孫・李搆隙の本末
- 張献忠の四人の養子(孫可望・艾能奇・李定国・劉文秀、皆「張」姓を冒す)は、幼少より献忠に厳しく躾けられた間柄であった。可望はもと米脂の無頼で、狡猾さから献忠に最も信任され「大哥」と呼ばれた。献忠没後、四人は雲南へ進み、沙定洲の乱に乗じて省城を制圧、沐天波を服属させて雲南全土を掌握した。
- 四人はそれぞれ王を称したが、統率者を一人に定める必要から可望が推されることとなり、その際、些細な旗の掲揚を巡って可望が李定国に杖罰を加える事件が起き、これが両者の確執の始まりとなった。以後、可望は「秦王」を自称(当初は陳邦傅配下の偽の冊封によるものであったが、後に朝廷から正式に平遼王を授けられた)、定国・文秀は爵位を固辞し続けた。
- 壬辰、定国は自ら軍を率い湖南・広西方面へ進出、清の定南王孔有徳を桂林で自害に追い込むなど大功を挙げるが、その戦利品の独占などから配下の不満を招いた。可望は定国の声望の高まりを警戒し、幾度も謀略を仕掛けるが失敗、甲午には永暦帝が密かに定国を頼ろうとした企てが露見し、可望は宰相呉貞毓ら十八名を処刑するに至った(安龍十八忠臣事件)。
- 丙申、定国は永暦帝を奉じて雲南へ迎え入れ、可望との和議を図るが、可望配下の張虎の讒言により関係は決裂。丁酉八月、可望は十五万の兵で雲南へ侵攻するが、味方に引き入れていたはずの白文選・馬宝らが定国側に呼応、交水の戦いで大敗し貴州へ敗走、最終的に清に投降した。著者は、この確執の責任は可望にあり定国にはないと明確に評している。
孫可望、雲・貴に拠りし事の続き
- 別伝として、張献忠没後の四将の雲南進出、沙定洲討伐、沐天波の服属の経緯がより詳細に語られる。可望は諸将を制圧するため密かに定国を杖罰にかけ、以後の確執の種となった。陳邦傅・胡執恭による偽の秦王冊封の経緯、艾能奇の病没、旧隆武派の将(皮熊・王祥ら)の粛清など、可望が勢力を拡大していく過程が記される。
- 永暦帝が安龍に留め置かれる中、可望は定国の広西での戦功を妬み、様々な手段で排除を試みるが失敗。壬辰の四川方面での戦いでは劉文秀が大敗し可望の不興を買うなど、四将それぞれとの間に確執が広がっていった。丙申、定国が永暦帝を奉じて雲南入りすると、白文選・劉文秀も次第に定国側に付き、丁酉の交水の戦いで可望は完敗、清への投降を選んだ。清朝は可望を「義王」に封じたと伝わる。
- 定国はその後、可望配下の諸将を功に応じて再叙勲し(馮双礼を慶陽王、馬進忠を漢陽王など)、永暦朝の実権を掌握したが、著者はこの時既に清軍が三方面から雲南へ迫っていたことを指摘し、前途の危うさを暗示している。