民國演義第四十四回 約に簽するを忍び権を喪い国を辱め、制を改むるを倡え籌安会を立つ (忍簽約喪權辱國 倡改制立會籌安)
最後通牒
- 五月七日、日置益は最終回答が得られないとして最後通牒を提出する。日本は関東戒厳を宣言して山東・奉天の駐兵と海軍を臨戦態勢に置き、在留邦人を帰国させるなど開戦も辞さない構えを見せた。各国公使は開戦回避を促すのみで、実質的な後ろ盾にはならなかった。
- 通牒の趣旨は、これまで二十五回の交渉で日本が終始譲歩してきたにもかかわらず、五月一日の中国側回答は膠州湾の無条件返還や日本への損害賠償請求まで含み、日本の善意を無にするものだったと非難し、南満洲・東部内蒙古など特別な利害関係を有する地域での中国側の対応も不誠実だと断じるものだった。ただし第五号のうち福建に関する交換公文以外の五項目は交渉を切り離し後日協議とする譲歩を示しつつ、それ以外(第一〜四号および福建関係)は四月二十六日の修正案どおり無条件で受諾するよう、五月九日午後六時を期限として最終勧告した。
受諾と条約調印
- 陸徴祥・曹汝霖は通牒を見て絶句したが、日置益は第五号のうち顧問招聘・学校病院用地・中国南方鉄道・兵器工廠・布教権の五項目を「後日協議」として切り離すことを確認し、その説明書も後日提出した。
- 袁総統は国務卿・各部総長・参政院長黎元洪や参政らを集めた特別会議を開き、段祺瑞ら一部は徹底抗戦を主張したが、袁自身は「実力が伴わないまま開戦しても甲午の轍を踏むだけだ」と述べ、徐世昌も忍従による将来の雪辱を説いたため、多数決で受諾が決定した。
- 五月九日、正式な受諾文書を日本側に手交し、五月二十五日、外交部迎賓館で陸徴祥と日置益が条約に調印した(正文三通・交換公文十三件)。両者の肩書の落差(日本皇帝の全権公使に対し中国側は総統府の一総長)に、筆者は屈辱の深さを重ねている。
国内向けの布告と反応
- 袁総統は各省将軍・巡按使に治安維持を命じるとともに、国民に向けた長文の詔勅を発し、日清・義和団以来の国力の弱さを反省しつつも、今回の妥協は「膠州湾回復・主権保全のための已むを得ぬ選択」であると釈明し、反乱分子が動揺に乗じて世情を煽ることを厳に戒めた。
- 陸徴祥は引責辞任を申し出、黎元洪も引咎の電文を発して参謀総長辞任の意向を示し、段祺瑞も主戦を貫けなかった責任を理由に辞意を表明した。世論はこれを「民国以来最大の国恥(五九国恥)」と受け止めた。
籌安会の発足
- 国恥を経てもなお袁政権の中枢は変わらず、迎合的な官吏がのさばる状況が続く中、北京で「籌安会」という団体が旗揚げされる。国体変更(帝政復活)を主張する会で、発起人には新旧入り混じった著名人物が名を連ね、たちまち世論を騒然とさせた。
評語
- 五九国恥を招いたのは他ならぬ袁総統自身であり、日本を利用して私利を図ろうとした結果、逆に日本に利用されたのだと筆者は断じる。詔勅の中で袁が「禍福は己が招くもの」と説きながら、条約締結の代償を払ってもなお密かに帝政を企てる矛盾を鋭く指摘し、籌安会の出現がその媚態をいよいよ覆い隠せなくしていると結んでいる。