民國演義第七十三回 父の病を論じ新華宮に互闘し、家事を托し皇帝の夢を做し完う (論父病互鬥新華宮 托家事做完皇帝夢)

湖南の独立

湯薌銘・陳宦は元は袁の腹心だったが、雲貴の義軍が迫る中、陳宦は五月二十二日に独立を宣言。零陵鎮守使望雲亭も湘南護国軍総司令として独立し、湯薌銘に決断を促す。湯は熊希齡と諮り北軍撤退を求めたが袁は応じず、湘西鎮守使田応詔も独立するに及び、湯薌銘もついに独立を宣言、袁に退位を促す激烈な二通の電文を送った(人心の趨勢を説く第一電、開戦も辞さぬ構えを示す第二電)。

袁の発病と看病

陳宦・湯薌銘という腹心にまで背かれた袁は憤激のあまり体調を崩し、尿毒症が悪化して下血症状も現れる。中医の治療中に厠で倒れ、汚物にまみれた袁を第八妾の葉氏だけが厭わず介抱し、袁は感激する。譫妄の中で光緒帝・隆裕太后、戊戌六君子、宋教仁ら暗殺された人々の亡霊に苛まれる幻覚を見る。閔姨とも今生の別れを惜しむような会話を交わし、閔姨は「陛下亡き後は生きぬ」と涙する(後の殉死の伏線)。

袁克定・克文兄弟の口論

病床の袁を巡り、次男克文が長男克定を「帝制を煽った病の元凶」と責め、克定は「自分は諫めたが父が従わなかっただけ」と開き直る。克端も加わり兄弟間で激しい罵り合いとなり、袁の一喝でようやく収まる。

徐世昌への後事の託し

六月五日、袁は徐世昌を呼び、自分の死後を託す。子女や姫妾一同を集めて徐世昌への服従を命じ、姫妾それぞれの性格評(周・洪の両氏は聡明だが陰険、閔・黄・何・柳氏は温良だが欺かれやすい、葉氏は特に篤実、阿香・翠媛は年若く先行き不安)を語り、遺産分配の遺嘱を自ら書き記して徐世昌に託した。遺嘱は嫡庶を分け隔てず、子女・遺族の情義を重んじるよう説き、分配は仕えた年数と子の有無により比率を定め、遺産分割の際は必ず徐世昌を仲裁者とするよう定めるものだった。

袁世凱の死

六月六日、後継について「約法により黎元洪に代行させよ」と段祺瑞に命じ、「楊度、楊度、誤我誤我」と叫んで息を引き取った。享年五十八。黄興が寄せた「わずか八十三日の紫禁城の皇帝」と皮肉る輓聯が紹介される。末尾、慌てて駆けつけた人物が「遅かった」と嘆く場面で次回に続く。

評語

著者は本回を、多妻多子・貪欲の果てに身を滅ぼす者への戒めと位置づける。富貴を極めた袁世凱も、臨終に至って旧友に幾重にも後事を託さねばならなかったのは、家すら治められぬ者に国が治められようかという教訓であり、死に際の悔悟の言葉には良心の残滓が見えるものの、もはや手遅れであったと結ぶ。