太祖聖穆皇后柴氏
- 邢州龍岡の人。家は豪族。太祖(郭威)が微賎の時、洛陽で后の賢淑を聞いて娶った。后はもと唐荘宗の嬪御であったが、荘宗没後に明宗が実家へ帰す途中、逆旅で貧しい身なりの郭雀児(のちの太祖)を見て「貴人である」と見抜き、父母の反対を押し切って自ら嫁いだという逸話が伝わる。
- 太祖は壮年、飲酒・博打を好み任侠肌で細行に拘らなかったが、后はその大過を正し内助の功があった。世宗(后の甥)を幼くして養い実子のように育てた。太祖の夢に五色の小蛇が鼻間に入るのを后が見て、必ず貴人になると悟り一層敬い仕えたが、その富貴を見る前に世を去った。太祖即位後、皇后に追贈し諡を「聖穆」とし、顕徳初め、太祖の神主が入廟する際に祔せられた。
淑妃楊氏
- 鎮州真定の人。父楊弘裕は真定の少尹。河朔三鎮全盛の頃、良家の女として選ばれ趙王王鎔に仕えたが、張文礼の乱で流離。唐明宗がその境遇を憐れみ、後に一度郷里の石光輔へ嫁いだが早くに寡婦となる。太祖が漢に仕えていた頃、聖穆皇后が没したのを機にその賢を聞き礼を尽くして娶った。族を睦め孤児を撫し、内助に力あった。晋の天福末年、太原で卒し晋郊に葬られたが、広順元年九月、淑妃に追册された。太祖の一后三妃はいずれも嵩陵への合祀が議されたが、楊淑妃の墓は当時賊境にあり未定であったため、世宗は嵩陵の側に予め虚しい墓を営ませ、賊平定後に改葬を議すこととした。顕徳元年夏、世宗が河東を征したことで素志が果たされた。妃の兄楊廷璋は太祖に早くから仕え、内職を歴任し晋州節度使、後に邢州・鄜州節度使を経て卒した。
貴妃張氏
- 恒州真定の人。趙王王鎔に仕えていたが、鎮州の乱後、幽州の将武従諌の子に嫁ぐことが決まっていた武氏の子が早世し、太祖が賢を聞いて継室に迎えた。太祖の栄進とともに呉国夫人に封じられたが、漢の隠帝末年の宮廷の変で、太祖が鄴都にあった際に讒言を受け、皇族とともに東京の旧邸で同日に殺害された。太祖即位後、貴妃に追册され、哀を発した。世宗はこの旧宅(妃が禍にあった地)を寺院に改め「皇建院」と名付けた。
徳妃董氏
- 常山霊寿の人。七歳の時、鎮州の乱で親族と離散し、潞州の牙将に匿われて育てられ、六、七年後に実兄董瑀と再会。里人劉進超に嫁いだが、進超は契丹の晋侵攻の際に陥没して死す。妃は洛陽で寡居していたが、太祖の楊淑妃がその賢徳を語っていたことから、太祖が漢に仕えていた頃に礼を尽くして娶った。張貴妃が禍にあった後、中宮が空位となり徳妃に册立された。太祖が兗海に親征する際、妃は「暑気の折、供の内人を多く従えるべきではない」と諌め、太祖は手勅で節度使鄭仁誨に「無理な要求があっても取り合うな」と命じたという逸話が伝わる。広順三年夏に病を得、太祖の帰京後も快復せず、大内で卒す。享年三十九。輟朝三日。
世宗貞恵皇后劉氏
- 将家の女。幼くして世宗に嫁ぐ。漢の乾祐年間、世宗が西班にあった時、后は彭城県君に封ぜられた。世宗が太祖に従い鄴にあった際、后は邸第に留まっていたが、漢末の李業らの乱で貴妃張氏や皇族とともに同日に禍にあった。建国後、彭城郡夫人に追封され、顕徳四年夏四月、皇后に追册され諡「貞恵」、陵「恵陵」とされた。
宣懿皇后符氏
- 祖父符存審は後唐武皇・荘宗に仕え将相を極め秦王に追封。父符彦卿は天雄軍節度使・魏王。后は初め李守貞の子崇訓に嫁いだが、漢の乾祐年間、李守貞が河中で叛き、城が陥落した際、崇訓は弟妹を自刃させ、后にも及ぼうとしたが后は物陰に隠れて逃れた。太祖が河中に入り后を見つけて父の元へ送り届けたことから、后は太祖への大恩を感じ養父と仰いだ。世宗が澶淵にあった頃、太祖が世宗に娶らせた。性は和恵で、世宗が下に対して激怒することがあれば必ず穏やかに解きほぐし、深く重んじられた。世宗即位後、皇后に册立。世宗が南征しようとした際には強く諫めたが聞かれず、淮甸に長く駐屯した暑熱の中、憂いから病を得、顕徳二年七月二十一日、滋徳殿で崩ず。享年二十六。世宗は深く悼み、諡「宣懿」、新鄭に葬り陵を「懿陵」とした。世宗にはもう一人の符后(宣懿の妹)がおり、後に宋に入り符太后と称されたが、本書に伝が立てられていないのは欠落であろう。
史論
- 史臣は評す。周室の后妃は六人おり、そのうち追册されたのは四人であるため、内廷の様子は詳らかに伝わりにくい。しかし董妃・符后の懿しい徳行は史筆に恥じるものではない。なお、薛史には外戚伝がないが、『五代会要』によれば、太祖の第三女楽安公主(漢室に害された。広順元年二月に進封、顕徳四年四月に莒国長公主に追封)、第四女寿安公主(張永徳に降嫁。広順元年四月追封、顕徳元年に晋国長公主に追封)、第五女永寧公主(広順元年九月追封、顕徳四年四月に梁国長公主に追封)の記事があるという。