民國演義強いて調停するも弟兄顔を翻し、権利を争い姻婭歓を失う(第一三○回 強調停弟兄翻臉 爭權利姻婭失歡)
張作霖の強硬姿勢
- 関外では和平を求める声が高まっていたが、張作霖は梁士詒・葉恭綽の説くところに従い、呉佩孚を追い落とす計略に望みをかけて調停に応じなかった。
- 広東・浙江との間に、孫文を総統、段祺瑞を副総統、梁士詒を総理、段芝貴を直隷督軍とし、呉佩孚を要職から外すという密約(三角同盟)が結ばれたとの噂が広まる。曹錕にもこの話が持ちかけられていたが、実現性は疑わしい。
- 二月中旬、梁士詒が続けて休暇を取る中、張作霖は関内の軍糧城に駐屯していた奉軍をあえて関外へ引き上げさせ、決別の姿勢を示した。これに驚いた徐世昌は孟恩遠を、曹錕は王承斌をそれぞれ関外へ派遣して奉軍の撤退中止を求めたが、張作霖はまともに取り合わなかった。
梁士詒更迭の試みと不発
- 呉佩孚は兵力が陝西・両湖に分散しており準備不足のため、当面は開戦を否定する通電を繰り返して沈黙を保っていた。
- 徐世昌は世論の梁士詒への不満を利用し、二月二十五日、梁士詒を退けて鮑貴卿を新内閣首班に据える通電を発した。鮑貴卿は張作霖と姻戚関係にあり、直隷側にも好感を持たれていたため事態の収拾を期待されたが、実際の効果は乏しかった。
- 張景惠・秦華・王承斌・曹銳・孟恩遠らが奉天で懸命に取りなしを図り、鮑貴卿自身も総理の座を望んで働きかけたが、張作霖は強硬な姿勢を崩さなかった。落胆した鮑貴卿は総理就任の話を自ら辞退した。
曹銳の奉天工作と曹錕の疑念
- 呉佩孚に日頃から嫉妬心を抱いていた曹銳は奉天で奉軍の撤退中止と増強を働きかけ、張作霖は見返りに「梁士詒の復職」「呉佩孚の免職」「段芝貴の直隷督軍就任」「京津地域を奉軍の駐屯地とすること」の四条件を提示した。
- 保定に戻った曹銳がこれを伝えると、曹錕は自分の管轄地に他人の軍を駐屯させる話に不快を示した。曹銳は「呉佩孚の兵権を削ぐことは兄(曹錕)自身の利益にもなる」と説き、曹錕は即答を避けて保留とした。
老臣たちの調停
- 張作霖・呉佩孚双方が車両を押さえて出兵準備を進める中、趙爾巽・張錫鑾(奉天側)、王士珍(直隷側)に張紹曾・王占元・孟恩遠を加えた面々が、双方に停戦・会談を呼びかける連名の調停電報を送った。両者に軍を後退させ、天津での会談を促す内容だったが、目立った効果はなかった。
保定軍事会議
- 呉佩孚は情勢が切迫していると見て保定へ赴き、曹錕に会議を招集させた。四月十一日、曹錕を主席に呉佩孚・曹銳・曹瑛・張福来・王承斌・馮玉祥・張之江ら幹部が集まり軍事会議が開かれた。
- 呉佩孚・張福来らは主戦論、曹銳・曹瑛は和議論を唱えて議論は紛糾。張福来は「直隷派の領袖として戦うか、他派の従属となるか」と曹錕に迫り、これに曹銳・曹瑛が「反逆の言だ」と激怒して拳銃を抜く騒ぎとなったが、王承斌が仲裁した。
- 馮玉祥は「張作霖の対日追従は国民の怒りを買っており、戦わず和すれば矛先が我々に向く」と主戦を後押しし、張国熔・呉心田・張錫元ら諸将も呉佩孚に呼応。曹錕はようやく開戦へ傾き、なお反対する曹銳・曹瑛を退けた。
開戦準備
- 立腹した曹銳は一時辞職を申し出たが、幕僚に諭されて休暇扱いとなり、職務は警務処長の楊以徳が代行することになった。
- 呉佩孚は情勢分析を語る。陝西・湖北への兵力分散、広東方面の情勢による浙江・安徽方面の牽制解除など、現時点なら戦機ありと判断。長期戦では日本の支援を受ける奉天側に分が悪いとし、短期決戦を主張した。曹錕はこれを容れ、呉佩孚を総司令、張国熔を東路司令、王承斌を西路司令、馮玉祥を後方司令に任じ、諸軍に出動準備を命じた。
- 一方、張作霖の軍は四月九日以降「京畿防衛」を名目に続々と関内へ入り、軍糧城・独流・良王庄・塘沽・天津方面へ展開。李景林の部隊や砲兵・輜重も続々進出し、住民は不安に駆られて逃げ惑った。
- 馬厂駐屯の直隷軍第二十六師(曹瑛の部隊)は、曹錕の叱責に憤った曹瑛の独断で命令を待たず保定へ引き上げてしまい、呉佩孚を激怒させた。呉佩孚は曹錕に曹瑛の更迭・処分を求めた。
評語
奉直戦争の発端は梁士詒内閣問題にあるとされるが、仮に梁を用いずとも直隷側の推す人物を立てれば張作霖が不満を持つのは同じであり、また双方に無関係の人物を立てても結局はどちらかの不興を買う。総統に人事権が伴わない弊害が、地方軍閥との関係にまで及んでいることを示している。