明季北略黃道周疏 思宗 崇禎四年辛未 1631年

黄道周の上奏

  • 黄道周、号石斎、福建鎮海の人。侍読学士として、崇禎三年(庚午,1630年)以降の朝議が「辺疆」を口実に党派対立の道具としていること、崇禎四年(辛未,1631年)以降は「科場(科挙)」が同様に私怨の道具にされていることを批判した。
  • 万暦末年に長らく退けられていた鄒元標・趙南星ら旧臣を根拠なく再び処罰の対象とすることの不当を訴え、馬如蛟・毛羽健・任賛化ら気骨ある人材が次々に譴責される一方、惠世揚・李邦華・梁廷棟ら有為の人材が用いられていない現状を憂い、人材登用の刷新を求めた。
  • 十一月、黄道周は銭龍錫を弁護したことで左遷され、中允倪元璐も「黄道周・劉宗周のような人材すら用いられないのでは誰が陛下のために尽くすのか」と諫めたが、聞き入れられなかった。

呉執禦、周延儒を論ず

  • 八月、御史呉執禦は、首輔周延儒が辺境情報を私的な権力操作の道具にしていると弾劾したが、上奏は三度とも握りつぶされた。

張彜憲、銭糧を総理す

  • 九月、崇禎帝は太監張彜憲に戸部・工部の銭糧管理を総理させた。かつて宦官を退けて督撫に権限を委ねていたが、後金軍の南下(崇禎二年)を機に再び宦官が実務を掌握するようになり、以後その専横が強まった。

呉牲の賑撫

  • 正月、御史呉牲に十万両を与えて陝西の飢民を救済し、賊に投じた者も帰順すれば良民として扱うと諭させた。呉牲は延長で包囲中の賊に禍福を説いて解散させ、七千余人を招撫した。

楊鶴の招撫策とその破綻

  • 二月、賊が慶陽を包囲した際、総督楊鶴の対応が遅れた。三月、張応昌らの援軍で包囲は解かれ、賊将孫継業らが投降。四月、神一魁も楊鶴に投降し、楊鶴はその戦力を誇張して朝廷に多額の賑済金を求めた。満天星も投降したが、その配下は数か月のうちにまた離反した。
  • 七月、上天龍・馬老虎・独行狼らが再び鄜州を略奪。楊鶴の招撫策が繰り返し裏切られたことが給事中らに弾劾され、八月、楊鶴は招撫の失敗の責任を問われて投獄・流刑となった。崇禎帝は本来死罪を望んだが、子の楊嗣昌を用いるためにこれを免じたとされる。神一魁も八月に再び反乱を起こし寧塞に拠ったが、配下の黄友才に討たれた(黄友才も後に離反)。

賊、三十六営に分かれる

  • 崇禎三年正月に府谷県を陥した王嘉允は、四年六月、副総兵曹文詔により陽城で討ち取られた。その後を継いだ王自用は「紫金梁」と号し、老回回・八金剛・闖王・闖将・八大王・掃地王ら諸勢力が三十六営に分立した。

洪承疇、延綏を巡撫す

  • 洪承疇、字亨九、福建晋江の人。崇禎三年に延綏巡撫となり、四年四月、降兵を宴で油断させた上で伏兵により三百二十人を斬るという苛烈な措置を取った。不沾泥という賊が反発して米脂を攻めたが、洪承疇・張応昌らに撃退され、最終的に降伏した。七月、曹文詔が四鎮の兵を合わせて賊を連破し、一時延安・慶安一帯は平穏を取り戻した。

山西竇荘の防衛

  • 七月、賊趙四児が六千余人を率いて山西沁水県の竇荘を攻めた。かつての忠烈の臣張銓の妻霍氏は、家財を捨てて逃げるより籠城すべきと判断し、自ら僮僕を率いて防戦、四日間の攻防の末に賊を撃退した。逃げ延びようとした周辺住民の多くが賊に殺害される中、霍氏の一族だけが無事であったため、その堡は「夫人城」と称えられた。

洪承疇、趙四児を捕らえる

  • 八月、総兵賀虎臣が賊将劉六らを討ち取り、洪承疇が陝西三辺総督に任じられた。洪承疇は趙四児(点灯子)を捕らえて処刑し、平陽方面はやや安定した。十月、曹文詔・張福臻が残党の黒煞神・過天星・蠍子塊らを討伐。
  • 御史呉牲は、招撫政策が繰り返し裏切られる実情(「官賊」の風評)を報告し、渠魁を討伐し余党を離散させる方針への転換を提言した。

趙大允、婦人の首を斬る

  • 副総兵趙大允は賊への出撃を渋っていたが、士人に強いられて出陣した末、実際には婦人の首五千級を斬って戦功を偽った。給事中魏呈潤の弾劾により罷免された。

譚雄、安塞を陥す

  • 十月、陝西の賊が宜川を陥落。十一月、譚雄が安塞を襲い掠奪した上で投降を願い出たが、閏十一月、王承恩により討たれた。

混天猴、甘泉を陥す

  • 六月、鄜州の賊混天猴らが靖辺を襲おうとしたが張応昌に敗れた。その後洪承疇に敗れて一時投降したが、十一月に再び甘泉を陥し、知県郭永図を殺害、餉銀十万八千両を奪った。十二月には宜君・葭州も陥落し、兵備僉事郭景嵩が死んだ。総兵孫顕が賊と六戦してすべて勝利した。

張献忠の蜂起

  • 張献忠、榆林の人。幼少より怪力で気性が荒く、私塾で仲間を殴り殺すなどの事件を重ねて放浪。老回回・馬守応らの下で従軍し「黄虎」と称され、次第に勢力を伸ばして「西営八大王」を名乗る独立勢力となった。崇禎四年十月、洪承疇に一時投降したが、翌年三月には再び離反した。

大清兵、塞に入る

  • 六月、後金(大清)軍が大凌河城を包囲。巡撫丘禾嘉は長山でこれを迎え撃ったが敗れた。

天変異象

  • 三月八日、大風で砂塵が舞い視界を塞いだ。五月、大同・宣府一帯で牛が伏せたほどの大きさの雹が降り、人畜に多くの被害が出た。六月八日、臨隸県で暴風雷雨があり、楼閣が倒れ木が抜け、瓦器は空を舞っても無事だったが鉄器は砕けたという。山東徐州でも大水があった。著者はこれらの異変を、貴賤の逆転(賤しき者が栄え、貴き者が没落する)の予兆として重く見ている。

張真人の祈雪

  • この年六月、崇禎帝は北京に滞在していた張真人にその法力を試そうと雪乞いをさせた。真人が七日から祈祷壇を設けたところ、十二日に果たして雪が降ったと伝えられる(庚戌九月十九日、江西の法師董言元の伝聞として記録される)。