民國演義第一二九回 魯案を争い外交失敗し、梁閣を攻め内哄場を開く (爭魯案外交失敗 攻梁閣內哄開場)
呉佩孚、梁内閣を痛撃
奉天派の後援で成立した梁士詒内閣は、洛陽の呉佩孚にとって元来快くない存在だった。呉は膠済鉄路問題を口実に長文の通電を発し、梁士詒が国民や代表の意向を無視して独断で日本側の借款条件を呑み、路権を売り渡そうとしたと厳しく糾弾、梁を「売国」「媚外」と断じて即時退陣を要求した。
各省督軍の呼応
直隷系の江蘇・湖北・陝西・山東・江西の督軍・省長らが次々と呉に呼応する通電を発し、梁内閣攻撃の声は全国に広がる。
張作霖の反論
これに対し張作霖は、自らが曹錕とともに梁内閣成立を後押しした経緯を説明し、事実関係を確認せぬまま一方的に攻撃するのは当局者を追い詰めるだけだと呉を批判する電文を送る。これにより内閣問題は事実上、直隷派と奉天派の対立問題へと姿を変えていく。
直奉対立の先鋭化
呉は梁内閣に七日以内の退陣を迫る最後通牒に等しい強硬姿勢を崩さず、張作霖は浙江の盧永祥とも連携して梁内閣擁護の立場を続け、さらに武力による梁内閣擁立も辞さない構えを示す長文電を発する。奉天内部でも直隷との融和を説く穏健派(察哈爾都統張景惠ら)と、梁・葉らの流言に乗り呉佩孚討伐を主張する強硬派とに割れるが、呉を軽んじる張作霖は強硬派の主張に傾き、両師団六混成旅を出動準備させ、直隷方面との開戦含みの動きを見せる。
徐世昌・曹錕の苦しい調停
財政難の中で梁士詒に代わる人材もなく、総統徐世昌も曹錕も内心では梁内閣擁護の立場を崩せない。一方で呉佩孚は曹錕にとって頼みの将であり、正面から抑えることもできず、双方の板挟みとなる。
膠済鉄路問題の妥結
ワシントン会議では米英の仲介もあり、中日両国代表が数回の会議を経て、鉄路の評価額(金貨換算約五千三百万マルク相当)を十五年賦で中国が買い戻すことなどを骨子とする大綱がまとまり、王寵惠・顧維鈞・施肇基ら中国代表と日米英代表が署名する。条約の主な内容は、旧ドイツ権益の膠州租借地の中国への返還、日本軍・憲兵の撤退、青島税関の中国への編入、膠済鉄路とその附属財産の中国による買い戻しと日本人の運輸長・会計長への一定期間の起用、鉱山・塩田・海底電線・無線電信施設等の中国側への返還条件などを細かく取り決めるものであった。山東問題はこれで一応の決着を見た。
直奉間の一時的和解機運
魯案が落着したことで曹錕もようやく調停に前向きとなり、兄弟分の曹瑛の説得もあって王承斌を出関させ、徐世昌も張景惠を通じて張作霖に働きかける。呉佩孚も車慶雲を派遣して接触を図り、一時的に和解の気運が漂う。
評語
民国成立以来、内閣も軍閥も外交を内争の道具として利用してきた。外国もそうした駆け引きをしないわけではないが、彼らは決して自国の体面を損なわない。ひるがえって我が国は面目を失うばかりか主権まで損ない、そこから戦端が開かれて人民が巻き添えを食う。この内憂外患の時代にあって、外国に対して真に力を発揮しえたのは人民自身の力であり、魯案の経緯はまさにその証左である。政府や軍閥を頼みとするのは、亡国を招くに等しい。