民國演義第一〇九回 露乱に乗じ徐樹錚辺を籌し、独約を拒み陸徴祥電を通ず (乘俄亂徐樹錚籌邊 拒德約陸徵祥通電)
内閣改組と五国公使の再交渉呼びかけ
- 錢能訓の辞任を受け、徐総統は財政総長・龔心湛を国務総理代理とし、内務は司法総長・朱深が兼任、幣制局総裁は李思浩、北京大学校長は蔡元培に代わり胡仁源が署理となるなど人事が固まり、内外の騒擾は一応落ち着いた。
- 駐京の英・仏・日・伊・米五カ国公使は、イギリス公使・朱爾典を代表として、上海の南北和会再開を求める共同覚書を政府に提出した。
徐樹錚の野心と西北籌邊使就任
- 徐総統は和議停滞の原因が安福派(実質は徐樹錚)の妨害にあると内心では見ており、王揖唐を新たな南方交渉の総代表に任命し南下させた。
- 一方、徐樹錚は南北停戦で軍事的な出番を失ったため、外蒙古(モンゴル)の内向きの動きに乗じて自ら防辺の任を願い出た。政府はこれを認め、新設の「西北籌邊使」に任命。職権は西北地方の交通・開墾・鉱山・塩業・商業・教育・軍事にまで及ぶ広範なものだった。
- 徐樹錚はさらに西北辺防総司令の兼任も要求し、これも認められて軍権を握った。
山東紳民・国民の請願運動
- 山東の各団体(省議会・教育会・商会・農会・報界・学生連合会など)が代表八十五人を北京に送り、山東問題の三大要求(巴黎和約の山東条項拒否、高徐・順濟鉄道草約の廃棄、売国奴の厳罰)を掲げて総統への面会を求めた。
- 徐総統・龔代総理はしばらく面会を渋ったが、最終的に代表と会見し、国務院は「膠澳(青島)の主権は必ず回収する」との回答を出した。満足はできないながらも一定の前進として代表団は帰郷した。
- 北京市民代表も五百人規模で請願し、新華門前で一夜を明かすなどした末、政府は「山東条項の保留なき署名は行わない」等の方針を示した。
パリ講和条約、中国は署名拒否
- 七月二日、パリでは連合国と敗戦国ドイツとの講和条約(ヴェルサイユ条約)が正式に調印されたことが北京に伝わった。条約の内容は領土割譲、植民地放棄、ポーランド等の独立承認、軍備制限、皇帝ヴィルヘルム二世の処罰、巨額の賠償などで、ドイツは抵抗の末、国会での賛否投票(賛成228対反対138)を経て署名した。
- しかし中国全権・陸徴祥らは、山東問題について条約への留保が最後まで認められなかったため、署名を拒否。理由を詳述した電報を政府に送り、自らの辞職と処分を願い出た。
- 政府はこれに対し、辞職は認めず引き続き善後策を講じるよう返電。ドイツとの戦争状態終結の宣言方法についても協議を求めた。
- その後、徐総統は正式な通令を発し、山東問題は一朝一夕の由来ではなく今回の署名可否だけで決着するものではないとして、国民に冷静な対応を呼びかけた。オーストリアとの講和条約(対奥条約)には署名する方針を確認した。
評語
- 著者は徐樹錚の才知を認めつつも、その心術は人に語れぬものだとし、共和政体の下で専ら破壊を事とし、南北停戦後も西北辺防の名目で軍権を手放さない姿勢を批判する。「民国に小徐あり、安寧を求むるは難し」と評する。
- 陸徴祥らがパリで最後まで青島の留保に固執し署名を拒んだ姿勢は、曹汝霖・章宗祥・陸宗輿らに比べれば節度あるものと評価しつつも、結局は挽回できなかったことを惜しみ、軍閥が内輪もめに終始し大局を顧みない現状を嘆いている。