ、果たして衆をあげて侵して来た。帝はみずから精騎を率いて迎え撃って大破し、百余里追撃した。丁未、また破った。己酉、師を凱旋させた。
  • 秋七月丁卯、開平に宿った。帝は軍中にあって士卒の苦労を思い、常に野菜だけの食事をとっていたが、この日、宴を賜ってはじめて常の食事に復した。西寧侯宋琥に甘肅を鎮めさせた。辛巳、安慶・徽州・鳳陽・鎮江の飢えを賑わした。壬午、北京に至り、奉天殿に出て朝賀を受けた。甲午、功を論じて賞を差をつけて行った。
  • 八月壬寅、柳升を安遠侯に進め封じた。乙卯、都御史の陳瑛が寧遠侯何福を怨望のかどで弾劾したので、福は恐れて自殺した。庚申、開封で河があふれた。
  • 九月己巳、天壽山に行幸した。
  • 冬十月丁酉、北京を発した。この月、倭が福州を侵した。
  • 十一月甲戌、京師に至った。
  • 十二月癸巳、阿嚕台が使者を遣わして馬を貢した。戊午、陳季曠が降を乞うたので交阯右布政使としたが、季擴は命を受けなかった。
  • この年、碩尼堪が黄河の東岸を侵し、寧夏都指揮の王俶が敗れて没した。浡泥・吕宋・馮嘉施蘭・蘇門荅剌・榜葛剌が入貢し、占城が象を貢し、琉球山南・瓜哇・暹羅が馬を貢し、琉球中山は三度入貢した。

永樂九年(1411年)

  • 春正月甲戌、南郊で天地を大祀した。丙子、柳升に寧夏を鎮めさせた。己卯、張輔を征虜副將軍として沐晟と会し交阯を討たせた。丙戌、豐城侯李彬・平江伯陳暄に浙江・福建の兵を率いて海賊を捕らえさせた。
  • 二月辛亥、帝ははじめて陳瑛の数々の不法を聞き、獄に下して死なせた。丙辰、交阯に赦を詔した。丁巳、倭が昌化千戸所を陥れた。己未、工部尚書の宋禮が會通河を開いた。
  • 三月甲子、蕭時中らに進士及第・出身を差をつけて賜った。壬午、祥符縣の黄河の旧河道を浚った。戊子、劉江に遼東を鎮めさせた。
  • 夏六月乙巳、鄭和が西洋から還り、錫蘭山國王の亞烈苦奈兒を捕らえて献じたが、釈放した。この月、交阯右參議の解縉が贛江を掘ることを請うた罪で獄に下された。
  • 秋七月丙子、張輔が月常江で賊を破った。
  • 九月戊寅、法司に、死罪はすべて五度覆奏するよう諭した。壬午、屯田の軍で公務のため農務を妨げられた者は、収穫の徴収を免じることとし、令とした。
  • 冬十月乙未、北京へ移された軍民の賦役をゆるめた。癸卯、哈密の推勒特穆爾を忠義王に封じた。乙巳、ふたたび太祖實錄を修めた。
  • 十一月戊午、陝西の滞納賦税を免じた。癸亥、張輔が生厥江で賊を破った。丁卯、皇長孫の瞻基を皇太孫に立てた。壬申、韓觀を征夷副將軍として鎮を交阯に改め、都指揮の葛森に廣西を鎮めさせた。丙子、法司に勅して罪囚の処断を滞らせないようにさせた。丁丑、浙江の仁和・海寧・海鹽に潮を防ぐ堤を築いた。この月、使者を遣わして戦場の野ざらしの骨を埋めさせた。
  • 十二月壬辰、勅して福餘・朶顔・泰寧の三衛の罪を宥し、入貢させた。
  • 閏月丁巳、府・部の諸臣に軍民の利害を述べさせた。
  • この年、浙江・湖廣・河南・順天・揚州が水害に遭い、河南・陝西に疫病があったので、使者を遣わして賑わした。滿剌加王が来朝し、瓜哇・榜葛剌・古里・柯枝・蘇門荅剌・阿魯・彭亨・急蘭丹・南巫里・暹羅が入貢し、阿嚕台が馬を貢し、巴什伯里が文豹を献じ、琉球中山は三度入貢した。

永樂十年(1412年)

  • 春正月己丑、参内した官千五百余人にそれぞれ民の苦しみを述べさせ、述べない者は罪し、述べた内容が当を得なくとも咎めないこととした。丁酉、南郊で天地を大祀した。癸丑、平陽の飢えを賑わし、報告しなかった布政使および郡縣の官を逮えて処断した。
  • 二月辛酉、山西・河南の滞納賦税を免じた。庚辰、遼王植の護衛を削った。
  • 三月丁亥、豐城侯李彬に甘肅の叛いた寇の巴爾斯・多羅岱を討たせた。戊子、馬鐸らに進士及第・出身を差をつけて賜った。甲辰、北京の水害の租税を免じた。
  • 夏六月甲戌、戸部に諭して、郡縣の有司および朝廷の使者で、民の苦しみを目にしながら述べない者はことごとく逮えて処断させた。
  • 秋七月癸卯、中官が有司の政事に干渉することを禁じた。
  • 八月癸丑、張輔が神投海で交阯の賊を大破した。己未、辺將に勅して、長安嶺から西、洗馬林に至るまで石垣を築き濠と塹を深くさせた。
  • 冬十月戊辰、城南の武岡で狩りをした。
  • 十一月壬午、涼州の酋長の婁逹衮が叛いて赤斤蒙古へ走ったので、右庶子の楊榮を甘肅へ遣わしてこれを経略させた。丙申、鄭和がふたたび西洋へ使いした。
  • 十二月、錦衣衛指揮の紀綱が浙江按察使の周新を誣告して奏し、これを殺した。
  • この年、浡泥・占城・暹羅・滿剌加・榜葛剌・蘇門荅剌・南浡利・琉球山南が入貢した。

永樂十一年(1413年)

  • 春正月辛巳朔、日食があったので、朝賀と宴会を罷めると詔した。壬午、通政使・禮科給事中に諭し、朝覲する官がその領内の災害を報告せず、他人によって奏された場合は罪すると定めた。辛卯、南郊で天地を大祀した。辛丑、豐城侯李彬に甘肅を鎮めさせ、宋琥を召し還した。
  • 二月辛亥、はじめて貴州布政司を設けた。癸亥、北京の民戸に分けて馬を養い繁殖させることとし、令とした。甲子、北京へ行幸し、皇太孫が従った。尚書の蹇義、學士の黄淮、諭徳の楊竒士(楊士竒の誤りか)、洗馬の楊溥が皇太子を輔けて監國した。乙丑、京師を発ち、給事中・御史に、通過するところの高齢者を見舞い、酒肉と帛を賜るよう命じた。丙寅、仁孝皇后を長陵に葬った。辛未、鳳陽に宿り皇陵に謁した。
  • 夏四月己酉、北京に至った。
  • 五月丁亥、死罪で情状の軽い者は鈔を納めて罪を贖う例を定めた。壬辰、赤斤蒙古が婁逹衮を捕らえて献じた。丁未、曹縣が騶虞を献じ、禮官が賀を請うたが許さなかった。
  • 秋七月戊寅、阿嚕台を和寧王に封じた。
  • 八月甲子、北京に地震があった。乙丑、鎮遠侯顧成に思州・靖州の叛いた苗を討たせた。
  • 九月壬午、今後は郡縣の官が毎年春に領内を巡り、蝗や蝗の子が作物を害していればただちに捕り尽くすこととし、詔に従わない場合は二司もあわせて罪すると詔した。
  • 冬十月丙寅、璽書をもって皇太子に囚を録させた。
  • 十一月戊寅、野蚕の繭で衾を作り、皇太子に太廟へ薦めさせた。壬午、衛拉特の瑪哈木特の兵が飲馬河を渡り、阿嚕台が警報を告げたので、辺將に厳重な守備を命じた。甲申、寧陽侯陳懋、都督の譚青・馬聚・朱崇に寧夏・大同・山西の辺を巡らせ、士馬を選び練らせた。まもなく陝西・山西および潼關など五衛の兵を宣府に駐めさせ、中都・遼東・河南の三都指揮使司および武平など四衛の兵を北京に集めさせた。乙巳、應城伯孫巖に開平の防備をさせた。
  • 十二月壬子、張輔・沭晟が愛子江で交阯の賊を大破した(沐晟の誤りか)。
  • この年、嗎哈木特がその主の布尼雅錫哩を弑し、塔爾巴を立てて汗とした。巴什伯里・滿剌加・占城・瓜哇西王が入貢し、琉球中山は四度、琉球山南は二度入貢した。