舊五代史卷一百二十八 周書第十九 列傳九(王朴・楊凝式・薛仁謙・蕭愿・盧損・王仁裕・裴羽・段希堯・司徒詡・邊蔚・王敏)

王朴(字文伯)

  • 東平の人。父王序は朴の栄達で左諫議大夫を追贈。幼くして聡慧、学を好み文を能くした。漢乾祐年間、進士に及第し校書郎、枢密使楊邠の邸に寓居したが、漢室の混乱と大臣間の対立の危険を察して東へ帰郷、まもなく李業らの変で楊邠一族が殺され、その門下も多く禍に遭ったが朴だけは免れた。周建国後、世宗の澶淵鎮守時に記室、開封尹時に右拾遺・開封府推官、即位後は比部郎中。
  • 顕徳二年夏、世宗が文学の士二十余人に策論を課した際、朴は「平辺策」を献じた。唐が呉蜀を、晋が幽并を失った経緯を分析し、失地回復には賢を進め不肖を退け、恩信で人心を結び賞罰を明らかにし、倹約で財を豊かにし、農を優先して民を富ませ、その上で「易きより始める」戦略を説いた。まず呉(南唐)を東西で撹乱し疲弊させ、その隙に江北を得て呉の民を用い、さらに南進し、呉が平らげば桂広・岷蜀は自然に帰服し、最後に幽州も望んで来る、ただし并(北漢)だけは強兵で討つべしと論じた。
  • 世宗はこの策を高く評価し左諫議大夫・知開封府事。剛毅果断な性格で、世宗の意にかなう献策を重ね急速に重用された。左散騎常侍・端明殿学士・知府事のまま京城拡張の実務を主導、街路の設計に手腕を発揮。世宗の南征では東京副留守、帰京後は戸部侍郎兼枢密副使、まもなく枢密使・検校太保。母の喪を経て起復。顕徳四年冬、世宗の再度の淮南巡幸に際し東京留守として庶務を独断で処理し、都は粛然としていたという(性格が剛烈で街路拡張に緩慢な廂校を厳罰に処したため恐れられたという逸話も伝わる)。
  • 顕徳六年三月、汴口の斗門建設を視察して間もなく朝に戻ったその日、前司空李穀の邸で談話中に発病し卒倒、担がれて帰宅しその夜に卒す。享年四十五(世宗の治世下でわずか四年の在職で、三関・淮南の攻略はいずれも朴の献策によるものであったという)。世宗は驚愕して自ら邸に赴き、柩前で玉鉞を地に突きたてて何度も慟哭したという。侍中を追贈された。星暦・音律にも通じ、『大周欽天暦』『律準』を撰した。剛直に過ぎ人に恭順とは評されなかったが機知は世に服された(後の恭懿な人柄評価は伴わなかった)。

楊凝式

  • 華陰の人。父楊涉は唐末梁初に二度宰相を務め左僕射で卒す。凝式は小柄ながら聡明で文才に富み、唐昭宗代に進士及第、度支巡官・秘書郎を経て梁代は殿中侍御史・礼部員外郎、蜀の留守巡官、集賢殿直学士・考功員外郎。唐同光初め比部郎中知制誥だが心疾で辞職、給事中・史館修撰を経て明宗代に中書舎人となるも再び心疾で辞す。長興中、右常侍・工戸二部侍郎から秘書監、清泰初め兵部侍郎。唐末帝の懐州出兵に扈従したが心疾の乱れがあり、洛陽に帰された。
  • 晋天福初め太子賓客、まもなく礼部尚書で致仕、伊洛の間で自適に暮らし、その俊才と耆徳から周囲は咎めなかった。晋開運中、宰相桑維翰が俸禄不足を憂え太子少保分司を授けた。漢乾祐中、太子少傅・少師。太祖の招きに老齢を理由に免除を願い許された。広順中に右僕射で致仕、顕徳初め左僕射・太子太保。顕徳元年冬、洛陽で卒す。享年八十五。太子太傅を追贈。
  • 歌詩に長け、洛陽の寺観の壁に多くの題詩を残し、その放縦な性格から「風子」と呼ばれた(父の宰相職に対する若き日の直言や、贈られた綿・絹を尼寺・寺の施しにあてる清貧な逸話、留守が事情を知って自ら衣米を贈った話などが伝わる)。書は顔真卿以来の名手と評された。父楊涉が伝国璽を太祖(朱全忠)に献じる際、若き凝式が「国家をこの有様にした上に璽を他人に渡すとは」と諫めた逸話や、その後の禍を恐れて佯狂を装ったとの伝えもある。

薛仁謙

  • 祖父守訓の代に河東から汴へ移り浚儀の人となる。父薛延魯は唐で汝州長史、吏部尚書を追贈。仁謙は謹厚廉直で世務に通じ、梁の鄴王羅紹威に重んじられ幕職を歴任、荘宗即位後は通事舎人、梁代に三度呉へ使いし使者の礼を得た。衛尉少卿・引進副使、長興中は客省使・鴻臚少卿、建雄軍節度副使。晋天福初め河中節度副使、衛尉・太僕二卿を経て継母の喪に服し、司農卿、漢乾祐中は本官で致仕、周初め太子賓客致仕・検校司徒・侯爵。
  • 顕徳三年冬、病により卒す。享年七十八。工部尚書を追贈。荘宗入汴の際、梁の六宅使李賓に占拠されていた旧邸を取り戻したが、賓の家族が財貨を隠していたと聞くと、まず親族に全て取り出させてから入居したという清廉さが評された。子の薛居正は皇朝で門下侍郎平章事となった。

蕭愿(字惟恭)

  • 梁の宰相蕭頃の子(頃は明宗代に太子少保で卒し唐書に伝あり)。曽祖蕭倣は唐僖宗代の宰相で、幼い愿が来客の声を真似た際「わが子孫が目の前にいる」と喜んだ逸話が伝わる。弱冠で進士及第、校書郎から畿尉直史館・監察殿中侍御史、比部員外・右司郎中・太常少卿。明宗代の太微宮の祭祀で酔って公卿の列に加わり弾劾され右賛善大夫に降格。後に兵部郎中・金紫を回復、父の喪を経て左司郎中から右諌議大夫、給事中・右常侍・秘書監・太子賓客。
  • 広順元年春卒す。礼部尚書を追贈。父母への孝行は篤かったが、酒好きで職務がやや弛緩し、告身の印を管理する任にありながら怠慢であったという(父蕭頃が吏部尚書として代わりに印篆を管理していたほど)。享年七十余、母もなお存命で、一門の長寿ぶりは世に稀であったという。

盧損

  • 范陽の人、近世は嶺表に赴任、父盧穎は京師に遊宦。梁開平初め進士に及第、剛介な性格で任賛・劉昌素・薛鈞・高総と同期で「相罵榜」と呼ばれるほど互いに反目したという。左丞李琪に見込まれその義妹を娶り、李琪の相位就任とともに出世、右司員外郎、唐天成初め兵部郎中・史館修撰から諫議大夫。清泰中、盧文紀の相府で機密に参与。御史中丞として綱紀の乱れを厳しく糾弾する条奏を出し「開放と守備」の対比を語って士人に嗤われた逸話、また赦書の誤りで停任された経緯もある。
  • 晋天福中、右散騎常侍から秘書監、失意のうちに致仕を願い戸部尚書致仕、潁川に隠棲。仙術に長けた李鏻を慕い陽翟に移住し「具茨山人」と号し、山中で薬を種え、後に大隗山で仲間と隠棲、齢を重ねても衰えなかったという。広順三年秋卒す。享年八十余。太子少傅を追贈。

王仁裕(字徳輦)

  • 天水の人。孤児で師に学ばず、二十五歳で発心し学問を志した。夢で腸胃を西江の水で洗い、水中の篆文石を吞む霊夢を見て以来、才知が卓越したという。詩万余首を『西江集』百巻にまとめた(この夢に因む命名という)。後に兵部尚書・太子少保で卒す。

裴羽(字用化)

  • 唐僖宗代の宰相裴𡵯の子。父の蔭で河南寿安尉、梁代に御史台主簿・監察御史。明宗代に吏部郎中として閩へ使いした際、颶風に遭い銭塘に漂着、安重誨の呉越封爵剥奪の措置で足止めされたが、後に呉越と中国が復通し帰国した。晋初め礼部侍郎・太常卿、広順初め左散騎常侍で卒す。工部尚書を追贈。閩への使者の正使陸崇が呉越で卒した際、その柩と遺品を持ち帰り義とされた。

段希堯

  • 河内の人。祖父段約は定州戸掾、父段昶は晋州神山県令。器局があり州県官を歴任、唐天成中に衛州録事参軍、晋高祖の鄴鎮守時にその勤幹を見込まれ洺州糾曹、後に太原の従事。清泰中、晋祖が代北で軍統率中、軍が乱れて万歳を呼ばわった時、希堯は「兵は火のようなもの、抑えねば自ら燃え尽きる」と諫め首謀者を処刑させ収めた。晋祖挙兵前にも極力諫止したが、晋祖はその純朴さを咎めなかった。
  • 晋祖即位後も旧僚の中で希堯だけは省郎止まりであったが、天福中に右諌議大夫、呉越への使者として海上で暴風に遭った際「私は日頃暗室にも恥じぬ行いをしてきた、天の加護があろう」と述べたところ風が止んだという逸話が伝わる。萊州刺史、懐州、棣州刺史兼榷塩礬制置使、少帝代に検校司空、開運中に戸部・兵部侍郎、漢初め吏部侍郎、周建国後は工部尚書、世宗代に礼部尚書。顕徳三年夏、洛陽で卒す。享年七十九。太子少保を追贈。子の思恭は右諌議大夫。

司徒詡(字徳音)

  • 清河郡の人。父司徒倫は清白で知られた郡督郵。詡は好学で五経に通じたが弱冠での郷挙は不合格。明宗の邢台鎮守時に見出され邯鄲の吏に任じられ善政で知られた。長興初め唐末帝に従事として招かれ、左補闕・史館修撰。秦王李従栄の府での戸部員外郎・河南府判官を経て、従栄の変で寧州司馬に左遷。清泰初め兵部員外郎、晋祖代に刑部郎中兼度支判官・枢密直学士から左諌議大夫・給事中・集賢殿学士判院事、左散騎常侍・工部侍郎、許・斉・亳三州を歴任。
  • 漢初め礼部侍郎として三度貢挙を主宰、吏部侍郎から太子賓客。世宗代に太常卿、雅楽の音律考正に関わろうとしたが足の病でしばしば休暇を取り、本官のまま致仕。顕徳六年夏、洛陽の私第で卒す。享年六十六。工部尚書を追贈。談論を好み酒と賓客を愛し仏教も信じた。漢乾祐中、呉越への使いで渤澥の海上に龍宮があると聞き、香を焚いて経典の奉納を誓い、後にそれを果たすと梵唄の音が船下に聞こえたという逸話が伝わる。

邊蔚(字得昇)

  • 長安の人。父邊操は華州下邽令、太子少師を追贈。孤児で篤学、晋陝華三府の従事を歴任。荘宗の蜀討伐で華州の帥が空位の折、記室として軍府事を代行し功績があった。明宗の入洛後、宦官誅殺の使者李冲の苛烈な処断から華州の連座者を理を尽くして多く救った。毛璋の邠寧鎮守時、廉判として跋扈の兆しを諫めて忠誠に導いた功で金紫を賜り、許州の戎判に改任。
  • 晋天福初め虞部員外郎・塩鉄判官、開封・広晋少尹、少帝代に左散騎常侍・判広晋府事、工部左右侍郎、再び開封府事。開運初め亳州防禦使として清粛な統治で民に慕われ、戸部侍郎、漢初め御史中丞・兵部侍郎、太祖代に再び開封府事、太常卿。足の病により辞職、顕徳二年冬、家で卒す。享年七十一。子の玕・珝はともに皇朝で省郎となった。

王敏(字待問)

  • 単州金鄉の人。純直で学問に励み進士に及第、杜重威の幕下で数鎮の従事を歴任。漢初め重威の鄴叛乱の際、留守判官として涙ながらに帰順を懇願し、重威が窮した末に敏の言を容れて城を降したことで魏の飢民の多くが救われたという。入朝後、侍御史、世宗の澶淵鎮守時に太祖の推薦で澶州節度判官、開封少尹、世宗即位後は権知府事から左諌議大夫・給事中・刑部侍郎。
  • 子婿の陳南金を曹州節度使李継勲に推薦したが、後に継勲が寿春で敗軍し帰朝の際に謝罪の礼を欠いたことで世宗が南金を咎め黜退、敏も連座して官を免ぜられた。歳余りで司農卿に復し、顕徳四年秋、病により卒す。