明季南略閩紀 唐王(隆武帝) 隆武元年 1645年
唐王始末
- 順治二年(乙酉)五月、清軍が長江を渡り南京が陥落すると、鎮江総兵鄭鴻逵・鄭彩は形勢不利と見て福建へ撤退した。折しも唐王聿鍵が河南から南下してきた。王は太祖の九世孫で、率直な性格と文才で知られたが、父の早世により祖父端王の寵を失い、二人の叔父に家督を狙われるなど不遇の生い立ちであった。かつて勤王のため無断で封地を離れたことで幽閉されていたが、弘光朝で赦免され、乱を避けて浙江にいた。
- 鄭鴻逵が王を奉じ福州に至り、福建巡撫張肯堂・巡按御史呉春枝・尚書黄道周・南安伯鄭芝龍らと協議、王を監国に推戴した。当初は正式即位を急ぐべきでないとの意見もあったが、鄭鴻逵が「正位せねば人心を治められない」と主張し、閏六月十五日、福州で皇帝に即位、隆武と改元した。即位当日、郊天の儀式で大風が吹き荒れ、玉璽が落ちて一角が欠けるという不吉な出来事があったと伝わる。福州を天興府と改称し、大赦を行い、浙江・広東へ詔を頒布、弘光帝には「聖安皇帝」の尊号を遥かに奉った。
文武諸臣
- 鄭芝龍・鄭鴻逵は侯に、鄭芝豹は澄済伯、鄭彩は永勝伯に封じられた。六部九卿が設置され、張肯堂が吏部尚書、李長倩が戸部尚書、曹学佺が礼部尚書、呉春枝が兵部尚書、周応期が刑部尚書、鄭瑄が工部尚書に任じられた。天興・建寧・延平・興化の四府を上流、汀州・邵武・漳州・泉州の四府を下流とし、それぞれ撫按を置いた。蒋徳璟・黄景昉・黄道周ら多数の名士が大学士に起用されたが、実際に信任されたのは蘇観生のみで、閣臣は三十余名に達しながら実権はなく、決裁は上が自ら行った。
鄭芝龍、戦守を議す
- 内外の文武は多士済々であったが、軍事・財政の実権は鄭芝龍が握り、弟の鴻逵・芝豹と共に福建の実質的な支配者であった。芝龍は諸臣を集め戦守を協議、兵二十万を要とし仙霞関以外の要地百七十カ所に守備兵を配する計画を立てたが、財政的には江南・両広の税収を合わせても不足が見込まれた。
靖江王を殺す
- 広西の靖江王亨嘉(太祖の甥朱文正の子孫)は八月、勝手に監国を称し隆武帝の詔を拒み東進を図った。広西巡撫瞿式耜がこれを察知し防備を固め、思恩参将陳邦傅らと連携。靖江王は式耜に朝服での臣従を強要するが拒まれ、最終的に丁魁楚の軍に敗れて桂林へ退却。式耜は密かに宣国公焦璉らと謀り靖江王とその一味を捕らえ、福州へ送って処刑した。功により丁魁楚は伯に、瞿式耜は兵部侍郎兼副都御史に叙された。この頃、浙東ではすでに魯王が監国を称していた。
鄭芝龍、餉を助けるを議す
- 十月、財政難のため鄭芝龍は給事梁応奇を広東へ督餉に派遣、遅延した官員数十名を処分。官俸の供出、郷紳・大戸の献金、来年分の前納、府県の蓄積銀の徴発に加え、官職の売買まで行われ、実権のない名誉職が乱発される事態となった。著者は、馬士英政権の腐敗を上回るほどの官職売買の横行を批判している。
曾后入閩
- 鄭芝龍が集めた関門の兵は実質数百人の老兵に過ぎず、出兵を求める上疏が相次いだが、芝龍は常に軍餉不足を理由に応じなかった。十月、隆武帝の后曾氏が福州に迎え入れられ、後継未だなく、宮殿の造営や織造府の開設など大規模な出費が行われた。曾后は聡明で政務にも通じ、隆武帝も一目置いていたと伝わる。
鄭森、入侍す
- 隆武帝に世継ぎがなかったため、鄭芝龍は子の森を近侍させ、帝は国姓「朱」を賜い成功と改名させた(鄭成功)。以後、成功は帝の意向を先んじて察知し芝龍に伝える立場となり、朝廷は事実上鄭氏の影響下に置かれた。芝龍の専横を密告する者があれば帝が芝龍を戒めたが、芝龍は不満を露わにし、帝もその機嫌を損ねないよう配慮せざるを得なかった。
壇を築き将を遣わす
- 群臣の度重なる要請により鄭芝龍の出兵が命じられた。芝龍は名目上一万、実数千に満たない兵を鄭鴻逵(浙東方面)・鄭彩(江西方面)に分けて出させ、帝は韓信の故事に倣い壇を築いて見送った。しかし両将は関を出た後も軍餉不足を理由に長期逗留し、実質的に進軍しなかった。