明季南略閩紀 唐王(隆武帝) 隆武二年 1646年
刑罰の用捨
- 丙戌正月一日、鄭芝龍が朝廷で蒋徳璟に手板を投げつけ負傷させかける事件があった。逃亡や汚職を理由に地方官が相次いで処刑される一方、無頼の徒が軍事を語るだけで召見され褒賞を得るという綱紀の乱れが目立った。
張肯堂、金陵襲取を請う
- 吏部尚書張肯堂は、水師で長江を遡り南京を奇襲する策を上奏、隆武帝は喜び鄭芝龍に船の建造を急がせたが、水師諸臣の家族を人質に取るべきとの反対意見が出て計画は頓挫した。
隆武、建寧に駐す
- 隆武帝は親征を決意、二月に建寧へ進駐。湖広巡撫何騰蛟・江西の楊廷麟が江西方面への進軍を勧めるが、鄭芝龍は関門の手薄を理由に帝の帰還を求め、結局帝は建寧近くの剣津に留まった。
皇子誕生
- 六月、皇子誕生。群臣の賀表が寄せられたが、実際には軍備は疲弊し財政も破綻、朝議は形骸化していたと著者は評している。
魯王の使者陳謙を殺す
- 魯王監国の使者陳謙が福建に至るが、鄭芝龍への私信で「皇叔父」と記し「陛下」と称さなかったため隆武帝の怒りを買い投獄された。陳謙はかつて鄭芝龍の南安伯冊封の際、誤記(「南安」と「安南」)を利用して有利な取り計らいをした恩人であったため、芝龍は救おうとしたが、寵臣銭邦芑の讒言もあり、深夜に密かに処刑されてしまう。芝龍は号泣し手厚く葬ったと伝わる。著者は、魯・唐両勢力の内輪もめが清への抵抗力を削いだことを、戦国期の合従策の失敗になぞらえて論じている。
華廷献、浙・閩の事を論ず
- 華廷献は、東南の民望が次第に魯王に傾いていたこと、浙・閩両勢力が互いに縄張り意識から協力できず、朱大典のような将が板挟みになっていた状況を記録している。
進講
- 儒臣頼垓・陳燕翼が「易経」「書経」を進講、朝廷では形式的な祝賀が続いた。
開科
- 六月、呉炳が江西から単騎で入関、科挙が実施され葉瓚ら百余名の挙人が選ばれた。湖広の多くが清に陥落していたため、衡州府で郷試が行われた地域もあった。
鄭芝龍、上表して即座に去る
- 六月、清軍が長江を渡り杭州が陥落すると、鄭芝龍は「海賊の脅威」を口実に上表し即座に出発、帝が引き止めるも既に遠く去っていた。関門の守将施福も軍餉不足を理由に撤退、防備は事実上崩壊した。
大清兵、悠々と嶺を越ゆ
- 田・方・鄭の三派の残兵が略奪を繰り返しながら南下する中、関門の守りは空となり、清の騎兵二、三千が悠々と嶺を越え各地へ展開した。
馬・阮・方・蘇、降る
- 馬士英・阮大鋮らが残兵を率い関内への入城を求めるが、隆武帝は罪の重さを理由に拒否。士英は台州の山寺に僧として身を隠すが清軍に捕らえられ、大鋮は自ら清に投降、貝勒の内院で働くこととなった。方逢年・方国安、刑部尚書蘇壮も薙髪して投降した。
大清、馬・阮・方の四人を殺す
- 八月二十四日、清軍が順昌で隆武帝の輿を捕獲、その中から馬士英・阮大鋮・方国安父子・方逢年が降伏後に書いた「駕を関外に出させ内応する」との連名上疏が発見された。大鋮は山中で自ら崖に身を投げて死んだが遺体は辱められ、士英は延平城下で斬られ家族百余人も兵に分配された。当時の風刺の対句が伝わっている。
隆武、江西へ奔る
- 鄭芝龍が去った後、隆武帝は清軍接近の報に江西行きを決意、八月二十一日に出発。書物数十車を携えて行軍する様子が伝わる。二十四日、順昌に至るが清軍が既に剣津の関を破り迫っていた。従うのは何吾騶・郭維経・朱継祚・黄鳴俊らわずかで、何・郭も後に離散した。曾后は「劉宮人が身重ゆえ大切に護送するように」と従者に告げたと伝わる。
隆武、遇害す
- 清軍が延平を過ぎて東進する中、陳謙の子が数百騎を率い父の仇討ちのため追跡、汀州で追いつき隆武帝一行を捕らえた。曾后、従駕の朱継祚・黄鳴俊も共に福州へ連行され、隆武帝と曾后は殺害された。朱継祚は致仕を強いられた後、乱兵に殺され、黄鳴俊は五品官を提示されるが老病を理由に固辞した。
蒋徳璟、絶食して死す
- 清軍は李成棟・韓固山を派遣し興化・泉州・汀州・邵武・漳州を平定。九月八日、清軍が泉州に入り知県陳光晋が投降。大学士蒋徳璟はかねて出兵の遅滞を憂え自ら実情視察に赴くが、疲弊した軍勢に為す術なく辞任していた。戸部尚書李長倩も軍餉不足を憂え憂憤のうちに死去。泉州陥落後、徳璟は食を絶って死んだ。
曹学佺・馬思理、自縊す
- 十月十九日、清軍が漳州に入る。漳州道傅従龍・知府金麗澤は投降し留任を許されたが、三日後に郷兵の反攻で殺害された。礼部尚書曹学佺・通政司馬思理は共に縊死した。
黄道周、屈せず
- 大学士黄道周は軍の停滞を憤り、江西での募兵を志願、鄭芝龍からの資金援助は得られず空名劄百通のみを与えられたが、独力で百人を集め吉安に拠り楊廷麟・万元吉と連携した。徽州への出兵中に清軍に捕らえられ南京へ送られ、十四日間食を絶つも死ねなかった。清の内院洪承疇はその節義を惜しみ助命を上奏したが許されず、中書賴雍・蔡継謹らと共に処刑された。
鄭為虹・黄大鵬、血を噴き大いに罵る
- 敗走した閩軍の残兵が略奪を繰り返す中、建寧では科臣黄大鵬・鄭為虹が城門を閉じ倉米・庫銀で民を安撫し郡を守った。八月十七日、清軍が浦城に迫ると鄭為虹は降伏に反対、捕らえられ貝勒の前でも屈せず薙髪も拒否、金銭の供出も「清廉な官吏にどこに金があるか」と拒み、罵倒して処刑された。同日、黄大鵬も殉難。大鵬は建陽の人で、龍游知県として清の招降を拒み、跪かず舌を切られてもなお罵り続け、階段に頭を打ち付けて絶命したと伝わる。
傅冠、屈せず
- 傅冠は江西南昌の人、天啓二年の進士。かつて闖賊の残党に故郷を破られ祖先の墓まで暴かれた経験を持ち、福建へ逃れて起用されたが辞任。清軍到来後は泰寧の門人宅に潜伏していたが、恨みを持つ者に密告され捕らえられ、屈せず処刑された。
鄭芝豹、城を閉ざして餉を索む
- 清軍が泉州へ到達する前、鄭芝豹が先に入城し郷紳の財産を強制的に徴発、応じなければ処刑するという苛烈な手段を取った。清の固山兵接近の報を受け安平へ退いた。
鄭芝龍、大清に降る
- 清の招撫を担った御史黄熙胤は芝龍の同郷であった。汀州・漳州の陥落後もなお安平で軍容を誇っていた芝龍は、清の貝勒からの「唐王擁立の功を評価し、両広総督の印を用意して待つ」との書状に心を動かされた。子弟たちは海への退避を勧めたが、芝龍は聞き入れず十一月十五日に福州で貝勒に謁見、酒宴の末、夜半に北へ連行された。芝龍は家族への手紙で「大清の大恩を忘れるな」と書き残したという。鄭彩・鄭鴻逵・鄭成功はそれぞれ兵を率い海へ去り、張肯堂らは舟山の魯王のもとへ、芝豹だけは母を奉じ安平に留まった。芝龍は北京で朝見の身となったが、鄭彩・鄭成功はその後も漳州・泉州で戦い続け、戊子(1648年)夏には清軍が再び福建へ侵攻し建寧を破るなど、鄭氏勢力はなお海上の脅威であり続けた。