舊五代史卷一百三十四 僭偽列傳第一 楊行密

楊行密、廬州の人。乱世に乗じ広陵を得て淮南を平定し呉の基礎を築いた武将。孫儒との激戦を制し淮南節度副大使・𢎞農郡王に至ったが、称帝はせず没した。子の渥・渭・溥が相継ぎ、渭の代に大呉を僭称、溥の代に徐温の養子李昪に位を譲って呉は滅んだ。

年表(13件)

出自と挙兵

  • 楊行密は廬州の人。若くして父を失い貧しかったが膂力にすぐれ、一日に三百里を歩けたという。唐の中和年間の乱で天子が蜀へ避難した際、郡将は行密に徒歩で上奏の使者を務めさせたが、期日どおりに戻ったという逸話が伝わる。
  • 光啓初年、秦宗権が淮右を荒らし廬州・寿州を頻繁に侵したため、郡将は敵将を討ち取れる者を募った。行密は膽力を頼みに応募して功をあげ隊長に補せられた。行密はさらに自ら百余人を募って乱暴者ばかりを集め、都将を殺して州兵の実権を奪うと、郡将はやむなく符印を渡し、朝廷もこれを追認して行密を廬州刺史に任じた。

広陵攻略と淮南平定

  • 光啓三年、揚州節度使高駢が政治を誤り妖人呂用之らに委任していたところ、牙将畢師鐸は呂用之に讒言されるのを恐れて高郵で挙兵し広陵を襲ったが退けられ、宣州の秦彦に援軍を求めた。秦彦は将秦稠に兵三千を率いさせて師鐸を助け広陵を陥落させ、高駢は師鐸を行軍司馬とした。まもなく秦彦は大軍と家族を率いて渡江し揚州入りし、みずから節度使を称した。
  • 揚州陥落前、呂用之は高駢の檄と偽って廬州の行密に援軍を求めており、城が陥ちると行密は一万の兵で駆けつけた。呂用之も行密に身を寄せた。行密は大明寺に陣を敷いて広陵を攻め、いったん偽って退却し、秦彦・畢師鐸の兵が陣を奪おうと殺到したところを伏兵で撃破し大勝した。同年九月、秦彦・畢師鐸は幽閉していた高駢とその一族を皆殺しにし道院の北垣下に合葬した。行密の包囲はいよいよ厳しくなり、城中は食糧が尽きて米一斗が銭四万にまで高騰し人が人を食う惨状となった。十月、城が陥ち秦彦・畢師鐸は東塘へ逃走、行密は広陵に入城して外の兵糧倉の粟を飢民に分け与え、米価はただちに三千まで下がった。
  • 十一月、蔡州の賊将孫儒が一万の兵で淮西から攻め寄せ外寨を奪い、城内に入れなかった行密の輜重・牛羊・軍糧はことごとく儒の手に落ちた。秦彦・畢師鐸も東塘から儒軍に合流し、以後広陵の西門外は再び敵地となった。
  • かつて呂用之は天長で行密を欺き「私は白金五千鋌を自宅の廡下に埋めており、賊平定の暁には将士の慰労に充てたい」と約していたが、行密は閲兵の際に居合わせた用之に「僕射はこの銀を約束しながらなぜ裏切ったのか」と詰め、三橋のもとで斬り一族を滅ぼした。

梁との関係と孫儒の平定

  • 広陵を得た行密は大梁に使者を送り帰順の意を示した。時に梁祖朱全忠は淮南も兼領しており、牙将張廷範を淮南に遣わして行密と盟を結ばせ、続いて行軍司馬李璠を淮南留後代行に任じ、都将郭言に護送させた。行密は当初廷範を厚遇したが、李璠赴任の報を聞くと激怒し朝命を拒む姿勢を見せた。廷範は恐れて変装し夜逃げし、宋州で梁祖に行密の不軌の心を報告して兵を動かすのは時期尚早と進言、梁祖は李璠らを呼び戻し、改めて行密を淮南留後に表した。
  • 文徳元年正月、孫儒は高郵で秦彦・畢師鐸を殺し広陵を陥として節度使を自称、行密は兵をまとめて廬江へ退いた。十一月、梁祖は大将龎師古に穎水から淮水を渡らせ孫儒を討たせたが、深入りして不利となり撤退した。
  • 龍紀元年、孫儒が宣州を攻めた隙に行密は揚州を奇襲、北の時溥とも通じたが、孫儒は軍を返して行密を再攻撃した。大順元年、行密は危機に陥り夜陰に紛れて脱出し宣州に拠り、孫儒は揚州へ再入城。大順二年、孫儒は兵を練り直し行密を攻めたが折しも江淮に疫病が流行して多数の兵が死に、儒自身も病臥中に部下に捕らえられ行密に送られて殺された。行密は宣城から一気に広陵へ攻め入り孫儒の全軍を吸収した。光啓末の高駢失脚以来、行密と畢師鐸・秦彦・孫儒が六、七年にわたり互いに覇を争い、八州の内は荒れ果て数百里にわたり人煙が絶えるほどであった。

淮南の経営と昭宗の冊封

  • 孫儒を併合した行密は流民を招き集めて民を休ませ、政治は寛大簡素で百姓に喜ばれた。一方で兵馬を練り覇道を図り、孫儒から得た淮西の精鋭五千人を府第で厚遇して養い、戦えば先を争う精鋭とし、黒糸の甲冑をまとわせて「黒雲都」と名づけた。
  • 乾寧二年、行密は淮南の地を統一し、昭宗は制を下して行密を淮南節度副大使知節度事・管内営田観察処置等使・開府儀同三司・検校太傅・同中書門下平章事とし、揚州大都府長史・上柱国・𢎞農郡王を兼ね、食邑三千戸・食実封百戸を与えた。
  • 乾寧四年、梁祖が兖州・鄆州を平定すると朱瑾や沙陀の将李承嗣・史儼らが淮南へ亡命、行密は厚遇して重用し瑾・承嗣はともに方伯にまで昇った。この年行密が近隣を侵略したため、両浙の銭鏐・江西の鍾伝・鄂州の杜洪は梁に救援を求め、梁祖は朱友恭に歩騎一万を渡江させ討伐にあたらせた。行密方の都将翟章は黄州を放棄して武昌寨に籠ったが、行密が援軍として送った馬珣の精鋭五千とともに友恭・杜洪に大敗し、翟章と淮軍三千余人が捕らえられ馬五百匹を奪われ、淮南は大いに恐れた。
  • 八月、梁祖は葛従周に歩騎一万を率いさせ霍丘から渡淮させ、龎師古には大軍を清口に駐屯させた。淮人は堰を切って水攻めにし、朱瑾の精鋭が汴軍を急襲して大敗させ師古は戦死、葛従周も師古敗死を聞いて濠梁から撤退する途中、淠河で淮人に襲われほうほうの体で北へ帰った。

晩年の攻防と死去

  • 光化二年、行密は大将張帰厚を派して梁軍を退けた。天複三年、青州の王師範が反乱を起こし淮南に援軍を求めると、行密は将王景仁に二万の兵を与えて密州攻めを助けさせたが、七月に梁祖が王師範・景仁の軍を大破し、景仁は輔唐まで追撃されて数千人を失いつつ逃げ帰った。
  • 天祐元年十一月、淮南軍が光州を攻めると梁祖は霍丘まで進んで廬州・寿州の境を略地し、淮人は退いた。天祐二年正月、梁軍が寿州を攻めたが淮人は城を固く守って応じず、梁軍は掠奪のみで引き上げた。同月、行密は鄂州を陥落させ節度使杜洪を捕らえて揚州の市で処刑、梁の駐屯兵数千人もここで滅んだ。その後、江西の鍾伝・宣州の田頵もいずれも行密に併合された。
  • 天祐三年、行密は病により広陵で没した。子の渭が僭号したのち、偽って太祖武皇帝と追尊した。

子渥の代

  • 渥は字を奉天といい、行密の長子である。行密の没後、偽位を襲って呉王を自称し軍政を大将張顥に委ねたが、猜忌深く部下を御しきれなかった。天祐五年六月、渥は張顥に殺された。顥は梁への帰順を図って留後を自称し、別将徐温に兵権を委ねたが、まもなく温が顥を殺し行密の次子渭を主に立てた。渭が僭号すると渥は偽って景帝と追尊された。

子渭の代

  • 渭は渥の弟である。即位後、政事はすべて徐温に委ねられた。当時温は鎮海軍節度使で内外馬歩軍都指揮使を兼ね、上元県に昇州を置いて幕府を盛大に開き、自らは上流(潤州・昇州方面)で兵権を握る一方、子の知訓らを揚州に置いて政務を執らせ、十余年に及んだ。温はやがて渭を天子に冊立し国号を大呉、唐の天祐十六年を武義元年と改めさせた。渭は温を大丞相都督中外諸軍事とした。渭の僭号は三年で終わり、卒すると恵帝と諡された。

子溥の代

  • 溥は行密の末子で、はじめ丹陽王に封ぜられていた。渭の没後、徐温が溥を主に推し再び偽号を称した。唐の同光元年、荘宗が梁を平定し洛陽に遷都すると、十二月に溥は使者章景を遣わして入朝させ「大呉国主」と称し、大唐皇帝への書はへりくだった内容で上表文に等しかった。翌年八月には司農卿盧蘋を遣わして方物を貢ぎ、貞簡太后への献上品も添えたため、荘宗は左蔵庫使王居敏・通事舎人張朗らに名馬を持たせて返礼させた。
  • 郭崇韜が西州(前蜀)を平定すると淮南は大いに恐れ、偽号を廃して唐に称藩しようとした。崇韜自身は水軍で長江を下り呉を平定する策を考えていたが、崇韜が誅殺され洛陽で政変が起きると、淮南の人々はこれを聞いて安堵し喜び合ったという。
  • 明宗が即位を継ぐと溥は再び修好の使者を送ったが、安重誨は「楊溥はすでに称藩していない以上、対等の礼を取るには及ばない。国情を探るための使いに過ぎないので断るべきだ」と奏上し、朝廷は使者を宿舎に留め置いたまま貢ぎ物を受け取らずに帰した。
  • 唐の天成二年十月、徐温が没し斉王を追封された。温の養子李昪が温に代わって政務を補佐すること数年、太尉・中書令・録尚書事に至り斉王を襲封、偽って九錫を加えられた。晋の天福二年、溥はやむなく昪に位を譲り、昪は溥を潤州に遷して丹陽宮を築いて住まわせた。溥はそれ以後道士の装いをして辟穀の術を習い、一年余りで幽閉のうちに没した。昪はさらにその一族を海陵に遷し、呉の人々はその居所を永寧宮と呼んだ。周の顕徳年間、李景は周軍が淮水を渡ったことを聞き楊氏一族の政変を恐れて、使者を送りことごとく殺させた。
  • 唐の大順二年に行密が初めて淮南の地を領有してから溥の譲位まで、およそ四十七年で滅亡した。