舊五代史卷一百十九 周書第十 世宗紀六
後周の世宗(柴栄)の顯德六年(959年)の記事。年頭の朝賀・律制整備・治水事業に始まり、契丹討伐の北征で瓦橋関・益津関を無血で得て関南の地を回復したが、発病して幽州攻めを断念、帰京後まもなく万歳殿で崩じた(享年三十九)。史臣は英略の一代の英主としつつ、刑罰の峻厳さと天寿を全うできなかった点を惜しんでいる。
年表(10件)
- 顯德六年夏四月959年諸軍を率いて北征し滄州から乾寧軍を経て益津関に至る
- 顯德六年五月959年瓦橋関に至り偽守将姚内斌が投降、関南三州十七県を無血で得る
- 顯德六年959年幽州攻めを諸将に諮ったが不可とされ、その夜発病して取り止める
- 顯德六年959年瓦橋関を雄州、益津関を霸州とし、それぞれ都部署を置いて守らせる
- 顯德六年六月959年魏王符彦卿の女を皇后に立て、王長子宗訓を梁王に封ずる
- 顯德六年六月959年今上(趙匡胤)を殿前都点検兼忠武軍節度使とする
- 顯德六年959年癸巳、万歳殿で崩ず、享年三十九
- 顯德六年959年翌日、遺制により梁王が柩前で即位
- 顯德六年八月959年「睿武孝文皇帝」の諡、廟号「世宗」が奉られる
- 顯德六年十一月壬寅朔959年慶陵に葬られる
顯德六年(959年)
- 春正月丁未朔、帝は崇元殿で朝賀を受ける。高麗国王王昭が方物を貢ぐ。申文炳を左散騎常侍とする。女真国が貢献。青州節度使陳王安審琦が部曲に殺害される。諸将に内鞠場で射を賜う。迎春苑に幸す。及第進士の聞喜宴を宣徽院に指揮させる詔。及第者の姓名・試文を奏聞のうえ放榜する詔。
- この月、枢密使王朴が雅楽十二律・旋相為宮の法を詳定し律準を造り、百官に議させたが皆可とした(詳細は楽志に記す)。二月、徐宿宋単等州の丁夫数万を発して汴河を浚渫。滑亳二州の丁夫を発して五丈河を東へ通し定陶で済水に入れ、青鄆の水運路を通す。蔡河も浚渫して陳頴の水運路を通す。
- 諸道の攝官に半俸を支給する詔。陶穀を尚書吏部侍郎とする。湖州を昇格させ宣徳軍とし、銭偡を本州節度使とする(両浙銭俶の請による)。迎春苑に幸す。王徳成が挙官不当の罪で降格。諸道州府へ糧草を賜う詔。三月、枢密使王朴が卒す。
- 未収復の北境のため今月中の滄州行幸を詔す。呉延祚を権東京留守兼判開封府事、昝居潤を副使、張美を大内都部署とし、諸将に馬歩諸軍・戦棹を率いて滄州へ赴かせる。濠州鍾離県で飢民五百九十四人が死す。諸州の銅魚(節度使の割符)を廃す詔。車駕が京師を発す。
- 夏四月、車駕が滄州に至る。薛居正を刑部侍郎とする。帝は諸軍を率いて北征。乾寧軍に至り偽寧州刺史王洪が投降。竜舟で舟師を率いて北進、益津関に至る(契丹守将終廷暉が投降)。西の水路が狭くなり舟を捨て陸行。帝は先行し、大軍未集の中、今上が材官騎士を率いて乗輿を護衛した。
- 今上が先に瓦橋関に至り偽守将姚内斌が投降(姚内斌は平州の人で汝州刺史に任じられたという)。鄚州刺史劉楚信が州を挙げて投降。五月、瓦橋関に駐蹕。李重進以下諸将が行在に集結。瀛州刺史高彦暉も帰順。関南は州三・県十七・戸一万八千三百六十を得、王師は数万にして一矢も失わず辺城が風になびいて下ったという。
- 帝は諸将に幽州攻めを諮ったが、皆不可と答え、その夜帝が発病したため取り止めた。定州節度使孫行友が易州を攻略し偽命刺史李在欽を捕えて処刑。瓦橋関を雄州とし(陳思讓が都部署として守った)、益津関を霸州とする(韓令坤が都部署として守った)。先鋒都指揮使張藏英が瓦橋関北で契丹数百騎を破り固安県を攻略。
- 浜棣二州の丁夫を発して霸州を築く詔。李重進に兵を率い土門から河東境へ入らせる。車駕は雄州を発し還京。泉州節度使劉従効が別駕王禹錫を遣わし行在に貢を奉ずる。帝は泉州が既に江南李景に臣従していることから所属を奪わず、褒める詔書のみを与えた。太常卿致仕司徒詡が卒す。李重進が百井で河東賊軍を破り斬首二千級。
- 帝は雄州から還るとき発病し、澶州節度使張永徳の勧めで急ぎ帰京を決めたという逸話が伝わる。六月、潞州李筠が遼州を攻略し偽刺史張丕旦を捕える。皇女の薨去で輟朝三日。鳳翔節度使李暉が卒す。鄭州で河水が原武で決壊し、呉延祚が丁夫二万でこれを塞ぐ。晋州節度使楊廷璋が河東境に入り堡砦十三所を招降。
- 魏王符彦卿の女を皇后に立てる。王長子宗訓を梁王、次子宗讓を燕国公に封ずる。江南・両浙の進奉使に銭絹銀器を賜う。李洪義を永興軍節度使とする等の人事。潞州が捕えた張丕旦ら二百四十五人を釈放。范質・王溥を参知枢密院事とし、魏仁溥を中書侍郎平章事兼枢密使、呉延祚を枢密使、韓通を侍衛親軍副都指揮使、張永徳を検校太尉同平章事とする。
- 今上を殿前都点検兼忠武軍節度使とする。北征の際、地中から「点検作」と刻まれた木片が出土し、当時は誰も意味を解さなかったが、後に今上が点検の任を受けたことでこの木片が符讖であったと語られたという。昝居潤を宣徽南院使、張美を宣徽北院使判三司とする。
- 癸巳、帝が万歳殿で崩ず。享年三十九。翌日、遺制により梁王が柩前で即位。群臣が奉じて即位を発表し、内外に喪を発する。その年八月、竇儼が「睿武孝文皇帝」の諡を上げ、廟号を世宗とする。十一月壬寅朔、慶陵に葬る。魏仁浦が諡冊文を、王溥(原文「玉浦」)が哀冊文を撰した。
史論
- 史臣は評す。世宗は微賎の時から才を韜晦し、天命を得て位を嗣ぐと日ならずして高平の戦いに勝ち、翌年には秦鳳の地を復した。江北・燕南の攻略も掌を返すが如く、神武英略の一代の英主であった。政事に励み、摘発は理に適い、臣下の過ちは面と向かって指摘し、功には厚く賞した。太祖(郭威)が二王(隠帝を害した者たち)の悪を許したことで君臣の義を保てなかった教訓を常に語っていたという。文武ともにその明断と恩情に服し、崩御の日には遠近が哀慕した。ただ性格は過度に厳察で刑罰も峻厳に過ぎたきらいがあり、事後にしばしば自ら悔いたが、晩年は次第に寛典を用い、頻繁な用兵と民の労苦を憫れむ意も見えた。しかし天寿を全うできず、美志半ばで終わったのは悲しむべきことである。