明季南略永明王始末 永暦帝(永明王) 永暦元年 1647年
万元吉、贛州を固守す
- 丙戌九月、万元吉は義勇を率い贛州を死守、楊廷麟らも協力した。城の三面を水に囲まれた地形を活かし木城を築いて防戦、私財を投じて将兵を鼓舞し一年にわたり持ちこたえたが、丁亥八月、城内の失火と内応により陥落、元吉・廷麟らは清水塘に投身して死んだ。
永历、梧州に至る
- 丁亥正月一日、李成栋の肇慶進撃の報を受け、永暦帝は梧州へ避難。丁魁楚・王化澄らはそれぞれ別方向へ逃げ、随行するのは瞿式耜のみという有様であった。李成栋は同月中に肇慶・梧州を含む広西の要地を次々に制圧した。
丁魁楚、李成栋に斬らる
- 丁魁楚は密かに李成栋に多額の賄賂を贈り取り入ろうとしたが、成栋はこれを利用して魁楚を油断させ、両広軍門への復帰を約束すると見せかけて招き寄せた末、深夜に不意打ちで斬殺、四十年にわたる魁楚の莫大な蓄財と家族はすべて成栋のものとなった。著者はこの顛末を、民を虐げた報いとして記録している。
瞿式耜、桂林を留守す
- 四月、清軍が海南を制圧する中、王坤らは永暦帝の湖広方面移動を勧めるが、瞿式耜は「広西を保ってこそ中原恢復の足がかりとなる、軽々に見捨てるべきでない」と強く反対、自ら桂林に留まり各方面の指揮を執ることとなった。三月、清軍が桂林に迫ると、焦璉が奮戦しこれを撃退、安国公劉承胤の援軍も得て一時持ちこたえたが、内部対立や兵の統制不足から危機が続いた。式耜は私財を投じて兵を鼓舞し、五月にも清軍の攻撃を撃退、八月には広西全域の平定を報告するまでに至った。著者はこの防衛戦を、南宋の劉錡の順昌防衛に比肩する功績と評している。
永历、武岡に駐す
- 五月、永暦帝は武岡州に至り厳起恒を新たに宰相に迎え、旧流賊の曹志建・王朝俊らも帰順、何騰蛟を総督に任じるなど一時的に体制が整った。
張家玉、江に沈む
- 二月、張家玉・陳子壮が挙兵するが、六月、家玉は敗れて入水自殺、子壮も潜伏先で捕らえられ広州で処刑された。著者は、この地方の混乱の根源が辜朝薦と何吾騶の権力争いにあったことを民の怨嗟として記録している。
永历、粤西に入る
- 八月、清軍が長沙・衡州を制圧すると武岡も陥落、永暦帝は再び逃避行を強いられ柳州へ。瞿式耜は再三、広西からの離脱に反対し踏みとどまるよう訴えたが、帝は象州を経て桂林へ、さらに慶遠府へと転々とする苦難の逃避行を続けた。皇子が混乱の中で行方不明になるなど悲惨な状況が伝えられ、大学士呉炳は北を拝して自ら縊死した。
三宮、南寧府に至る
- 十二月十日、三宮(皇帝・太后・皇后)が南寧府に至り、行宮としての体制を整えようとしたが、供応は粗末であった。地元の混乱も相次ぎ、宮廷の権威は著しく低下していたと伝わる。