舊五代史卷一百四十六 志八 食貨志

序(梁の軽賦と後唐の重税)

  • 梁太祖の開国は黄巣の大乱の後、夷門(汴州)一鎮を拠点に外は烽堠を厳しくし内は荒地を開墾し、耕桑を厚くし租賦を薄くしたため、士は戦うがごとくとも民は喜んで税を納め、二紀(二十四年)ほどの間に覇業を成した。末帝と莊宗が河上で対峙した時期も、河南の民は輦運に苦しみながらも流亡には至らなかった。これは賦斂が軽く、丘園への愛着を保てたからである。莊宗が梁を平定すると、吏人孔謙を租庸使に任じ、法を峻しくして下を剥ぎ、厚く上に奉じたため、民産は尽き軍食もなお不足し、兵革と饑饉が重なって三、四年を経ずして顛落した。これは賦役が重く、天下の望みを失ったからである(この一段は『容齋三筆』が引く薛史の文で、食貨志の序に当たると考証されるため巻首に録す)。

田租・賦税の制度

  • 唐同光三年(925年)二月、魏府の小菉豆税を毎畝三升減免する勅が出された。城内の店・寺・園囿は従来無税だったが命により配徴が行われ、後に徴収物を軍装衣賜の助けとしていたため、緊急度に応じて絹税を三等に分け金納させ軍装衣賜に充て、絹は免除することとした。同年閏十二月、吏部尚書李琪は税を折納(金納)とせず本色で輸官させること、紐配(追加課税)を名目に正税加納をしないことを上言し、勅で認められた。本朝の徴科は両税に基づき折納を常としないとし、租庸司に対し税・鹽錢等を原則として本色で輸納させ、改める場合は事由を明らかにするよう命じた。
  • 天成元年(926年)四月、夏秋税の省耗(毎斗一升)を廃止し正税のみを納めることとした。四年(929年)五月、戸部が三京鄴都諸道州府の夏秋税・鹽麴等の折徴について、地域の気候に応じ起徴の期限を立てるべきと奏し、百姓が夏苗を自ら人戸で申告し五家で保を組み、隠漏がないことを連署し州が省へ報告する制度、隠欺があれば陳告を許し田を倍徴する制度が定められた。長興二年(931年)六月、諸道観察使に村ごとに有力者を村長とし、有力な人戸が余分な田苗を貧しい者に補い、応じない者は具状して撿括する制度が定められた。三年(932年)十二月、三司は上供税物が兵士の衣賜に不足するため、天下の斛斗・銭を支贍のほか折納して綾羅絹帛に充てることを奏し、認められた。
  • 晉天福四年(939年)正月、諸道の節度使・刺史が擅に賦役を加えたり県邑に別に監徴所を立てたりすることを禁じ、田租は人戸が自ら量り自ら概(枡すり)することとした。周顯德三年(956年)十月、三司は夏税を六月一日、秋税を十月一日から起徴する定制を布告した。五年(958年)七月には諸道に均田図を賜り、十月には左散騎常侍艾頴ら三十四人を諸州に下して民租を検定させた。六年(959年)春、諸道の使臣が回り検到した戸数は二百三十万九千八百十二戸であった。

銭貨・銅禁の制度

  • 唐同光二年(924年)度支は府州県鎭軍民商旅に八十陌銭を使うよう榜示させた。二月の詔では、銭は古の泉布で流通させれば交易が盛んになり、貯蔵すれば士農が困窮するとして、漢の告緡の条を引き、富室が余分に銭を蓄えたり銅器を鋳造したりすることを禁じ、辺境の州鎮に商人の銭搬出を鈐轄させることとした。三月、知唐州晏駢安が市中の点検で錫鑞混じりの小銭を多く発見し、これが江南の綱商の持ち込みによるものと奏したため、沿江州県で船が到岸するたびに厳しく点検し、悪銭を良銭に交換するために持ち込む者は没収することとした。天成元年(926年)八月、器物の価格が高いのは銅銭を溶かして器を作り利を得ているためとして、旧来の銅器・砕銅の鋳造のみ許し、生銅器は一斤二百文、熟銅器は一斤四百文の定価とし、違反は盗鋳銭の律で処断することとした。清泰二年(935年)十二月、鉛銭の使用禁止を御史臺に布告させた。
  • 晉天福二年(937年)、一切の銅器の鋳造を禁じ、銅鏡のみ官が東京に場を設けて鋳造・販売し、諸処への興販を許した。周廣順元年(951年)三月、銅法を緩め自由な興販を認めつつ、一色(純銅)のまま銅器に鋳直して販売することを禁じ、違反者は斤両にかかわらず死罪とし、告発者には賞銭百貫文を与えることとした。江南では唐の旧制に倣い饒州に永平監、池州に永寕監、建州に永豐監を置いて毎年鋳銭し、杭州に保興監を置いて鋳銭した。

塩法の制度

  • 唐同光二年(924年)二月、会計の要は塩利にありとし、両池(安邑・解県)の場務の荒廃を修めるため、河中節度使冀王李繼麟に制置度支塩鐵使を兼ねさせ両池榷塩使とし、条貫を制定させた(『五代會要』には同光三年二月の魏府隨絲塩銭の減免、蠶塩・食塩の減額、天成元年四月の蠶塩の俵散時期、長興四年五月の塩鉄転運使が奏した塩法の条流、犯塩の斤量に応じた杖罪・徒罪・死罪の等級、賞銭の等級などが詳しく記されている)。
  • 晉天福中、河南河北諸州で蠶塩の徴銭以外に末塩の場務で毎年十七万貫余りを糶っていたが、百姓が塩法を犯す例が多いとして、食塩銭を諸道州府の戸ごとに一貫から二百文まで五等に配分して徴収する案が実施されたものの、塩価が急落し官吏が制度を改めがたく、鹽塲税を重くして興販を絶ち小官に利を帰そうとした。七年(942年)十二月、三司に対し往来の塩貨に過税毎斤七文・住税毎斤十文を課し、諸道州府の属州塩務は省司が差し遣わす者に管轄させることとしたが、糶塩が増えても人戸の塩銭は免除されず民は苦しんだ(『五代會要』によれば晉天福元年十一月の赦節文で洛京管内の人戸食塩を毎斗十丈減免したとある)。
  • 周廣順元年(951年)九月、塩法を改め五斤以上の犯塩は死罪、鹻塩(土鹽)は一斤以上で死罪とし、それまでの漢法(斤両を問わず極刑)を改めた。三年(953年)三月、青白池務の抽税額が近年変動していた(青塩一石抽税銭八百文・白塩一石抽税銭五百文鹽五升から、青塩一石抽税銭一千文鹽一斗へと改まっていたこと)を踏まえ、旧に復すこととし、蕃漢の商人が求利しやすいよう辺境での私的な抽税も廃止した(『五代會要』には周廣順二年九月の詳細な塩麴取締り条流が記されている——犯塩の斤両に応じた杖罪・徒罪・死罪の等級、密告者への賞銭、鹽麴の売買は官場のみで行うべきこと、家長・造意者と従犯者の区別、州府県鎮の郭下人戸の塩配給制度など)。
  • 顯德元年(954年)十二月、世宗は侍臣に対し末塩地帯の州郡で顆塩地帯より私塩犯が多いのは、卑湿の地で鹹土を刮ぎ取り煎塩しやすいためで、榷法に反するだけでなく良塩の質も汚すと述べ、末塩は煎錬・般運の費用が顆塩の倍かかることから、曹州・宋州以西の十余州を割いて顆塩を食させることとし、輦運の省力と犯禁の減少を図った(『五代會要』顯德二年八月の宣頭では、贍國軍・堂陽務・邢洺州の塩務に関する墻塹・壕籬の設置、偷盗夾帯の取締り、賞銭の等級、鹻地の標識、河東方面からの塩の持ち込み禁止などが詳細に定められている)。三年(956年)十月、漳河以北の州府では城郭・草市内のみ従来の禁法を維持し、郷村は塩貨の通商を許し、鹹鹵の地での煎錬興販も漳河・高地界を越えない範囲で認めることとした(『文献通考』によれば、顯德五年に江北諸州を取った際、唐主(南唐)が海陵塩監を得たいと請うたが、海陵は江北にあり交居が難しいとして、代わりに毎年塩三十万斛を江南に支給することとした)。
  • 顯德二年(955年)正月、世宗は転輸の斗耗について、晉漢以来支破されず廪に納める新物にも省耗が課されている実情を踏まえ、水路輸送の損折を考慮し、今後は毎石に一斗の耗を与えることとした。

酒麴の制度

  • 後唐天成三年(928年)七月、三京鄴都諸道州府の郷村人戸に対し、その年の秋の田苗ごとに毎畝麴銭五文足陌を課し、私的な麴の製造・自家醸酒を許すこととした。京都・諸道州府の坊界内の官麴酒戸には、天成二年正月から一年間の買麴銭の総額の十分の二を榷酒銭として納めさせ、他の人戸にも私造酒麴を許すが私売は禁じ、違反すれば中等酒戸並みの榷を課すこととした。坊村では沽売を自由とし納榷の限りではなかった。孔循が麴法により洛陽で一家を殺した事件があり、これを機に「愛民」の名目でこの制度が行われたという。長興元年(930年)二月の赦書では、秋苗一畝あたりの麴銭五文を三文に減じた。二年(931年)の詔では、酒醴と麴蘖の禁令が厳しすぎて士庶が刑を犯す例が多いことを踏まえ、苗量に応じた税銭に改め、京・諸道の苗畝上の麴銭を廃止し、麴の官製は各州が旧価の半分に減じて在城で販売し、鄉村人戸の自家用の私造は許すこととした。
  • 顯德四年(957年)七月、諸道州府の麴務は往例に依り官が禁法を敷いて売麴し、都務を停止して既存の麴数に応じて販売し、賖賣(掛売)や人への抑配を禁じることとした。

(右、右食貨志に記される田賦・銅禁・塩法・酒麴の各条)