舊五代史卷九十一 晉書第十七 列傳六 房知温・王建立・康福・安彦威・李周・張從訓・李繼忠・李頃・周光輔・符彦饒・羅周敬・鄭琮
房知温――若年から武勇で知られる
- 房知温、字は伯玉。兖州瑕丘の人。若くして勇力があり、本軍に籍を置き赤甲都官の健児となった。梁の将葛從周に見出されて麾下に入り、牛存節と親しんだ。劉鄩が兖州を攻めた際、夜に城を抜け出し、翌夜には良馬を得て城に戻り、牛存節に信頼されて禆将に抜擢された。
- 劉知俊に従い克和軍使となり、知俊が岐に奔ると魏州に転じ、楊師厚に馬闘軍校とされ、莊宗入魏の際に紹英の姓名を賜り天雄軍馬歩都指揮使に任じられた。莊宗の平梁後、曹・貝二州刺史を歴任し、瓦橋関の守備にあたった。
- 明宗の擁立に従い滑州両使留後となり、天成元年に兖州節度使、明宗即位後は北面招討として盧台軍に屯し、盧文進の帰順に功があり同平章事を加えられた。
- 招討副使として代わった烏震を怨み、牙兵に命じて席上で殺害させたが、朝廷は姑息して処罰せず、知温を鄴に留めて反側の軍を鎮めさせた。のち徐州節度使、荆南招討使などを歴任し、天福元年冬に鎮所で卒した。太尉を贈られた。
- 性格は粗野で礼を顧みず、王人を迎えても戎服を改めず、寡言で左右の者を辱めることが多かったが、過ちを悔いても恥じる様子はなかった。かつて唐末帝と杯盤の間で白刃を交える険悪な仲になったが、末帝即位後に王爵を授けられて安堵し、洛陽に赴いて旧怨を謝した。
- 帰郡後は蓄財に励み邸宅を築いたが、政務には熱心でなかった。幕客顔衎の諫言も用いず、髙祖が入洛を企てた際には貢献を渋って兵威を示していたが、衎の説得で表を奉り帰順した。ほどなく病没し、部曲・将吏はその財を分けた。衎は子の彦儒に銭十万貫を進めさせ、彦儒は沂州刺史に任じられた。
王建立――明宗を支えた宿将
- 王建立、遼州榆社の人。曽祖秋、祖嘉、父弁はいずれも太保を贈られた。若くして猛々しく、明宗が代州刺史の頃に虞候将に抜擢された。
- 莊宗が晋陽を鎮めた際、諸陵を祭る使いが民を騒がせたため建立が捕らえて笞打ち、莊宗の怒りを買ったが明宗に庇われて免れ、これにより名を知られた。
- 明宗が魏軍に迫られた際、常山にいた皇后曹氏・淑妃王氏を守るため監護と部下兵を殺害し、明宗の家属を保全した。明宗即位後は鎮州節度副使、留後、節度使、同平章事を歴任。
- 王都が中山に拠って叛くと、建立は密かに通謀していたが安重誨に発覚。明宗は建立を庇い京師に召したが、重誨との不和から冷遇され、天成四年に青州節度使、五年に潞州へ移されると辞して致仕した。
- 清泰初、末帝により天平軍節度使に復帰。捕盗の経験を活かし厳酷な統治を行い、当時「王垜」と呼ばれた(人を殺して屍を積む意)。末帝失脚後、私怨から副使李彦贇らを殺害し、人々に卑しまれた。
- 髙祖即位後、再び青州節度使、のち検校太尉・中書令。晩年は仏教に帰依し、飯僧・営寺・戒殺・慎獄に努めた。天福二年に臨淄王、翌年東平王に封じられ、五年に入朝した際は肩輿での昇殿を許され、人々に栄誉とされた。
- のち潞州節度使に転じ、遼・沁二州を上党の属郡とされ検校太師・韓王に進封されたが、赴任後まもなく病没。享年七十。子の守恩は『周書』に伝がある。
康福――蕃語に通じ辺境で功を立てる
- 康福、蔚州の人。代々本州の軍校を務めた家系。武皇に仕え承天軍都監となり、莊宗に体貌を見込まれて馬坊使に任じられた。明宗即位後は飛龍使、磁州刺史などを経て荆南討伐に従軍。
- 蕃語に通じ、明宗の諮問に応じたことから枢密使安重誨に忌まれ、圧迫を受けつつも朔方河西節度使に任じられ、青岡峡で吐蕃の大軍を奇襲して大破する功を挙げ、西戎を悉く懐柔した。
- 安重誨の讒言により明宗に疑われかけたが忠誠を弁明し、彰義軍・邠州・秦州・河中の節度使を歴任。天福七年秋、京師で卒した。享年五十八、太師を贈られ武安と諡された。
- 士大夫との交流に不慣れで、天水にいた際「錦衾爛たり」と評された話や、駱評事の門地を軽んじた逸話が伝わる。子は延沼・延澤・延壽。
安彦威――信義を重んじた辺境の将
- 安彦威、字は国俊。代州崞県の人。唐明宗の麾下に仕え、善射で兵法に通じ愛された。明宗即位後は北京留守、同平章事を歴任。契丹への対応で「信を以て報いる」との明宗の言に応じ、信頼を得た。
- 宋州、西京留守を歴任し、飢饉の際は倉廩を開いて賑済し、民の流散を防いだ。母の喪に哀毀を尽くし、少帝と契丹の争いでは家財を悉く軍費に充てた。開運中に卒し、太師を贈られた。太妃と同宗であったが自ら誇ることなく、死後に初めて人々がその国戚たることを知った。
李周――苦難の中で頭角を現す
- 李周、字は通理。邢州内丘の人。若くして内丘の捕賊将となり、盗賊に襲われた士人盧岳を救い、岳の予言により武皇に仕えた。萬勝黄頭軍使、匡霸都指揮使などを歴任し、莊宗の平梁・柏郷の戦いで功を立てた。
- 楊劉城守備の際、梁将王彦章の大軍に囲まれるも死守し、莊宗は「李周が内にあれば憂いなし」と評した。同光中に相・蔡二州刺史、蜀平定後に西川節度副使、遂州留後などを歴任。邠州節度使として竇廷琬の反乱を平定。
- 徐・安・雍・汴四鎮を歴任し善政を敷き、開封尹となった。病を得て上章し致仕を請い、まもなく卒した。享年七十四、太師を贈られ明宗の徽陵の北に陪葬された。
張從訓――帝室と姻戚となる
- 張從訓、字は徳恭。もと姑臧の人で、迴鶻の別派として沙陀に従い雲中に居住、のち武皇に従い太原に家した。父の存信は河東蕃漢馬歩軍都指揮使で武皇より姓名を賜った。
- 儒書を読み騎射に精通し、莊宗との徳勝口の戦いで先鋒遊奕使となり検校司空を賜った。明宗即位後は石州刺史、憲・徳二州刺史を歴任。髙祖の太原鎮守時に少帝が從訓の長女を妃に迎えた。
- 清泰初、唐末帝の詔で赴援するも団柏谷で敗れ民間に潜伏、髙祖入洛後に捜索されて出仕、絳州刺史などを歴任し天福中に卒した。享年五十二。少帝は后父の故を以て太尉を追贈した。弟從恩は皇朝で右金吾衛上将軍。
李繼忠――嗣昭の子として軍務に従う
- 李繼忠、字は化遠。昭義軍節度使兼中書令嗣昭の第二子。若くして騎射に優れ父の征討に従い功を立てた。莊宗より感義馬軍指揮使を授かり、潞府司馬、安義都巡検使などを歴任。
- 髙祖即位後、沂州・棣州・単州の刺史を歴任し輸忠奉国功臣を加えられ、右神武統軍、隰州、澤州などを歴任。開運三年秋、東京で病没した。享年五十一。
- 母楊氏は蓄財に長け、髙祖挙兵時に太原の壁を破って旧蓄えを取り出させ、金銀紈素を献じた。繼忠が旧疾を抱えつつ大郡を連ねて任じられたのは楊氏の力によるものであった。
李頃――莊宗と旧交を結んだ人質の子
- 李頃、陳州項城の人。河陽節度使兼侍中李罕之の子。罕之が澤州に赴くにあたり頃を人質として留め置き、莊宗と親しく交わった。罕之が梁に降ると莊宗は頃を殺そうとしたが密かに逃れ河南に奔り、梁祖に厚遇された。
- 梁末期には禁兵を統率し、友珪・末帝の政変を経て莊宗入汴後は衞州刺史などを歴任。髙祖即位後は開国伯に進封、左領軍衛上将軍を経て病没した。享年七十、太師を贈られた。子の産弼は太原で頃が梁に逃げ帰ったことに武皇が怒り宦官とされたが、のち内侍省に籍を置いて卒した。
周光輔――幽州節度使徳威の長子
- 周光輔、太原の人。後唐の蕃漢馬歩総管幽州節度使周徳威の長子。十歳で幽州中軍兵馬使となり、成長後は父の牙軍を委ねられた。父の没後、嵐州刺史を授かり莊宗の平梁に従い功を立てた。
- 汝州防禦使、蔡州刺史を歴任し、享年三十五で卒し太保を贈られた。弟に光貞・光遜・光賛らがおり、いずれも州刺史等を務めた。
符彦饒――内紛により誅殺される
- 符彦饒、莊宗朝の蕃漢総管符存審の第二子。騎射に優れ、天祐十五年の胡柳陂の戦いで兄弟ともに功を立てた。同光中に曹州刺史、明宗即位後に沂州刺史を歴任。
- 天成中、宣武軍の乱を鎮めた功で評価される。天福初、滑州節度使となり、天福二年、白奉進と牙署で口論となり、部下に奉進を殺させた。しかし歩軍都校馬萬・盧順密らが彦饒を捕らえ、京師へ護送する途中で殺害された。
羅周敬――鄴王紹威の三子
- 羅周敬、字は尚素。鄴王羅紹威の第三子。八歳で詩作の才を示し、兄周翰の没後、十歳で節度使を継いだ。許州節度使、駙馬都尉として梁の普安公主に尚し、莊宗即位後は左右金吾大将軍などを歴任。
- 明宗が羅氏旧宅を巡る夢を見て周敬を召したという逸話が伝わる。天福二年に卒した。享年三十二、太傅を贈られた。
鄭琮――軍功により知られた小校
- 鄭琮、太原の人。武皇に仕え五院軍小校となり、莊宗の馬歩都虞候として戎事に精通していた。同光末、明宗の魏州征討に従い、四方への檄伝達で功を立てた。
- 明宗即位後、防州刺史、左羽林統軍、武州刺史を歴任。俸禄薄く不遇のうちに天福中、官にて病没し、司徒を贈られた。