明季北略誅戮諸臣 思宗 崇禎十七年甲申 1644年

(本巻も同じ崇禎十七年甲申、大順政権下の北京における明朝旧官僚の処遇――誅殺・拷問・逃亡・投降――を記録したもので、前巻に続く付録的内容である。)

誅戮諸臣(大順政権により処刑された者)

  • 朱純臣(成国公):斉化門を守っていたが賊に内応し、後に崇禎帝の遺詔(太子輔佐の命)が発覚し誅殺された。
  • 徐允禎(定国公):朱純臣と同時に誅殺。
  • 陳演:大学士。財産を隠したため仆に密告され、財産を掘り出された上、牛金星により鎖で繋がれ歩かされる拷問の末に誅殺された。
  • 魏藻德:状元・大学士。自成に真っ先に媚びたが、劉宗敏に「亡国の責任者」と詰問され、拷問の末に死亡(諸説あり)。
  • 邱瑜:東閣大学士。自ら死を覚悟していたが機を逸し、最終的に劉宗敏に取り立てられ拷問と辱めの末、隙を見て服毒死した。著者は「遅れて死んだ」との非難に対し、事情を酌量すべきと弁護している。
  • その他、駙馬・都督級の勲戚である冉興讓、劉岱、冉孔悦、張国紀父子らも夾刑により死亡した。周奎の一族(周鑑ら)も過酷な拷問を受けた。

刑辱諸臣(拷問・献金強要を受けた官吏)

  • 方岳貢(大学士、清廉で知られたが激しい拷問を受け、太子を庇おうとして果たせず、絶食の末に死亡)、李遇知、雷躍龍、沈惟炳、張維機(賊の刀を奪い自刎)、金之俊(後に清朝の宰相となる)、陳必謙、王正志、方拱乾(美婢の賄賂で夾刑を免れる)、胡世安、衛允文、楊昌祚、林増志、宋之繩、李士淳ら翰林・六部の官僚多数が、献金の強要と夾棍(拷問具)による責め苦を受けた。
  • このほか吏部・戸部・礼部・兵部・都察院・大理寺など各官庁に勤めた数十名の官僚の氏名・出身・科挙年次・官職・処遇(夾刑・献金額・釈放または死亡)が個別に列記されている。多くは献金額に応じて釈放され、一部(劉有瀾、陳鵬舉の家人が身代わりを申し出た例など)は特に義烈の事跡として特記される。

幸免諸臣(拷問を免れ、あるいは逃亡した者)

  • 周奎(国丈、吝嗇で献金を渋ったが最終的に厚遇され刑死を免れた。娘・后母や息子たちの運命については異説がある)、董象恒、周亮工、鄭二陽、曽櫻、施元征、張伯鯨(最も早く逃亡)ら、獄から釈放されて逃れた官僚、あるいは身を潜めて難を逃れた官僚多数が列記される。新選の進士や庶吉士の中にも、選に漏れて難を免れた者が多数記される。

従逆諸臣(大順政権に出仕した者)

  • 楊観光:偽礼政府侍郎。自成に郊天の礼儀を進講し重用された。
  • 楊汝成:礼部侍郎。妾を劉宗敏・牛金星に献上して罪を免れ、上表文で自成に阿った経緯が、地元の弾劾文に詳しく記される。
  • 項煜:少詹。「大丈夫、名節を全うできぬなら管仲・魏徴たれ」と嘯いたが実際には失意のうちに逃亡した。
  • 何瑞征:宏文館学士。勧進の首唱者の一人。
  • 陳名夏:偶然の恩義(旧知の賊将に助けられた縁)により難を逃れた経緯が詳しく記され、後に清朝の宰相となったが刑死した。
  • 韓四維:国子監司業を望んで銀二万を献じたが得られず、後に清朝でも困窮の末に獄死。
  • 楊士聡・高爾儼・楊廷鑒(状元、周鐘と勧進の詔を争って書いた)ら、宏文館・六部の要職に就いた降臣多数。
  • 周鐘:勧進表の起草者として最も非難された人物。「比堯舜而多武功、邁湯武而無慚德」の一文が士林の恥辱として語り継がれた。かつて復社の重鎮として名を馳せた経緯との対比が詳述される。
  • 魏学濂:庶吉士。忠臣魏大中の子でありながら一時投降したが、後に太子・二王の消息を絶たれたことを知り、自ら死を決し絶命詩を遺して縊死した。著者は「遅れて死んだが竟に死んだ」者として、その苦衷を酌量すべきと論じている。
  • 張家玉:庶吉士。抗言して賊を怒らせたが屈せず、父母を人質に取られてようやく降ったとされる(自身は後に南明で忠臣として戦死)。
  • このほか吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部・六科・都察院・大理寺・尚宝司・光禄寺・中書科・国子監・太僕寺・行人司など、ほぼ全ての官庁にわたり、大順政権に出仕・あるいは名を連ねた官僚数十名の氏名・出身・官職・任じられた偽官職が個別に列記されている。
  • 牛金星、宋企郊、顧君恩、鞏焴、陸之祺、李振声、韓霖ら、賊の中枢に加わった主要な降臣の一覧も併記される。

逸話・付記

  • 東直門の道士が事前に城の陥落と特定人物の凶運を予言していた逸話、蔡生という天文家が事前に甲申の異変を予言していた逸話が付記される。
  • 巻末に「孔孟討賊文」として、『論語』『孟子』の語句を借りて自成の弑逆と降臣の変節を風刺した戯文が収録される。