民國演義第一〇七回 会議を停め苛条を拒絶し、外情に徇い禁令を頒行す (停會議拒絕苛條 徇外情頒行禁令)
東京拘束学生の処遇と各地の反応
- 東京で拘束された留学生は麴町・日比谷・表町の各警察署に分散拘留された。日本側は一部を刀傷事件の容疑者として東京監獄送りにしようとし、留学生は反発した。
- 代理公使・莊景珂、監督・江庸は動きが鈍く、北京政府へは「制御できない」と及び腰の報告をするのみだった。
- 上海はこれを受け対日ボイコットを決議、広州でも十万人規模の国民外交後援会が開かれ、二十一箇条撤廃・青島直接返還・売国奴厳罰・拘束学生釈放を求める請願書を軍政府(岑春煊・伍廷芳)に提出した。
上海和会、南方の八条件で決裂
- 広東軍政府の要請を受け、南方総代表・唐紹儀は北方総代表・朱啓鈐に八箇条の議和要綱を提示。内容は山東問題不承認、中日密約の無効宣言と関係者厳罰、参戦軍等の即時撤廃、督軍省長の更迭、旧国会解散令の無効宣言、政務会議の設置とその監督権など、北京政府に極めて不利なものだった。
- 朱啓鈐は独断でこれを拒絶し辞意を表明、唐紹儀も広東軍政府に辞表を出した(広東側は慰留、北京側は朱の辞職を許可)。北京政府は和平継続を呼びかける通令を出したが、南方の主張とは大きな隔たりが残った。
徐樹錚の暗躍と国会問題
- 徐総統は朱啓鈐派遣に際し、総統の地位以外は譲歩してよいと内密に含みを持たせていたとされ、これは安福派を牽制する意図だったとされる。
- 北方代表団中の安福系(方樞・汪有齡ら)が朱の姿勢を密告し、安福派は激昂。衆議院を握る安福派は総理・錢能訓を呼び、国会問題への言及は行政委員の権限を超えると詰問した。
- 徐総統は行き詰まりを感じ、朱啓鈐らを召還する方向へ傾き(後の王揖唐派遣の伏線)、国務院は各省へ青島問題に関する通電を発し、日本の妥協案(膠州湾の主権返還だが経済権益と居留地は維持)を巡る難航ぶりを説明した。
パリ講和会議と国際連盟の絡み
- パリ講和会議では国際連盟規約が講和条約の一部とされ、条約に署名しなければ連盟にも加われない仕組みになっていた。日本代表・牧野男爵は山東主権返還を示唆する声明を出したものの、正式な条約への明記は拒んだため、中国全権・陸徴祥は署名の可否で板挟みとなった。
- 国内では排日運動が続き、教育総長・傅増湘は辞意を貫いて行方をくらまし、次長・袁希濤が部務を代行した。
学生の罷課と日本の懐柔工作
- 北京の学生は正式に授業ボイコット(罷課)を決議し、意見書で外交の失敗・教育総長更迭・留学生弾圧への抗議と要求を掲げた。各地の学校もこれに続き、対日ボイコット運動も広がった。
- 日本側は外務大臣名で「山東・青島の主権は誠実に中国へ返還する」との友好的な声明を出し、代理公使・莊景珂を通じて中国政府に伝えたが、直後に北京の伝単配布を「治安を乱す」として抗議する公文を送るなど二枚舌の対応を見せた。
- 外交委員・林長民が煽動の疑いをかけられ辞職に追い込まれ、政府は集会・伝単配布を禁じる通令、さらに曹汝霖・陸宗輿・章宗祥の行為を「山東・青島問題とは無関係」として擁護する通令を相次いで発した。
評語
- 著者は、政党の乱立とその党派性が南北和会の紛糾を招いた元凶だと論じ、とりわけ安福派の妨害が八条件提示の背景にあると指摘する。
- 曹・章・陸の三人は安福派の傍系であり、彼らが親日的であるがゆえに日本側もそれに乗じて圧力をかけてくるとし、「家は自ら壊してこそ人に壊される」という格言を引いて政府の自業自得を批判する。