舊五代史卷一百三十三 世襲列傳第二 錢鏐
錢鏐、杭州臨安の人。唐末の乱に乗じ杭越を平定し呉越国を建てた始祖。梁・後唐にわたって尚父・呉越国王を称し、四十年近くにわたり両浙を治め民に慕われた。子孫の元瓘・佐・倧・俶も相継ぎ、南方の中で最も長く朝廷に恭順を保った勢力として知られる。
年表(15件)
- 唐乾寧四年浙西の将士を率いて越州の董昌を破り捕らえる
- 天復年間許再思・徐綰の杭州襲撃を撃退し徐綰を捕らえる
- 梁祖の革命後尚父・呉越国王とされる
- 明宗即位初め安重誨の怒りを買い元帥・尚父・国王の号を削られ太師として致仕させられる
- (まもなく)子の元瓘らの上表により明宗が号を再び授ける
- 長興三年三月二十八日薨去、享年八十一、武粛と諡される
- 梁貞明四年夏元瓘が水戦諸軍都指揮使として呉軍を破る
- 唐長興四年元瓘が官爵を回復され父の位を襲う
- 天福六年八月二十四日元瓘が疾により薨去、享年五十五、文穆と諡される
- 晋天福末年佐が検校太師兼中書令・呉越王を授けられる
- 漢初佐が疾により在位のまま卒す、忠献と諡される
- 漢祖
- が汴に入った年の十二月倧が大将胡進思の反乱により幽閉される
- 漢乾祐元年正月十五日倧に代わり俶が迎え立てられる
- 周廣順年間俶の官は守尚書令・中書令・呉越国王に至る
- 皇朝建隆初年俶が天下兵馬大元帥を加えられる
出自と杭越平定
- 錢鏐、杭州臨安県の人。若くして拳勇にして任侠を好み、仇を解き怨みに報いることを事とした。唐乾符年間、潜鎮の将董昌に事え部校となった。天下の喪乱に際し黄巣が嶺表を侵し、江淮の盗賊は群聚し大なる者は州郡を攻め小なる者は閭里を掠めた。董昌は杭越の間で衆を集め専横し、杭州八県はそれぞれ千人を募って一都とし、これを杭州八都と称して黄巣の衝要を遏えた。
- 当時、劉漢宏なる者が徒党を集め越州に拠り自ら節度使と称し隣郡を攻め取り、潤州の牙将薛朗はその節度使周宝を逐って自ら留後と称した。唐僖宗は蜀にあって董昌に討伐を詔し、昌は軍政を鏐に委ね八都の兵を率いて越州を攻め漢宏を誅し、戈を返して潤州を攻め薛朗を捕らえ江浙を平定した。董昌は浙東節度使・越州刺史となり、鏐を杭州刺史として自らに代えることを上表した。
- 唐景福年間、朝廷は李鋋を浙江西道鎮海軍節度使としたが、当時孫儒と楊行密が淮海で交戦し戦禍が数千里に及んでいたため、鏐は常に軍を率いて防衛にあたり、孫儒は宣州に拠って江浙を侵さなかった。これにより鏐の勲名は日々高まった。李鋋がついに任地に赴かなかったため、朝廷は鏐を鎮海軍節度使とし潤州の軍額を杭州に移し治所とし、さらに越州に威勝軍を立て董昌を節度使とした。
- 昌は次第に驕慢となり、自ら符讖に応じたと称し、妖人王百芸に惑わされて僭称し越州で羅平国王を称し年号を大聖とした。偽命で鏐を両浙都将に任じたが鏐はこれを受けず状を上って唐昭宗に報じた。昭宗は鏐に昌の討伐を命じ、乾寧四年、鏐は浙西の将士を率いて越州を破り昌を捕らえて献上した。朝廷はその功を賞し鏐に鉄券を賜い、宰臣王溥を威勝軍節度使に任じたが両浙の士庶は鏐に杭越二鎮の兼領を求める上表をし、朝廷は制しきれずこれを許可、威勝軍を鎮東軍と改め、鏐は鎮海・鎮東の両藩の節制を兼ねた。
両浙兼領と呉越国王
- 鏐は両鎮を兼ねて精兵三万を擁したが、楊行密は連年戦を興し蘇・湖・潤等州を攻め両浙の併呑を図り、しばしば鏐に敗れたものの行密もまた数州を侵奪し、鏐の所部はついに十三州に止まった。
- 天復年間、鏐の大将許再思・徐綰が反し宣州節度使田頵を引き入れ杭州襲撃を謀り、田頵らが城下に迫ったが、鏐は軍士を激励して一戦でこれを破り、徐綰を生け捕り田頵は遁走した。鏐は臨安の故里に第舎を興し壮麗を極め、時節ごとに里中に遊び車徒は雄盛で万夫が列をなした。その父寛は鏐が来るたびに逃げ隠れたため、鏐は徒歩で寛を訪ね理由を尋ねた。寛は「我が家は代々漁猟を業とし、これほどの貴達を得たことはない。今お前は十三州の主となり三面から敵を受け人と利を争っている、禍が我が家に及ぶことを恐れて会いたくないのだ」と語り、鏐は涙して謝した。
- 鏐は唐昭宗朝で位は太師中書令・本郡王・食邑二万戸に至った。梁祖の革命により鏐は尚父・呉越国王とされ、梁末帝の時に諸道兵馬元帥を加えられ、同光年間には天下兵馬都元帥・尚父守尚書令・呉越国王に封じられ玉冊金印を賜った。
- 莊宗が洛陽に至った際、鏐は厚く貢奉を献じ国王と玉冊の授与を求めた。詔が下り有司が詳議したところ、群臣はみな「玉簡金字はただ至尊一人のもの、錢鏐は人臣であり不可、また本朝以来、四夷遠藩を羈縻し冊拝する場合に国王の号を与えることはあっても、九州の内でそのような例はない」と述べ、郭崇韜も特にその僭越を許さなかったが、樞密承旨の段殷が奸倖にして権を用い崇韜の意を動かし鏐のために取り成したため、崇韜はしぶしぶこれに従った。鏐は鎮海・鎮東軍節度使の名目を子の元瓘に授け、自ら呉越国王と称し、居所を宮殿、府署を朝廷と称し、参佐は臣を称して大朝の百僚の号を僭称したが年号だけは改めなかった。偽って制冊を発し新羅・渤海・海中の夷落にも爵を封冊し使者を遣った。
- 明宗即位の初め、安重誨が権を用いていた際、鏐が重誨への書簡に「呉越国王が某官執事に書を致す、暄涼を叙せず」と書いたため、重誨はその無礼を怒った。供奉官烏昭遇が両浙への使者となった折、朝廷の事をたびたび呉人に私語し鏐を殿下と呼び自らを臣と称して鏐に拝謁の舞蹈の礼を行ったため、帰還した副使韓玫がこれを具さに述べ、重誨は鏐の元帥・尚父・国王の号を削り太師として致仕させた。
- しばらくして子の元瓘らが上表して弁明した。折しも淮寇が荆南に攻め迫っており、明宗は同悪を疑い詔を降して詰問した。元瓘らは淮南を経て間道から上表し、亡父鏐が乾符の歳より功労を立て天復の初めに既に封土を得たこと、鉄券を賜り歴代の朝廷に忠節を尽くしてきたこと、老いてなお国王を称えながらも嗣子には藩臣の分を守らせていること等を縷々陳べ、荆南への侵略への疑いを晴らし、淮南との旧怨と近年の侵軼の事情を説明し、天子の裁可を仰いだ。明宗はこれを嘉納し、鏐に天下兵馬都元帥・尚父・呉越国王を再び授ける制を降し、まもなくまた上表に名を記さないことを許す詔を賜った。
晩年と評価
- 鏐は杭州で四十年近くにわたり栄華を極めた。銭塘江はかつて海潮が州城に迫っていたが、鏐は大いに工人を集め岩を穿って江を埋め、江中の羅刹石を平らげ、台榭を悉く建て、郡郭を三十里に広げた。邑屋の繁栄と江山の壮麗は江南随一であった。鏐は学問を好み書をよくし吟詠を愛した。江東の詩人羅隠は鏐の参佐となり、鏐はしばしば唱和した。隠は諷刺を好み、鏐の微賤な頃に牛に乗り棒を持っていた事を戯れに詩に詠んだが、鏐は怡然として怒らず、その度量の広さがこのようであった。
- 鏐は晩年こそ奢りに流れたものの、唐朝以来梁室・莊宗の中興に至るまで毎年帆を揚げて海を越え貢奉を欠かさなかったため、中朝もこれを善しとした。鏐は長興三年三月二十八日に薨じた、年八十一。制により、天下兵馬都元帥・尚父呉越国王錢鏐は累朝の元老、当代の勲賢として位人臣を極め名は簡冊に高く聞こえたとして、王の礼をもって葬り神道碑を賜ることとし、諡は武粛とされた。
- 鏐は董昌に事えていた若い頃、ある儒士が主帥に謁見しようと刺を進めたが鏐に会うと態度が冷淡だったため、鏐は怒ってこれを羅刹江に投げ込んだ、典謁の者が鏐を呼び出す際には客は既に去ったと偽って告げたという。帥となってからも「一条江水檻前流」という詩を献じた者を諷刺と受け取り殺害したことがあったが、晩年には人を愛し士に下り数十年にわたり治世を心に留め、時に大いに称賛された。鏐は栄華に恃み両浙を分けて数鎮とし、その節制の署置は自ら行ってから上奏し、左右前後はみな児孫甥姪で占め、軒陛服飾は王者に比すべきものだった。両浙の里俗はみな鏐を「海龍王」と呼んだ。梁開平年間、浙民が鏐のために生祠を建てることを願い出て梁太祖はこれを許し、翰林学士李琪に生祠堂碑を撰せしめて賜った。今に至るまで民はこれを祀り、子孫がこれを保っている。近代の名王というべきである。
錢元瓘
- 元瓘、鏐の第五子。鹽鉄発運巡官として起家し、尚書金部郎中を表授され金紫を賜った。天復年間、本州の裨校許再思らが乱を起こし宣州節度使田頵を引き入れ、頵が兵を率いて迫った際、鏐は再思を撃破したが頵と和睦し要盟を結ぶことになり、鏐は諸子に「誰が田氏の婿となれるか」と問うたところみな難色を示す中、当時十六歳の元瓘が進み出て「大王の命に従います」と答え、宣州に嫁いだ。
- 唐天祐初年、検校尚書左僕射・内衙都指揮使に累進し、数年の間に反乱鎮定・外冦防御の功を大いに立てた。梁貞明四年夏、鏐が呉を大挙討伐した際、元瓘は水戦諸軍都指揮使となり戦棹で東洲に至った。呉人は舟師で拒戦したが元瓘は火筏を風に乗せて灰を撒き、真昼を霧のようにして呉軍を惑わせこれを破り、軍使彭彦章と軍校七十余人を捕らえ戦艦四百隻を得た。呉人はこれ以上抗せないと知り鏐と和睦を通じた。この功により鎮海軍節度副使・検校司徒を奏授され、梁末に清海軍節度使・検校太傅・同平章事に転じ、後唐同光初年に検校太師兼中書令・鎮東等軍節度観察処置等使を加えられた。
- 当時鏐は自ら天下兵馬都元帥・尚父守尚書令・呉越国王と称していたが、鏐が太師として致仕すると元瓘はたびたび章疏を奉り旧号の回復を願い、唐明宗はこれを許した。鏐は年老いて嗣子を立てようとし諸子にそれぞれ功を論じさせたが皆元瓘に譲った。鏐が病篤くなると将吏を召し「余の病は治らず子はみな愚かで頼りない、お前たちの帥は自ら選ぶがよい」と言うと、将吏は泣いて「大令公は軍功多く賢行仁孝にして既に両鎮を領しています、王が何をこれ以上仰ることがありましょう」と述べ、鏐は「これで決まりか」と問い、皆「衆等は賢帥を奉じることを願います」と答えたため、鏐は符鑰数筐を前に出し元瓘に「三軍はお前がよいと言っている、これを受け取れ」と告げ、まもなく薨じ元瓘が父の位を襲った。
- 唐長興四年、将作監李鏻を遣り元瓘の官爵を回復させ、さらに戸部侍郎張文宝に命じ尚書令を兼ね授けさせた。清泰初年に呉王に封じられ、二年に越王に封じられ、天福元年に金印を賜り、三年に呉越国王に封じられ、五年に天下兵馬元帥を加えられ、六年に天下兵馬都元帥を授けられた。その年夏に疾を得て、秋に府署が火災に遭い焼失し他所に移ったが、その炎とともに病も再発し元瓘は驚悸のあまり発狂、その歳八月二十四日に薨じた、年五十五。諡は文穆。
- 元瓘は若くして聡敏で人心の掌握に長け、臨戎十五年にわたり決事は迅速で軍民に慕われたが、奢侈な造営は父を上回り、そのため火災に遭ったのだという。元瓘には詩千篇があり、その優れたもの三百篇を編み「錦楼集」と名付け、浙中の人士はみなこれを伝えた。子の佐が嗣いだ。
錢佐
- 佐、字は玄祐。元瓘が薨じるとその位を襲った。晋天福末年、制により検校太師兼中書令・呉越王を授けられ、玉冊を篆して賜られた。前代、玉冊は夷王を冊立する際に用いられたが、偽梁の時に鏐を厚遇するため初めてこの式例とされ、以後改められなかった。まもなく開府儀同三司・守太尉を授けられた。建安が淮寇に攻められた際、東南面兵馬都元帥を授けられ、佐はまもなく舟師を遣り討伐に赴かせ淮人を大破し、この功により守太師を加えられた。漢高祖が汴に入ると佐はまっさきに貢物を献じ東道の諸藩を率い、漢祖はこれを嘉して諸道兵馬都元帥を授けた。佐は在位七年、境内は豊かに栄え、祖父三代がみな元帥となったことは当時栄誉とされた。漢初、疾により在位のまま卒し、諡は忠献。
- 佐は幼くして読書を好み性温恭、五七言詩をよくし、官属が雪月の佳景に遇うと必ず宴を共にした。これにより士人は心を寄せた。その班品には丞相以下の名籍があったが俸禄は薄く自活し難く、朝廷から使者が降ると偽官を去り、あるいは会見に際しては公府が僕馬を援助するなど、事の処理はこのように行き届かないところが多かった。しかし航海の貢は年に百万に及び、王人が一人来ればその贈物は広大であったため、朝廷はこれを群藩の筆頭として寵愛した。
- 佐には子の昱がいたが五歳で庶務に堪えなかったため、弟の倧に位を襲わせた。
錢倧
- 倧、性明敏にして厳毅。まだ位に立たない頃から兵権を握る者を制しにくいと考えていたが、佐に代わり帥となると礼法をもって臣下を統制し、宿将旧勲を優遇しなかったため、大将胡進思がこれを不満に思い密かに親軍と謀り倧を除こうとした。漢祖が汴に入った年の十二月、進思は甲士三百を率いて衙署に突入し大いに騒ぎたてた。倧は戸を閉じて拒んだが左右の者は進思の兵と格闘の末みな殺され、倧は別館に遷され甲士に護送されて錦軍に幽閉された。倧の異母弟の俶を帥に立てた。その年夏四月、進思は背に疽を発して卒し、越人はこれを快しとして陰霊の誅であるとした。
錢俶
- 俶、元瓘の子で倧の異母弟。倧が軍校に幽閉された時、俶は温州刺史であったが、衆は帥がないため俶を迎え立てた。時に漢乾祐元年正月十五日のことである。その年八月、検校太師兼中書令・鎮海鎮東等軍節度使・東南面兵馬都元帥を授けられた。周広順年間、官は守尚書令・中書令・呉越国王に至った。皇朝建隆初年、天下兵馬大元帥を加えられた。その後の事は皇朝日歴に詳しい。
史論
- 史臣曰く、唐末の乱離以来、海内は分裂し荆湖・江浙はそれぞれ一方に拠って子孫を継承すること長年に及んだ。これは中原が多難で王風が振るわなかったためである。宋(皇宋)が天下を平定するに及び、朗陵の乱の勃発を機に王師を出して速やかに征し、一矢も失わず両地とも服したので、遠方の貢もみな朝廷への文をもって行われ、江漢睢漳の地もみな帰順の意を表した。これは天下の大統が帰するところとなり人心が広く合致したためである。ただ銭氏が杭越を守ること八十年を超えたのは、勤王の節に努めたためであって、荆楚・湖湘と同列には論じられない。