舊五代史卷一百二十七 周書第十八 列傳七(盧文紀・馬𦙍孫・和凝・蘇禹珪・景範)

盧文紀(字子持)

  • 京兆万年の人(底本にこの前に欠文あり)。長興末、太常卿。容貌魁偉、声は高朗で健啖家であった。唐末帝が岐州にいた頃、蜀への使者として通りかかり厚遇された縁がある。清泰初、宰相選びに末帝が悩み、廷臣の名を瑠璃瓶に投じて祈り、筯で挟んで文紀の名が最初に出たことから中書侍郎同平章事に抜擢され、姚顗と同時に相位に昇った。
  • 兵革の後、外寇内侵の危機にありながら、文紀は経綸の謀を示さず、朋党の些細な過失や銓選の微瑕にばかり拘泥した。太常丞史在徳が軍将・士大夫の閲試を建議した際、自分への当てこすりと受け取り激怒し、諫議盧損に反論を書かせたが文意が乱雑で嗤われた。晋祖の親征で末帝が徽陵を過ぎた際、「主憂臣辱、卿を最初に宰相にしたのに天下太平にできず万乗自ら出征させることになった」と責められ恐懼して謝したという。河陽での軍議では「大寨は堅固で戦わずして解けよう」と楽観論を述べたが、結果的に事態は悪化した。
  • 晋祖入洛後、罷相し吏部尚書、太子少傅・太傅を歴任。漢祖代に太子太師。洛陽分司の粛正のため文紀を検挙する側に回されたが、病を理由に辞し留台に糾弾されて致仕。広順元年夏卒す。享年七十六。司徒を追贈、輟朝二日。生前に巨万の財を蓄えたが子の龜齢が浪費し数年で蕩尽、多蔵の戒めとされたという。

馬𦙍孫(字慶先)

  • 棣州商河の人(底本にこの前に欠文あり)。唐末帝代に翰林学士・戸部郎中知制誥から中書舎人・礼部侍郎、まもなく中書侍郎平章事。純粋な儒者で朝廷の旧事に疎く、突然の抜擢で戸惑いが多かった。馮道が司空に任じられた際の礼制(三公は加官で単独拝任の前例がないこと)をめぐる混乱や、僕射劉昫と常侍孔昭序との序列争いへの対応で、周囲から「堂判に援拠あり」と嘲笑された逸話が伝わる。中書の実務にも通じず、署名するのみで賓客もほとんど見ず、当時「三不開」(口・印・門を開かない)と評された。
  • 太原の変(張敬達討伐)の際、唐末帝が懐州に幸した折、𦙍孫は洛陽に留守し、趙徳鈞父子の異志で情勢が緊迫する中、上朝しても綾三百匹を献じただけで有効な策を示さなかった。晋祖の代に廃されて帰田。韓愈の古風を慕い仏教を軽んじていたが、失脚後は長寿の僧坊に寄寓し華厳経・楞厳経を耽読、『法喜集』『仏国記』を著すほど傾倒し、「以前は仏を蔑んでいたのに」と嘲られると「仏に佞ることが多い」と笑って答えたという。
  • 晋・漢の代を通じて閑職に留まり、太祖即位後は検校礼部尚書・太子賓客分司として洛陽で著述に専念、八分書を好み手蹟を披露した。臨終前に白い虺が庭の槐に絡むのを見て「槐蟲賦」を作ったという。広順三年秋九月、洛陽で卒す。太子少傅を追贈、輟朝一日。かつて夢で神から筆を授かった逸話や、死後の侍婢の霊語で家事を差配した逸話が伝わる。

和凝(字成績)

  • 汶陽須昌の人。九代祖は唐高宗代の監察御史。父和矩は酒好きで礼に拘らぬが客を厚遇した人柄。凝は聡敏で秀でた資質を持ち、十七歳で明経に挙がり、後に夢で五色の筆を授かる霊夢を機に進士を目指し、十九歳で登第。滑帥賀瓌に見出され、胡柳陂の戦いで賀瓌が敗走する際、凝だけが従い追手の騎士を弓で射殺して主を救った功で、賀瓌の娘を娶ることとなり声望が高まった。
  • 鄆・鄧・洋の三府従事を経て、明宗代に殿中侍御史、礼部・吏部員外郎、主客員外郎知制誥、翰林学士。知貢挙の際、下第者による門前の警戒(棘・閉門)の慣例を廃し混乱なく実施、多くの人材を得たと評された。明宗に重用され中書舎人・工部侍郎、晋代に端明殿学士兼判度支・戸部侍郎、翰林承旨。晋祖の下問に的確に応じ、天福五年に中書侍郎平章事。
  • 天福六年秋、晋高祖の鄴都行幸に際し安従進の叛乱の兆しを見て、あらかじめ空欄の宣勅を開封尹鄭王に密かに預け、事あれば将校名を書き入れて出兵できるよう進言、実際に安従進討伐で迅速な対応を可能にした(この機転が功を奏したという)。少帝代に右僕射、開運初め罷相、漢建国後は太子太保、周建国後は太子太傅。顕徳二年秋、背中の腫れ物により卒す。享年五十八。輟朝二日、侍中を追贈。
  • 身なりを整えることを好み、後進の登用にも寛容で名声があった。艶やかな短歌・艶曲を得意とし、文集百巻を自ら版に彫り数百部を頒布した(『香奩集』が後世韓偓の作と誤伝されたのは実は和凝の作であるという)。子の峻は省郎で卒し、次子の峴は皇朝で司勲員外郎となった。

蘇禹珪(字玄錫)

  • 出自は武功、近世は高密に住み今は郡人。父蘇仲容は儒学で郷里に知られた。禹珪は謙和で父の業を継ぎ、五経で及第、遼州倅職から青鄆の従事、潞并の管記を経て戸部郎中。漢高祖の并門赴任時に判官として招かれ、契丹入汴後の晋陽即位に伴い中書侍郎平章事、後に右僕射・集賢殿大学士。漢祖の遺詔で蘇逢吉・楊邠らとともに幼主擁立の顧命を受け左僕射に進む。
  • 太祖の内乱平定の際、都城で兵士に捕われかけたが太祖に助けられ復位。周建国後は司空を守り、まもなく罷相、世宗代に莒国公。顕徳三年正月元日、客と食事中に急病で卒す。享年六十二。純厚な長者であったが、蘇逢吉の一族が誅滅された際も禹珪は無事であったことから、積善の報いと評された。子の徳祥は進士に及第し台省を歴任した。

景範

  • 淄川長山の人(底本にこの前に欠文あり。世宗紀によれば父景初は戸部郎中致仕)。世宗の南征に際し東京副留守を務め、河東遠征からの帰還後、国用の困窮から中書侍郎平章事兼判三司に抜擢された(世宗の制書では、先帝以来の忠節を評価し財政を任せる旨が詳しく述べられている)。
  • 厚重剛正で妥協せぬ性格であったが、複雑な実務処理には不向きで、精魂を傾けても称賛される成果を上げられなかった。世宗は病を機に司計の任を解いた。まもなく父の喪により罷相し帰郷、顕徳二年冬、郷里で病により卒す。侍中を追贈、官費で碑を建立された。

史論

  • 史臣は評す。学問の力で宰相の位を得た者は並の人物ではないはずだが、盧文紀は蓄財に耽り、馬𦙍孫は狭量に過ぎたことから、徳を全うできた者は少ないと知れる。和凝の文才、蘇禹珪の履行、景範の純厚さは、いずれも君子儒と呼ぶにふさわしい。これほどの人材を登用して、どうして治まらぬことがあろうか。