舊五代史卷一百二十五 周書第十六 列傳五(趙暉・王守恩・孔知濬・王繼弘・馮暉・高允權・折從阮・王饒・孫方諫)

趙暉(字重光)

  • 澶州の人。弱冠で募兵に応じ莊宗の帳前に属し、大梁との戦い百余戦で馬直軍使に昇進。同光中、魏王に従い蜀を破り南蛮の守備を分統。明宗代に禁軍指揮使、晋建国後は馬全節の安陸包囲、杜重威の宗城戦に従軍し功を重ね奉国指揮使。開運末、陝州に駐屯していたところ契丹の中原制圧に憤り、漢祖の挙兵を聞くと部将王晏・侯章と謀り契丹の任命官を逐って陝州を確保、直ちに漢祖へ報じた(契丹主の詔を斬り使者の首を焚いて漢祖に表を送ったという)。
  • 漢祖は暉を保義軍節度使兼陝虢等州観察処置使に任じた。漢祖の東京行幸の際、暉は路傍で戎服のまま拝謁し旧来の君臣の礼を尽くしたという。乾祐初め鳳翔に移鎮、同平章事。王景崇の岐山叛乱では西南面行営都部署として討伐にあたり、李守貞・趙思綰・蜀軍との連携に苦しめられたが、偽の増援を装う敵の策を見破って伏兵で殲滅、翌春に陥落させ検校太保兼侍中。周建国後は中書令を兼ね、顕徳元年、帰徳軍節度使として入朝、病により太子太師致仕、秦国公に進封。まもなく卒す。享年六十七。尚書令を追贈。

王守恩(字保信)

  • 太原の人。父王建立は潞州節度使・韓王(晋書に伝あり)。門蔭により内職に就き懐州・衛州刺史等を歴任。開運末、契丹の中原制圧の際、潞州節度使張従恩が契丹に朝しようとして守恩に巡検使を委ね逃げ去った隙に、守恩は潞城を挙げて漢祖に帰順、従恩の家財も奪ったという(『通鑑』『宋史』李萬超伝には、実際には部将李萬超が契丹使者を殺害し守恩を留後に推戴した経緯が詳しく伝わる)。
  • 漢祖は守恩を昭義軍節度使とし、漢建国後は邠寧に移鎮、同平章事。乾祐初め永興軍節度使、後に西京留守。性は貪欲卑劣で小人を重用し苛斂誅求を専らとし、病残の者にも課税を免れさせなかった。太祖が河中から洛陽に駐軍した際、白文珂に代えられることになり守恩は恐れをなし、かつて不当に搾取した洛陽の人々が旧物の返還を求めに来ると全て償ったという。乾祐末の漢少帝の弁明の場で「陛下は今日ようやく目が覚めましたな」と無遠慮に発言した粗野な人物であったと伝わる。周建国後は左衛上将軍、顕徳初め右金吾衛上将軍・許国公。顕徳二年冬、病により洛陽で担がれて帰り卒した。『五代史補』には、太祖が枢密使として三鎮の乱を討伐した折、守恩が輿に乗ったまま出迎えて太祖の怒りを買い、即座に白文珂に留守職を代えられた顛末が伝わる。

孔知濬(字秀川)

  • 徐州滕県の人。故太子太師致仕孔勍の甥。梁に仕え天興軍使、後唐同光末、勍の昭義鎮守の折、監軍が変事を企てたのを察知し伏兵で誅殺し軍城を鎮めた功で明宗に評価された。澤州刺史、左驍衛大将軍を経て、唐復・成三郡の刺史。晋高祖代は奉国右廂都指揮使・舒州刺史として範延光討伐に従軍、宿州団練使、隴州防禦使、開運中には鳳州刺史・検校太傅として、蜀に近接する要衝を少兵ながらよく守った。契丹統治下では滑州節度使、漢祖の代に密州防禦使。広順三年冬、京師で卒す。

王繼弘

  • 冀州南宮の人。若い頃、盗みを働いて鎮州の獄に捕われたが赦免され本軍に配属。明宗の下で頭角を現し、晋高祖の帳中小校を経て六軍副使。禁中で同僚と争い義州軍に落とされ、後に奉国指揮使として契丹主に従い相州守備を任された。相州節度使高唐英に厚遇されたが、契丹主死去後、漢祖への帰順の機に、繼弘は指揮使樊暉らと共謀して唐英を殺害し自ら留後を称した(「私は利を求めねば富貴を得られぬ小人である」と公言したという)。漢祖に節旄を正式に授けられ検校太傅。判官張易を不法な誣告で殺害、観察推官張制も害した。漢末貝州に移鎮、検校太尉、周建国後は同平章事。三年六月、河陽に移鎮したが永寿節の入覲中に病で京師で卒す。侍中を追贈。子の永昌は皇朝で内諸司使を歴任した。

馮暉

  • 魏州の人。効節軍士として拳勇騎射に長け、楊師厚の隊長を経て莊宗の親軍に列するが、待遇の薄さから梁軍に降り、後に赦されて明宗の潞州討伐・魏王の蜀討伐に従軍、夔州刺史。荊州高季興の叛乱を撃退。長興中、興州刺史として蜀の侵攻に寡兵で抗しきれず鳳翔へ退き、失策を咎められる。晋高祖の蜀討伐では険阻な道を迂回し剣門を奇襲、澶州刺史を経て、範延光の鄴叛乱では官軍に敗れ鄴に籠城、後に降伏して滑州節度使。
  • 鄴平定後、靈武に移鎮。前任の張希崇の死後、辺境が乱れていたのを、暉は大宴を開き夷狄を厚遇し、党項の拓拔彦昭を厚く遇して交易を活発化させるなど懐柔策で治め、一年で馬五千匹を得るほど蕃部の心を得た(ただしその成功を朝廷は警戒したという)。西戎討伐に際し薬元福の献策で敵を撃破した逸話も伝わる。晋の開運初、桑維翰の北伐計画から外されたことに不満を訴え、朝廷は「朔方の要地には汝の威名が要る」と慰留の詔を返した。後に邠州、陝州に移鎮を望み陝州で馬・駱駝を献上、侍衛歩軍都指揮使兼河陽領を経て、再び朔方節度使に戻り検校太師。漢建国後は同平章事、隠帝代に侍中を兼ね、周建国後は中書令・陳留王。広順三年夏、病により卒す。享年六十。衛王を追贈。子の繼業が朔方衛内都虞候として後を継ぎ、皇朝の乾徳中に内地へ移り、同州節度使となった。

高允權

  • 延州の人。祖父高懐遠は本郡の牙将、その子萬興・萬金はともに梁唐の間に延州節度使を歴任。允權は萬金の子で、武芸に疎く義川主簿・膚施県令などの文官を経て延州に戻った。晋の開運末、延州節度使周密の下で内乱が起き、允權が乱軍に推されて留後を称し西城に拠り、密は東城で対峙、後に密が城を棄てて去ったことで允權が延州を制した。漢祖に帰順し検校太傅、正式に節旄を授かる。漢入汴後もしばしば貢納し、隠帝代に検校太尉兼同平章事。
  • 夏州の李彛興との不和から李守貞の叛乱に絡んで緊張が高まったが朝廷の和解で収まった。妻の祖父にあたる太子太師致仕劉景巌は延州の民に慕われていたが、允權はその勢力を忌み、その年冬、景巌一族を皆殺しにし財産を没収した。関西平定後の恩赦の折に検校太師、太祖即位後は侍中を兼ねた。広順三年春卒す。子の紹基は喪を秘して軍政を専断し、観察判官李彬の異議を排除するため殺害、事実を偽って報告したが、太祖に発覚し関係者は釈放、後に喪を発表し輟朝二日となった。

折從阮(字可久、本名從遠)

  • 代々雲中の家柄。父折嗣倫は麟州刺史。性温厚で若くして父の喪に孝を尽くした。荘宗の頃、代北諸郡がしばしば辺患となる中、河東牙将・府州副使から府州刺史。長興初め入朝し明宗に辺事に通じるとして評価された。晋高祖の挙兵時、契丹への謝礼として雲中・河西の地が割譲されると從阮の郡もその北に属したが、契丹が河西の民を遼東へ強制移住させようとした際には険を頼んで拒んだ。晋少帝代には契丹討伐の詔を受け出兵、十余砦を攻略。
  • 開運初め検校太保・府州団練使、朔州刺史・安北都護・振武軍節度使を兼ねる。漢祖の挙兵に呼応し府州を永安軍に昇格させ節度使、功臣号を賜う。乾祐初め検校太師、翌年一族で入覲し子の徳扆に府州団練使を継がせ、自身は武勝軍節度使。周建国後は同平章事、滑州・陝州に移鎮、静難軍節度使。世宗代に侍中を兼ね、老齢を理由に代任を願い出て許された。顕徳二年冬、入朝の途上、西京で病により卒す。享年六十四。中書令を追贈。

王饒(字受益)

  • 慶州華地の人。父王柔は太尉を追贈。沈毅で才幹があり、晋高祖代に控鶴軍使から奉国軍校、杜重威の常山平定に従軍し検校司空。安従進の襄陽叛乱では高行周の下で行営歩軍都指揮使として功を立て深州刺史。晋末、契丹統治下の常山郡で李筠・白再栄らと契丹勢力を駆逐、漢祖に評価され鄜州観察留後、後に鎮国軍節度使、検校太傅。周建国後は同平章事、顕徳初め検校太尉・貝州節度使。世宗代に侍中を兼ね彰徳軍節度使を経て入朝。顕徳四年冬、京東の私第で病により卒す。享年五十九。巣国公に追封。寛厚で穏やかな人柄で、赴任先の民に慕われ、士君子からも評価が高かった。

孫方諫(本名方簡)

  • 鄭州清苑県の人。広順初め廟諱を避けて改名。定州の西北二百里にある狼山には避難用の砦があり、そこに尼僧深意(俗姓孫氏)を中心とする信仰集団があった。方諫はその一族で、教団を率いて砦主となり、開運初め定州節度使に辺界遊奕使として推挙された(宋史孫行友伝によれば、契丹の来襲を繰り返し撃退し勢力を拡大したという)。
  • 求める処遇が得られず契丹に通じ、契丹の中原制圧時には方諫を定州節度使に任じたが、後に契丹の将耶律忠に代えられ雲州節度使に転じられたことに憤り、狼山に帰って契丹の命令を拒んだ。漢初、契丹が定州の城郭を破壊し民を北へ追いやると、方諫は狼山から部衆を率いて定州を回復、漢祖に帰順し節旄を授かり、太祖代に侍中を兼ね、後に華州節度使。弟の孫行友が定州留後を継いだ(宋史によれば、行友は契丹の内情を探り兵三千で幽州平定を献策したことによる人事という)。もう一人の弟孫議は徳州刺史となるなど、一族が内廷の要職を占めた。
  • 世宗代、史彦超が定州の任を継ぎ、方諫は世宗の南巡に従うが病を得て洛陽で療養、同州節度使兼中書令に任じられるも赴任前に洛陽で卒す。享年六十二。輟朝二日。太師を追贈。弟の孫行友が定州節度使を継いだが、皇朝乾徳中、その妖言惑衆(狼山の仏教信仰組織)を理由に狼山の仏寺は破却され、尼僧の遺骨は都で焼かれ、行友は諸衛大将軍に落とされて教団は終息した。『続通鑑長編』によれば、建隆二年、行友は自らの立場に不安を覚え謀反を企てたが露見し、官爵を剥奪され自宅禁錮となったという顛末が伝わる。

史論

  • 史臣は評す。かつて晋の末、敵騎が中原を席巻し主がなかった。漢祖は救済を志しながらも南進は果たせなかったが、趙暉が真っ先に陝郊で挙兵し義に呼応したことが漢の興起を助けた。藩鎮に任じたのも当然のことであった。王守恩は時流に乗って恭順を示し見るべき点もあったが、利を好み民を害したのは何ら貴ぶに足らない。高允權・孫方諫は乱世に乗じて藩鎮の権を窃取したにすぎず、雲台に画かれた功臣たちとは比べるべくもない。