民國演義第一〇二回 和局を賛し李督軍疾を致し、戦電を示し唐代表瞋を生ず (贊和局李督軍致疾 示戰電唐代表生瞋)
禁煙取締の限界
- 徐総統は上海の存土を焼却させた上、万国禁煙会にも協力を得たが、密輸・密売する奸商は後を絶たなかった。徐は改めて、軍人を装った密輸に対しても各省督軍・省長が専員を派遣し取り締まるよう命じる厳令を発した。
- しかし実際には、鉄道各駅の警察が旅客の荷物を過剰に検査したり、賄賂を取って密輸者を見逃したりする一方、軍隊の輸送には手を出せず、軍警が結託して利益を分け合う例も多かった。軍閥自身がアヘン愛用者であることも珍しくなく、取締りは形骸化していた。
内閣の正式改組
- 銭能訓が正式に国務総理に任命され、新内閣を組織した。銭は内務総長を兼任、外交総長は渡欧中の陸徴祥がそのまま留任(陳箓代理)、司法総長朱深、教育総長傅増湘、海軍総長劉冠雄も留任。交通総長曹汝霖は財政総長兼任を解かれ交通専任となり、財政総長には龔心湛、陸軍総長は段芝貴に代わり靳雲鵬が就任した。
- 巴里講和会議には陸徴祥に加え、顧維鈞・王正廷・施肇基・魏宸組の4名が全権委員として追加派遣された。
- 南北会議については朱啓鈐を全権代表として南京へ派遣し、江蘇督軍李純らと協議させたが、広東側は唐紹儀を総代表とし、上海を主張。結局、李純の仲介で朱啓鈐が上海に移り、民国8年2月から開催されることとなった。
- 李純は通電で、南北双方の協力によりようやく開議にこぎつけた経緯と、会議の成功を願う心情を表明した。
李純の負傷
- 開議準備の中、李純は会議事務の幹事らを引見中に階段を踏み外し転落、背骨を強打して負傷した。
- 医官の按摩治療を受けながら旬月にわたり静養し、ようやく回復した。この負傷は後に和議の不吉な前兆であったとも語られる。
上海和会の開幕
- 民国8年2月20日、南北総代表と分代表が上海の旧ドイツ総会に会し、開会式が行われた。北方総代表は朱啓鈐(分代表:呉鼎昌・王克敏ほか)、南方総代表は唐紹儀(分代表:章士釗・胡漢民ほか)。
- 両総代表はそれぞれ宣言を行い、内戦の原因は外力の助長にあるとしつつ、南北和平統一を誓った。
- 正式協議では、まず唐紹儀が陝西問題を提起。南方の于右任と督軍陳樹藩の軍事衝突が続いており、陳樹藩の撤換を要求した。北方総代表朱啓鈐は中央へ即時停戦を要請する電報を発した。
- 徐政府は専員張瑞璣を陝西へ派遣し停戦を監視すると回答したが、その後も陳樹藩配下が于軍への攻撃を続けたとの情報が入り、唐紹儀は北方の責任を追及。朱啓鈐は弁明に追われた。
和議の第一次停頓
- 2月28日、唐紹儀は48時間以内の回答を求める最後通牒に近い抗議を行い会議は事実上決裂。朱啓鈐は中央に辞意を伝えたが、徐政府は慰留し、陝西の停戦を改めて厳命した。
- それでも陳樹藩は停戦を守らず、于右任からも「陳樹藩は参陸処の密電により進撃を続けており、北京から陝西へ武器が送られている」との訴えが届いた。唐紹儀は宣言書を発し、和議中止の責任は北方にあるとした。これが和議の第一次停頓である。
- 江蘇督軍李純はこれを憂慮し、陝・閩・鄂西での即時停戦、援軍の増派停止、境界画定など五カ条の調停案をまとめ、中央・広東双方の同意を得て全国に通電した。
評語
督軍の中でも李純のような和平に心を砕く人物がいたことを、本回はその苦心と負傷の顛末を通じて描いている。朱啓鈐の平生の行状は必ずしも卓越したものではなかったが、上海に赴いて議和にあたった態度は独断専行ではなかった。陝西の停戦が実現しなかった責は陳樹藩にあるが、彼にそれほどの力量があったわけではなく、背後で煽動する者があったと見るべきである。天下が和平を望んでいるにもかかわらず、主戦派はなお局面をかき乱そうとしており、これでは文治派の徐世昌がいくら努めても、また李純がいくら苦心しても報われないと嘆く。