明季北略體仁擬旨逮錢、瞿 思宗 崇禎十年丁丑 1637年

温体仁、銭謙益・瞿式耜の逮捕を擬す

  • 正月、常熟の民張従儒が前礼部右侍郎銭謙益・給事中瞿式耜を賄賂等の罪で誣告。実は財産争いで両者に頼みごとを断られた陳履謙が仕組んだ讒訴であった。温体仁の擬旨で両者は投獄されたが、太監曹化淳の反発もあり、刑部尚書鄭三俊の取り調べで冤罪と判明。陳履謙・張従儒は処罰され、銭謙益らは釈放された。

陸文声、復社を訴える

  • 三月、監生陸文声が張溥・張采の結成した「復社」を風俗紊乱の元凶として訴えたが、提学倪元珙の調査でその訴えが妄言と判明し、陸文声は左遷された。張溥は若くして学問に優れ、復社を通じて呉越の俊秀を糾合、多くの著作を残したが、政敵の中傷に苦しみ若くして病没したという。

李如燦、直言で投獄される

  • 四月、崇禎帝が直言を求めた際、給事中李如燦は軍制・財政の弊害と、魏呈潤・詹爾選ら直言の士が次々に処罰されている矛盾を指摘したが、逆に投獄された。左諭徳黄道周も同様の矛盾を諫めたが叱責された。

楊光先、陳啓新を弾劾す

  • 四月、楊光先は、かつて「三大病根」を上疏した陳啓新自身が登用後は何ら弊害是正に動かず、私的な引き立てに終始していることを痛烈に批判し、併せて首輔温体仁の無為無策も糾弾した。楊光先は廷杖の上遼東へ流された。

朱国弼、温体仁を弾劾す

  • 四月、撫寧侯朱国弼は温体仁が左都御史唐世済を庇い霍維華の賄賂を受けたと弾劾したが、温体仁は慰留され、朱国弼は爵位を奪われた。六月、温体仁はついに病を理由に辞任した。著者は、温体仁が清廉ではあったが私党を庇い異論を排する専横により多くの敵を作ったことがその失脚の原因と評している。

高起潜の巡行

  • 四月、総監高起潜の巡行にあたり地方官が属礼を恥じて免除を求めたが認められず、以後宦官への服従が常態化した。七月には宦官登用の是非をめぐる議論もあった。

罪己の詔

  • 閏四月、大旱魃が続く中、崇禎帝は官吏の腐敗(火耗・羨余の私物化、賦役の不公平、賄賂による裁判の歪曲など)を列挙し、自ら罪を認める詔を発した。

楊嗣昌、均輸策を建議す

  • 江北の賊討伐の軍費調達のため、兵部尚書楊嗣昌は税制を「均輸」に改め二万両を増徴する策を建議、崇禎帝は「一時民に負担を強いるが賊という腹心の患を除くため」としてこれを認めた。

史可法、安廬を巡撫す

  • 七月、史可法は右僉都御史として安慶・廬州・池州・太平の軍務を巡撫することとなった。廉潔で民を愛する統治で知られ、東南の防波堤となった。

聖駕の巡城

  • 八月、崇禎帝は前例のない京城巡視を行った。数十万人の兵士を動員し豪華な儀装を整えたが、実質的な防衛強化には繋がらず、著者はこれを「亡国の兆し」と厳しく批判している。この巡視に関連し不手際で処罰された官吏もいた。

黄道周の七不如

  • 十月、東宮官の人選に関連し、黄道周は自らを劉宗周・倪元璐・魏呈潤・詹爾選・陳継儒・李如燦・傅朝佑・銭謙益・鄭鄤ら七人に劣ると謙遜する上奏を行ったが、鄭鄤(母を杖打ったとされる不孝者)を引き合いに出したことが崇禎帝の不興を買った。給事中馮元飆は黄道周の忠誠を弁護したが容れられなかった。

陝西の李自成ら諸賊

  • 正月、混天星が商洛を侵し、李自成は西河を縦横に暴れ、過天星は汧隴に拠り、蠍子塊は河西で西番と結んだ。十月、過天星・李自成は蜀に入ったが、川兵により混天猴・蠍子塊は広元で大敗した。

李巌、自成に帰す

  • 開封杞県の挙人李巌は、飢饉に苦しむ民に私財で施しを行ったが、これが県令の誤解を招き「謀反」と讒訴されて投獄された。民衆が県令を殺して李巌を救出し、李巌は「私を救った罪は免れない」として自成の下に投じることを勧め、自らも合流した。以後、李巌は李自成に仁義を装う戦略(不殺・不掠・不徴糧の喧伝)を進言し、これが民心を得る大きな要因となった。著者は、幼時に「李公子の乱」と聞いていたものが実は李巌のことであったと後年知った経緯を付記している。

王忠軍、騒乱を起こす

  • 二月、山西総兵王忠が河南への援軍を怠り軍が騒乱を起こしたため逮捕された。孫伝庭が河南の総理に任じられた。十一月、楊嗣昌は各撫鎮に討伐の要地分担を提言した。

賊、荊州を侵す

  • 閏四月、熊文燦が兵部尚書として討賊の総理に任じられた。五月、鄖襄の賊が荊州の墳園を焼いた。十二月、戴柬閔が鄖陽の撫治となった。

胡光翰の戦死

  • 鄖県の生員胡光翰は、崇禎十年(1637年)の賊禍に際し郷勇を組織して防戦したが、内通者の裏切りと援軍の欠如で敗れ、力戦の末に戦死した。著者は、地方官が援軍を送らなかったことを李陵の故事になぞらえて痛憤している。

賊、江北を騒がす

  • 正月、総兵秦翼明・楊世恩が応山で賊を破ったが、賊は分散して湖広・南直隷方面に広がり、蘇松巡撫張国維が長江沿岸の防備を固めた。

左良玉、功を立てて驕る

  • 二月、左良玉は舒城・六安で連戦連勝したが、功に驕って張国維の召集命令に従わず、賊に逃げられる失態を演じ、弾劾を受けて職を革められた。

賊、安慶を包囲す

  • 賊が安慶に来襲し激戦となったが、史可法の指揮で十四日間の攻防の末に賊は撤退。十月には各地で官軍が反撃に転じ賊を撃破した。

陳於王の自刎

  • 世襲の武官陳於王は海賊討伐で名を挙げた勇将で、崇禎年間には六合の防衛にあたった。太湖での激戦で重傷を負い、なお「ここが我が死に場所だ」と刀を抜いて自刎した。かつて無実の罪で投獄された経験もあったが、その武勇は「国士無双」と称されたという。

諸将の死難

  • この年、安慶での戦いで多くの将兵が命を落とした。首を石に打ちつけて死んだ者、四肢を切断されてなお罵り続けて死んだ者など、様々な壮絶な最期が記録される。

賊、六合を陥す

  • 崇禎九年、巡撫張国維は六合に築城を命じたが県令鄭同元の怠慢で土城のみとなり、翌丁丑年、賊来襲の警戒も怠ったため城は陥落した。遊撃常某は浮橋で最後まで防戦し矢を受けて死んだが、県令鄭同元は変装して真っ先に逃走し、失態の責任を部下に押し付けた。著者は、この六合陥落が他の記録に見えないのは、南京の大臣たちが都に近い場所での失態を隠したためではないかと推測している。
  • 陥落後、道端で昼間から幽霊の泣き声が聞こえたが「流賊が来た」と叫ぶと静まったという奇談や、子供の夜泣きも「流賊が来る」の一言で止んだという逸話が伝わり、著者は流賊の恐怖が人にも霊にも及んだことの異様さを記している。

天変異象

  • 閏四月十日、山西汾州府武郷・沁源で象や牛ほどの大きさの雹が降り、この年は大旱魃であった。七月、六合陥落後の八月以降、毎日夕方に東南の空が三か月余りにわたり火のように赤く染まる異変があり、識者は兵乱と大旱の兆しと占った。この年、浦口西北の伏龍山一帯に、鶴のような姿で頭部が縮こまり胸に人面のような模様を持つ「人頭鳥」が万余り現れたという。