明季南略宏光出奔 丁亥年 1647年

黄毓祺、行塘に起兵す

  • 黄毓祺は江陰の貢生、門人の徐趨と共に江陰の乱に呼応して起兵、鲁監国から兵部尚書の称号を受けた。江陰陥落後は淮南に潜伏、丙戌冬に再起を図るが失敗、徐趨は丁亥正月に処刑され、毓祺も密書の露見により捕らえられ、獄中で自ら身を整えて端座往生し、遺体はなお辱められた。獄中で残した「小遊仙詩」が伝わっている。

徐尔谷、捕らえられて動じず

  • 徐尔谷は徐石麒の長子。丁亥、松江総兵呉胜兆の反乱に連座して捕らえられ、動じることなく刑死。妻の孫氏も後を追って入水した。

顧咸正、呉胜兆の事件に連座して死す

  • 顧咸正は崑山の人、崇禎年間には陝西で流賊の招撫に功があった。丁亥、呉胜兆・陳子龍の事件に連座し、同志四十余名と共に処刑された。子の天逵・天遴も陳子龍を匿った罪で死んだ。弟の咸建も杭州で不屈のまま処刑され、一門五名が国事に殉じたことが人々に惜しまれた。

陳子龍、衆に誓い監軍を称す

  • 陳子龍は松江華亭の人、崇禎十年(丁丑)の進士。南京陥落後、閏六月に義兵を挙げ監軍を称し、水師の呉誌葵らと連携。松江陥落後は身を隠していたが、丁亥、呉胜兆の事件に連座し嘉定・崑山と潜伏先を転々とした末に捕らえられ、護送の舟中で入水自殺した(丁亥四月二十四日)。

楊廷枢、門人戴之隽の事件に連座して死す

  • 楊廷枢は呉県の諸生、崇禎三年(庚午)の応天郷試首席。丁亥、門人戴之隽が呉胜兆の反乱を画策した事件に連座して捕らえられ、剃髪を拒み「頭を斬られるのは小事だが、髪を剃られるのは大事だ」と述べて処刑された。刑に際し「生きては大明の人、死しては大明の鬼」と叫んだと伝わる。舟中で家族に宛てた遺書と絶命詩十二首を残した。

総論江南諸臣

  • 著者は、王朝交代の際には栄達に走る者もいれば節義に殉じる者もいる、生きることは易しいが死ぬことは難しいと結び、漢の高祖が丁公を斬り宋の太祖が韓通を褒めた故事を引き、忠義の重んじられ方は結局その人自身の得失によって決まるものではないかと述懐している。