明季南略北事 福王(弘光帝) 崇禎十七年 1644年

北事

  • 六月三日、都督陳洪範が北使を志願、朝廷はこれを許可。史可法は、監国・即位の二詔と呉三桂・謝陞への勅書を携え山東・北直へ布告する使者の選定を求めた。
  • 十五日、馬士英は、清の摂政王が発した南朝への布告文(清が李自成を討ったのは崇禎帝の仇討ちのためであり、帰順すれば爵禄を与えるが抗えば殺戮するとの内容)を報告、これを受け北へ使者を派遣すべきと上奏。十六日、馬士英が陳洪範を北使に推挙。十九日、左懋第は母が北京で死去したため陳洪範との同行を志願。
  • 二十六日、旧輔謝陞に上柱国少師、盧世㴶に工部侍郎、黎玉田に兵部尚書、王応華に光禄卿を進め、皆山陵使として先帝后の合祀を祭告させる。二十七日、清軍が徳州に入り盧世㴶が降伏、済王は逃げて死去、馬元騄は南京へ逃れ、謝陞も清に出仕した。
  • 二十九日、北から帰った諸臣が南下。監軍淩駉が船中にあり、李建泰が既に清の輔臣となり山東巡撫の辞令を得ていた事情や、淩駉自身は南京への上奏を続けていたことが記される。同日、清の固山額真石某らが山東巡視の兵を動かし服従しない地は攻撃するとの布告。清の平西王呉三桂も安民を布告。七月一日、青州に清・呉三桂両者の布告が届き、済寧以外の東昌・臨清などは既に服従。臨清の中軍張顕栄によれば、清は徳州に総兵を駐屯させ王鰲永に山東招撫を命じたという。
  • 八月二日、張鳳翔の家族が楊士聡と共に南京からの詔使の船に便乗して南下。淩駉はあらかじめ「北朝の兵に南への護送の礼はない、済寧で引き返す」と警告していた。この頃、馮銓・李建泰・謝陞はいずれも清の内院大学士となっていた。
  • 五日、左懋第を兵部右侍郎僉都御史・河北経理に、馬紹愉を太僕少卿、陳洪範を太子太傅に。清は既に王鰲永を山東・河南総督、方大猷を監軍に任じ、巡撫代行の楊汝成・張維機を済寧へ送り込んでいた。
  • 六日、朝議を終え、左懋第・陳洪範・馬紹愉と北使について協議。礼部尚書顧錫疇が陵園祭告文・先帝后祭告文・呉三桂への封爵文書・黎玉田と高起潜への勅命・北京民への布告文などを起草した。
  • 十四日、左懋第は、自身の「河北経理・関東連絡」という任務名と実際に行う和議交渉(歳幣の話)との齟齬を指摘、また馬紹愉が以前の清との交渉で卑屈な態度を取り清から高価な贈り物(貂皮など)を受けていたことを理由に同行を渋った。
  • 十六日、史可法、呉三桂軍が既に清の年号を掲げ民に剃髪を強要しているとの報告。十八日、陳洪範の出発を督促。二十一日、清が遼東人四名を沂州へ派遣し戸籍・食糧調査。二十三日、左懋第・陳洪範に渡淮を急がせ、馬紹愉に銀・幣を護送させる。
  • 三十日、劉沢清が呉襄への褒賞を進言、劉孔昭も呉三桂父子への礼遇を求めた。実際には朝廷の多くが呉三桂の明への忠誠のなさに気づいていたが、奸党はあえて彼を持ち上げ、事実上売国的な動きをしていたとされる。八月二日、光禄少卿沈廷揚は海路での呉三桂への軍糧十万石輸送を命じられるが道が阻まれ中止を求めるも却下。二十三日、呉襄に遼国公を追贈。
  • 淩駉は臨清で清に恭順を装いつつ密かに恢復の機を狙い、巡撫王燮・総兵邱磊の早期赴任を上奏、自身は山東巡按御史に転じ空名劄百通を与えられた。
  • 三十日、兗東道郭正中、清の騎兵が山東へ南下していると報告。九月十四日、御史徐養心、山東に清の巡撫方大猷・道臣張安豫が派遣されているとの報告、王燮の早期赴任を促す。清の総河楊方興が済寧に駐屯し、山東州県へ檄を発して次第に帰順させていた。方興は遼東出身の貢生で科挙首席、清の内院で歴任した人物であった。
  • 十六日、清軍が宿遷に入る。二十三日、清将楊方興が土寇「掃地王」らを帰順させる。二十五日、清の山東巡撫方大猷が丰・沛の知県に胡増光・胡欽光兄弟を任命。
  • 二十六日、田仰、忻州・郯城・宿遷への危機の急迫を報告。
  • 十月三日、清の布告が済寧に届き、摂政王が十万の大軍を南下させるとして州県に糧草の準備を命令。臨清総兵が済寧に進駐。五日、清の東路軍が沂州、西路軍が濮州に到達。八日、清軍が丰県を占領、胡増光が入城、前知県劉燧は逃走の末死亡。
  • 十三日、馬士英、王永吉に一品服を賜り北使への礼遇を厚くする。劉沢清、贛楡・沭陽・沛県・邳州・曹州・単県・開封・帰徳の各地に清軍が展開し、陳洪範・左懋第の渡河のめども立たず、王燮・邱磊の赴任先も失われている現状を報告、徐州の防備や清河廃城の修復による防衛線構築を提案。
  • 十六日、清軍が海州に入る。十七日、清軍が宿遷境に到達、郷兵が酒食で出迎える中、県民は逃げ去った。
  • 十一月四日、総兵邱磊、青州の異変を報告、白沙で海神を祭り家族を船に乗せて北へ向かおうとしていた。六日、邱磊は安東で柏承馥・王尊垣に招かれた際に急襲され捕らえられる。二十一日、王燮が邱磊の件で自ら罪を認める。
  • 十日、清軍が海州を破り囚人を解放、翌朝泗口へ撤収。清軍八万が沭陽・邳州・宿遷の三方面へ展開、糧料の調達を各県に命令。十一日、清軍が邳州を攻撃、署印推官沈冷之が籠城して救援を待つ(史可法が白洋河まで進軍したとの説あり)。十二日、清軍が宿遷に入り、史可法が救援に向かうが撤退。
  • 十三日、高傑が徐州に到着。先に河南巡按陳潜夫が清が十月二十五日に山東・徐州・河南の三方面へ出兵し豫王が孟県から渡河するとの情報を得ていた。傑は劉沢清に書簡を送り、清の一王子が二十万と号する(実数七、八千)の兵を率い済寧に集結、河南各地から危急の報が相次いでいると伝え、力を尽くして国恩に報いる決意を述べた。
  • 十五日、劉沢清、清将夏成祖が済寧を出発し、楊方興が宿遷で筏用の鉄材を集めていると報告、自ら河防の分担案(三里ごとに堡塁、百歩ごとに囲い、空所には壁と濠)を提示、王燮・田仰・王永吉・越其傑らに各区域を分担させた。
  • 二十日、田仰、清将が沂州・莒州に駐屯し斥候が沭陽・榆までを行き来していると報告、遼東出身の趙福星が宿遷道として五千の兵で守っていると伝える。
  • 十二月一日、清の一万騎が河南へ南下。三日、王永吉を防河総督に、劉沢清・高傑に張縉彦・王燮との連携を命じ、王燮を淮上へ移駐、黄得功・劉良佐を邳州・宿遷援護のため近くへ移動させる。
  • 十五日、左都督陳洪範が南へ帰還、清での交渉の顛末(摂政王の高圧的な態度、内院冠林らの詰問、拘束と厳しい待遇、十月十四日の使節団への叱責、十五日の銀十万両の接収、二十七日の出発督促、十一月の左懋第の連行など)を詳細に報告。士英は「四鎮があるから心配ない」と楽観視、陳洪範への論功行賞の動きに兵科戴英が「使命を果たせなかった正使が異域に留められたまま従者が昇進するのはおかしい」と反対。
  • 十八日、馬士英、「清軍は河北に屯しているが賊の勢力もまだ強く、赤壁・淝水の故事のように少数でも勝機はある」と楽観論を上奏。王永吉に河北、張縉彦に河南の防衛を命じ、許定国・王之綱に担当地域を割り当てる。大学士王鐸が江北への出征を願うが却下。清軍は夏鎮から済寧経由で南下し海州を攻め邳州を包囲、史可法・高傑・劉沢清が相次いで急を告げるが応答なし。
  • 二十日、史可法に邳州救援を命令。二十四日、張縉彦が諸将に河防を分担させる(王之綱、許定国、劉洪起、李際遇)。高傑が北征のため徐州を発つ。
  • 二十九日、高傑に太子少傅、史可法に太傅を加える。以前、程継孔が木を斬って筏を組み清軍を渡河させようとした偽装帰順を高傑が見抜いて誅殺しその兵を吸収した功が、この時になって士英により評価されたことによる。