民國演義第三十九回 陰謀を逞しくし趙智庵を毒殺し、約法を改め徐東海を進相す (逞陰謀毒死趙智庵 改約法進相徐東海)

応夔丞の暗殺

急死した都督とは直隷都督趙秉鈞であった。趙は袁の腹心で、宋教仁暗殺事件では洪述祖・応夔丞を使嗾した張本人であった。二次革命失敗後、応夔丞は上海の監獄から脱走し、宋案での功を頼りに趙秉鈞の紹介で北上、天津で趙にもてなされたうえ北京へ向かった。ところが上京途中、汽車内で刺客王滋圃に殺害され、王は「総統の命」を盾に逃げ延びた。趙秉鈞が総統府に問い質すと、袁は「総統が彼を殺した」とだけ答え、趙は「これでは誰も総統府のために働かなくなる」と嘆いた。

趙秉鈞の毒殺

趙は応夔丞の死に良心の呵責を覚えて病がちとなり、天津で病気療養を願い出た。袁が寄越した医者の投薬を受けた趙は激しい苦痛の末に絶命し、四肢が青黒く変色し全身の孔から出血する凄惨な死に様であった。表向き袁は忠勤を称え手厚く弔ったが、その裏には二重の理由があった。一つは宋案の口封じ、もう一つは趙が「南方人に元首の権が牽制されるのは煩わしい、北洋を率いていた頃の方が自由であった」と漏らした言葉を、帝制をもくろむ袁克定が父帝位への当てこすりと疑い、趙が実際には賛同しなかったことを恨みに思い、袁に讒言したためであった。

新約法の制定

三月十八日、約法会議が開会し、孫毓筠が議長、施愚が副議長に選ばれ、民国元年制定の臨時約法を全面的に改める作業に着手した。あわせて平政院・粛政庁を設けて前朝の御史台に類する監察機構を復活させ、海陸軍大元帥統率弁事処を置いて全国の兵権を中央に集中させた。折しも白狼一党が河南・陝西方面で暴れていたため、湖北都督の任にあった段祺瑞は白狼討伐を名目に召還され、段芝貴が湖北都督代理となった。白狼が趙倜らに討たれて勢いを失った後、段祺瑞は北京に戻り陸軍総長に復した。約法会議はほどなく新約法(十章六十八条)をまとめ、袁が裁可・公布した。新約法は、国家・国民・大総統・立法・行政・司法・参政院・会計・憲法制定手続・附則の各章からなるが、その実質は大総統に立法・行政・軍事にわたる広範な権限を集中させ、議会(立法院)は召集・停会・解散のすべてを大総統に委ね、緊急時の教令発布権や条約締結権も大幅に大総統寄りに改められたもので、臨時約法にあった議会による牽制はほぼ失われた。国会がすでに廃止されていたため、この改正は事実上、袁の専制体制を法文上追認するものであった。

徐世昌の国務卿就任

新約法により国務院は廃止され、総統府に政事堂が置かれて国務卿がこれを統括することとなった。袁は清末の内閣協理であった徐世昌(字は菊人、通称徐東海)を国務卿に招いた。徐は当初高齢を理由に固辞したが、孫宝琦・段芝貴の説得を受けて就任を承諾した。政事堂の下には左丞に楊士琦、右丞に錢能訓を置き、法制局・機要局・銓叙局・主計局・印鋳局の五局と参議八名を配し、事実上の宰相・輔弼体制が整えられた。他の各部総長の異動は次回に語られる。

評語

応夔丞の暗殺も趙秉鈞の毒殺も袁の非情な仕業だが、他人を意のままに死に至らしめた趙・応自身の因果でもあると筆者は指摘する。臨時約法を廃し新約法を施行したのは帝制への布石にほかならず、世故に長けた徐世昌がそれを知りながら袁の下に甘んじたことを、筆者は「あまりに引き合わない話だ」と評する。