民國演義第四十回 老巣に返り白匪命を斃し、中立を守り青島風を生ず (返老巢白匪斃命 守中立青島生風)

袁の独裁強化と新官制

  • 袁世凱は総統として各部総長を留任させつつ教育総長を湯化龍、交通総長を梁敦彦に交代させ、命令一つで国務総理関連の書類形式まで大総統直属に改めた。国務卿すら実権を失い副署役に甘んじる有様となる。
  • 参政院・審計院を新設し、省官制・道官制・県官制を一新。民政長を巡按使、観察使を道尹、都督を将軍と改称し、司法独立を有名無実化する県知事制度も導入した。
  • 文官の等級を上卿から少士まで九等に定め、順天府尹を京兆尹と改称するなど、旧帝政風の名目替えが相次いだ。
  • 地方自治制を廃止して国家税・地方税の区分を取り消し、財政を中央に集中。契約検認料・国内公債・煙酒税など新税を次々に課し、民間の負担は増す一方となった。
  • 五月二十六日、参政院が成立し黎元洪を院長、汪大燮を副院長に任命。立法権を代行させたが、黎元洪は不本意ながら名ばかりの院長職に甘んじた。

白狼の最期

  • 白狼は紫荊関を破って陝西に西進し、副将の李鴻賓・王成敬は略奪した女たちに溺れて本隊から離脱した。
  • 白狼軍は龍駒寨・商県・藍田・盩厔・乾県などを次々に落として陝西を震撼させたが、河南護軍使趙倜の追撃で甘粛へ転じ、秦州・伏羌・寧遠・醴県まで席巻し、反袁の檄文を発した。
  • 毅軍の追撃で戦況が悪化すると幹部会議を開き、清の廃王を担ぐ案、自ら皇帝を称える案、四川に拠って持久する案などが出たが、配下の反発でまとまらず、白狼は東へ引き返す決断をする。しかし配下は望郷の念から離反が相次ぎ、組織は瓦解していった。
  • 寧遠・伏羌付近で官軍と交戦し幹部の白瞎子らが戦死。白狼は郿県・宝鶏・子午谷と転戦し追い詰められ、富水関で夜襲を受けて壊滅的打撃を被る。
  • 巡防統領・田作霖が土地の老人の道案内で夜襲をかけ白狼軍を潰走させた(味方同士の誤射で鎮嵩軍と毅軍が衝突する一幕もあった)。
  • 敗残の白狼は屈原岡でわずかな手勢となり、東へ逃げる途中、臨汝で銃弾を受けて負傷し、原籍の大劉荘で落命した。部下が遺体を埋葬したが、後に鎮嵩軍に密告され掘り出された。
  • 白狼の死をめぐり張治功と趙倜側の報告が食い違い、袁総統は一度は張治功を賞したが、後に趙倜側の説を採って張治功と劉鎮華をそれぞれ処分した。真相は判然としないまま論功争いに終わった。
  • 王成敬・李鴻賓は捕らえられ処刑。拉致されていた王家の姉妹は救出されたが、姉は実家に戻された後、子を殺され再婚させられるという酷い扱いを受けた。他の匪首も次々討たれ、生き残った一部は投降して軍に編入された。三年に及んだ匪乱がようやく鎮まった。

帝政準備と対外情勢

  • 匪乱平定で内政に余裕ができた袁総統は、列強に帝政承認をさせるための工作費を欲し、広東の賭博解禁、アヘン専売、有奨儲蓄券の発行など財源探しに奔走した。
  • フランス銀行から巨額の借款を求め、欽州・重慶間の鉄道権益を提供する交渉も進めた。日本人法学者・有賀長雄や米国人グッドナウを顧問に招き、帝政への地ならしを図った。
  • 折しも欧州でオーストリア皇太子暗殺(サラエボ事件)を発端にオーストリア・セルビア間の対立が拡大し、ドイツ・ロシア・フランス・イギリスが次々参戦して第一次世界大戦が勃発。日本もイギリスとの同盟を理由にドイツと断交した。
  • 中国は局外中立を宣言する命令を発したが、欧州が戦争に忙殺される好機を自強に使わず、袁総統は帝政運動に没頭したため、国内は混乱が続いた。

青島をめぐる動き

  • 山東の青島はドイツが租借していたが、日本がドイツと断交すると乗じて出兵し、中国の中立を無視して膠州湾の両岸から進軍を始めた。

評語

  • 権利という二字が人を誤らせるものだと筆者は説く。白狼が匪賊に身を落として三年余り数省を荒らし、ついに身を滅ぼしたのも、袁総統が帝政に固執し国を誤る施策を重ねたのも、さらには欧州諸国を巻き込んだ大戦争も、根はみな権利への執着にあるとし、深い慨嘆をもって本回を結んでいる。