民國演義第一〇〇回 奥援を呼び南北統一を謀り、戦勝を慶し中外並びに歓を臚ぶ (呼奧援南北謀統一 慶戰勝中外並臚歡)

廣東非常国会の対抗決議

  • 広東の非常国会は、北京側が双十節前に新総統を選出したことに反発し、両院連合会議を開いて方針を決定した。
  • 決議の骨子は、次期大総統選挙は当面見送り、広東軍政府が国務院の職権を代行するというもの。民国7年10月10日付でその旨を宣言し、次期総統が正式に選出・就任するまでこの体制を続けるとした。

軍政府の通電

  • 軍政府は国会の決議を受けて政務会議を開き、代行を承認・布告した。
  • 通電では、護法の目的はあくまで臨時約法の効力回復と非法な国会解散令の取消しにあり、真の共和と根本解決を求める立場だと重ねて表明。北京の非法な選挙で誰が選ばれようと承認しない、と事前に通告していたことにも言及した。
  • さらに、徐世昌がすでに「偽総統」に就任した以上、約法を破壊する行為であるとし、法に基づき乱を戡定する責務を果たすと宣言した。

南北の応酬と外交調停の模索

  • 南北の主張は相容れず、徐総統・銭代総理がいくら説得しても無駄に終わった。
  • 徐世昌は外交による打開を図り、米・英・仏・日・伊の調停を頼った。ちょうど米大統領ウィルソンが世界平和を訴える演説を重ねていたこともあり、これに乗じる形となった。
  • 徐は前線への全面停戦を命じる大令を発した。内容は、欧州大戦の惨禍を踏まえ国際平和の維持を説き、中国も参戦国として協商諸国と歩調を合わせるべきだと述べるもの。
  • 続く長文の令では、南北に本来境界の区別はなく、私怨を捨てて大計を共にすべきこと、中央は公正な態度で国人に接する意向であること、民智の啓発と実業振興こそ急務であることなどを説き、各地の長官には治安維持を求めた。
  • しかしこの令文は美辞麗句にとどまり、実際に南方軍を動かす力はなかった。

停戦の実現と上海和議への道

  • 米国公使が広東側へ働きかけたことで、広東軍政府も前線各軍に休戦を命令した。
  • 政務総裁の岑春煊らは北京の徐総統へ電報を送り、上海租界を中立地とし、双方同数の代表を派遣して協議に入るよう提案した。
  • 徐総統は歓迎の意を示して返電し、広東側の岑春煊・伍廷芳・林葆懌・陸栄廷・唐継尭・唐紹儀・孫文らに宛て、南北はもともと一家であり、国際的な地位を保つためにも内争を終わらせたいと訴えた。
  • 国務院も別途返電し、代表は双方各10名として臨時に首席を選ぶこと、会議の場所は中立地ではなく行政区域内の南京が妥当であることを提案した。
  • 結局、江蘇督軍李純の仲介により、開催地は南京ではなく上海に決まった(民国8年2月)。李純は長江三督(李純・陳光遠・王占元)として和平派の立場を取っていた。

協約国戦勝祝賀の盛儀

  • 欧州大戦の終結を受け、民国7年11月28日から30日まで北京で協約国戦勝祝賀大会が催された。
  • 徐総統は太和殿前で閲兵式を行い、各国公使や在留武官も参加。夜には提灯行列が行われ、街は元宵節さながらの賑わいとなった。義和団事件の際に建てられた克林徳碑もこの機に撤去された。
  • 各省も中央の命令に従って祝賀行事を行ったが、実質を伴わない虚飾に過ぎなかった。
  • 小子はここで、自らを飾り立てるだけで実質が伴わないさまを嘆く詩を詠んだ(詩:見栄えを取り繕っても本質は隠せないという趣旨)。

巴里への専使派遣

  • 祝賀の三日間が過ぎると、各協約国はフランス・ヴェルサイユ宮で講和会議を開くことになり、中国も専使を派遣することとなった。誰が派遣されるかは次回に述べる。

評語

自国の内紛を外国の調停に頼ったことは、徐世昌の苦心とはいえ、以後の中国の外交的発言力低下の始まりであったと評する。同胞同士で争いながら、内では誠意をもって和解できず外に助けを求めた姿は憐れむべきであり、恥ずべきでもある。また、協約国の勝利は数年にわたる彼らの犠牲の結果であって、中国は参戦の名こそあれ実質的な戦功はなかったにもかかわらず、各国の祝典に便乗して盛大な祝賀を催したのは、他人の手柄を自分の栄誉であるかのように装う虚勢であり、外国人に嘲笑されても仕方がないと結ぶ。