明季南略永历至梧州 永暦帝(永明王) 永暦四年 1650年
永历、梧州に至る
- 庚寅正月一日、永暦帝は肇慶にあり朝賀を受けたが、前年末より清軍が梅嶺を越え南雄・韶州を陥落させる中、帝は西方への避難を決意。武弁による略奪が横行し、文臣の財産が根こそぎ奪われる混乱の中、二月一日、梧州に至った。瞿式耜は「広東は水利に富み清軍の騎兵も自由に動けず、成栋帰順以来ようやく安定していたのに、なぜ警報を聞いて即日出航するのか」と諫めたが、既に手遅れであった。著者は、帝が度々性急に避難する背景に、諸臣への不信と崇禎帝以来の避難の遅れが招いた滅亡への教訓があったと分析している。
瞿式耜、濫刑を諫む
- 言官の丁時魁・金堡・蒙正発・刘湘客が、権力闘争の中で投獄される事件が起きた。瞿式耜は「中興の初めに濫りな刑罰を用いるべきでない」と繰り返し上疏、詔獄の悪用は魏忠賢時代の弊政の再現に他ならないと訴えた。実際には過酷な拷問が行われ、多額の「贓罪」が自白させられたが、これは拷問による強要に過ぎなかったと伝わる。
永历、中秋に水殿に坐す
- 広州がなお持ちこたえる中、庚寅五、六月頃には一時的に戦況が好転したが、登用された人材の質は玉石混交で、些細な礼儀違反で罷免される者も相次いだ。八月十五日、帝は献上物もままならぬまま「水殿」と書いた額を舟に掲げ、群臣に祝賀の表を上げさせるという、孤舟の身にはそぐわない儀式を行った。
杜允和、羊城を固守す
- 杜允和は李成栋の盟友で、成栋没後、両広の印綬を託され広州(羊城)を守った。庚寅二月、清軍が城北に迫るが、地形を活かした防衛と珠江以南の税収により持ちこたえ、二月から十月にかけ三度の激戦を経て豫国公に進封された。
羊城、崩陥す
- 十月十日、永暦帝の誕生日を祝う中、西門外城を守っていた范承恩(無学ながら成栋に従った将)が杜允和に恥をかかされた恨みから清の平南王・靖南王に内応、十月二十八日に外城が陥落、三日間の攻防の末、十一月二日、広州(羊城)は完全に陥落した。杜允和は総督印を携え海路脱出した。
瞿式耜、節に殉ず
- 己丑六月以来、清の平南王尚可喜・靖南王耿継茂・定南王孔有徳の「三王」が広東・広西へ進軍していた。瞿式耜は三年にわたり桂林を守り続けていたが、庚寅十一月五日、清軍の急襲に諸将が相次いで撤退・逃亡する中、総督張同敞と共に城に留まり殉節を決意。捕らえられて孔有徳の前でも屈せず死を誓い、幽閉先で同敞と詩を唱和しながら過ごし、閏十一月十七日に処刑された。処刑の日、雷電が轟き人々を驚かせたと伝わる。金堡(既に出家していた)の願いにより、義士楊芸が二人の遺骸を弔い葬った。獄中で詠んだ詩集「浩気吟」が伝わっている。
臨難遺表
- 瞿式耜は臨終に際し上奏文を残し、四年にわたる留守の労苦、諸将が家族を顧み戦意を欠いていた実情、最後の脱出劇と孔有徳との対面の様子を詳細に記し、「私の罪は死をもっても償えないが、諸将も敵の到来前に逃げ去っており、大廈の傾きは一本の柱で支えられるものではなかった」と述べ、皇上には短慮を起こさず身を保つよう願う言葉で結んでいる。
張同敞、節に殉ず
- 張同敞は江陵の人、旧宰相張居正の曾孫。北京陥落後は喪に服し仕官を拒んでいたが、隆武帝に見出され錦衣衛指揮使、後に翰林院侍読学士として各地の軍務を歴任、忠義と統率力で知られた。庚寅十一月、桂林陥落の際に単身入城し瞿式耜と運命を共にする道を選び、孔有徳の前でも屈せず激しく罵倒、腕を折られてもなお詩作を続けた。閏十一月十八日、式耜と共に処刑された。永暦帝はその死を深く悼み、陵江伯を追贈、遺した絶命詩を「御覧傷心吟」として刊行させた。
袁彭年、金を献ず
- 十一月五日、広州陥落の報を受け、佛山にいた袁彭年はいち早く清に投降し軍資を献上、自らの過去の行動を弁明し降格しての実職を求めた。
黄士俊、薙髪す
- 旧輔黄士俊ら広東の名士たちが相次いで清に投降、当時八十二歳であった士俊の変節を揶揄する風刺の句が広まった。
永历、梧江にて西へ奔る
- 十月七日、永暦帝は梧州郊外で船を進めるが、広州陥落の報に一行は散り散りとなり、随行者はそれぞれ別の水路へ逃れる中、多くが略奪に遭い、かつての貴顕の身が乞食同然の姿に落ちぶれる悲惨な逃避行となった。