舊五代史卷九十 晉書第十六 列傳五・趙在禮・馬全節・張筠(籛)・華温琪・安崇阮・楊彦詢・李承約・陸思鐸・安元信・張朗・李徳珫・田武・李承福・相里金
趙在礼(涿州の人)は同光末の鄴都兵変を機に頭角を現し、後唐・後晋を通じて十余鎮の節度使を歴任、蓄財に長けたが契丹の侵入後、辱めを受けて自殺した(?–947年)。馬全節(魏郡元城の人)は金州防禦使として蜀軍を撃退し、安重栄の反乱を宗城で大破するなど後晋の危機を支えた武将で、順国軍節度使に任じられた直後に没した。楊彦詢(河中宝鼎の人)は忠謹をもって知られ、高祖の太原鎮守時代から信任を受け、鄧州・華州など各鎮の節度使を歴任した。
年表(22件)
- 同光四年二月六日趙在礼、皇甫暉の乱に従い衆を率いて鄴に入り自ら留後を称する
- 天成元年十二月趙在礼、滄州節度使を授けられる
- 清泰三年趙在礼、宋州節度使を授けられ検校太尉同平章事を加えられる
- 天福六年七月趙在礼、許州節度使を授けられる
- 天福八年四月趙在礼、徐州に移鎮し楚国公に進封される
- 開運元年八月朔趙在礼、北面行営馬歩都虞候に任じられる
- 開運三年正月趙在礼、晋昌軍節度使を授けられる
- 開運三年五月趙在礼、秦国公に進封される
- 丁未の歳正月二十五日夜趙在礼、契丹の凌辱に堪えかね自ら絞めて卒す(享年66)
- 天成三年馬全節、竭忠建策興復功臣を賜り郢州刺史に移る
- 清泰の初め馬全節、金州防禦使として蜀軍の攻囲を家財を投じて撃退する
- 天福五年馬全節、検校太傅を授けられ安州に移鎮し李金全の叛を討ち平らげる
- 天福六年秋馬全節、邢州に移鎮し同中書門下平章事を加えられる
- 天福六年馬全節、安重栄の叛に際し鎮州行営副招討使として宗城でこれを大破する
- 開運元年秋馬全節、鄴都留守検校太師兼侍中に任じられ天雄軍北面行営副招討使を加えられ陽城の戦いに功あり
- 開運二年馬全節、順国軍節度使を授けられるが赴任前に卒す(享年55)
- 同光元年冬楊彦詢、大梁平定に従い引進副使に昇る
- 天福二年秋楊彦詢、出て鄧州節度使となる
- 天福四年楊彦詢、契丹に使いする
- 天福六年春楊彦詢、邢州節度使検校太傅を授けられる
- 天福七年春楊彦詢、華州節度使検校太尉を授けられる
- 開運の初め楊彦詢、風痺により右金吾衛上将軍を授けられ、まもなく卒す(享年74)
趙在禮――出自と鄴都の乱
- 趙在礼、字は幹臣、涿州の人である。曽祖の景裕・祖の士廉はみな仕えず、父の元徳は盧台軍使であった。在礼は初め燕帥劉仁恭に事え小校となった。唐の光化末、仁恭がその子守文を遣わし浮陽節度使盧彦威を逐ってその城を拠らせると、在礼を軍使に昇らせ守文を佐けさせた。守文が死に事えると、その子延祚は守光に害され、守光の子継威もまた部将の張万進に殺された。在礼はついに万進に事え、万進が梁に奔ると在礼は滄州留後の毛璋とともに太原に帰した。同光末、効節指揮使となり貝州に屯していたところ、たまたま軍士の皇甫暉らが乱をなし指揮使の楊晸を推して帥としたが、晸は従わず衆に害され、晸の首を携えて在礼を脅した。在礼はこれを拒めないことを知りついにこれに従い、四年二月六日、衆を引いて鄴に入り在礼は自ら留後を称した。唐荘宗は明宗を遣わし師を率いてこれを討たせたが、たまたま城下で軍が乱れ、在礼は明宗を迎え城に入れた、事は『唐書』に具にある。天成元年五月、滑州節度使検校太保を授ける制が下ったが、在礼は密かに軍情が未だ除移を欲していないと奏しさらに少頃を伺うことを乞い、まもなく天雄軍兵馬留後鄴都留守興唐尹に改まった。まもなく在礼の将の皇甫暉・趙進らが相次いで郡を除され任に赴いた。在礼はすぐに上表し旌節を移すことを乞い、十二月、滄州節度使を授けられ、二年七月、兖州に移鎮した。長興元年、入って左驍衛上将軍となり、まもなく同州節度使に改まった。たまたま高祖が明宗の命を受け大軍を統べ蜀を伐つと、在礼を西川行営歩軍都指揮使に充て剣州を収めて還った。四年、襄州に移鎮し、清泰三年、宋州節度使を授けられ検校太尉同平章事を加えられた。高祖の登極後、鄆州に移鎮し検校太師兼侍中を加え衛国公に封じられた。天福六年七月、許州節度使を授けられ、八年四月、徐州に移鎮し楚国公に進封された。開運元年、契丹が患となり少帝が北征を議したとき、八月朔、十五将を命じる制を下し、在礼を北面行営馬歩都虞候とした。十一月、行営副都統に改まり都虞候は旧のとおりとした。詔を受け澶州に屯し、再び兖州節度使を除され前のごとく副都統を充てた。三年正月、晋昌軍節度使を授けられた。時に少帝がその子の延煦のために在礼の女を娶らせ妻とし、礼を会する日その儀は甚だ盛んで京師はこれを栄観とした。五月、秦国公に進封された。食邑を累加され一万三千戸実封一千五百戸に至った。在礼は十余鎮を歴任し生殖を善くし貨を積み財は巨万に及んだ、両京および赴任した藩鎮にはみな邸店が羅列した。宋州に在任の日、天下に飛蝗が害をなしたとき、在礼は比戸に幡幟を張らせ鼙鼓を鳴らさせると、蝗はみな境を越えて去った、人もまたその智を服した。およそ聚斂して得たものはただ権豪に奉じ釈氏を崇めるのみであった。契丹が汴に入るに及び鎮より闕に赴いたとき、契丹の首領奚王伊喇らが洛下にあり、在礼は塵を望んで敬を致したが、首領らは倨ってその礼を受け凌辱を加え貨財を邀索し、在礼はその情に堪えなかった。行きて鄭州に至り逆旅に泊まったとき、同州の劉継勲が契丹に鎖されたと聞き大いに驚いた。丁未の歳正月二十五日夜、衣帯をもって馬櫪に就き自ら絞めて卒した、年六十六。漢高祖の即位後、中書令を贈った。在礼には凡そ四子があり、内職を歴任したがいずれも早く卒した。孫の延勲は皇朝に仕え岳州・蜀州の二州刺史を歴任した。
馬全節――出自と危機での忠功
- 馬全節、字は大雅、魏郡元城の人である。父の文操は本府の軍校で官は検校尚書左僕射に至り、全節の貴をもって太師を累贈された。全節は少くして軍旅に従い、同光末、捉生指揮使となった。趙在礼が魏州に拠るとき鄴都馬歩軍都指揮使となった。唐明宗の即位後、検校司空を授けられ博州・単州の二州刺史を歴任した。天成三年、竭忠建策興復功臣を賜り郢州刺史に移った。長興の初め、検校司徒を加えられ郡にあって政声があった。まもなく河西節度使を授けられたが、時に明宗が高祖に蜀に代わることを命じ師が岐山に次ったとき、全節は任に赴きこれに及び軍容を具えて轅門に謁したが、高祖は地理が隔越していることをもってすぐに奏して還らせた。沂州刺史に移った。清泰の初め、金州防禦使となったが、たまたま蜀軍がその城を政め州兵はわずかに千人に及ぶのみで、兵馬都監の陳知隠は懼れ他事に託して出城し三百人を領して流れに順って逃げた。賊はすでに盛んで人情は憂沮したが、全節は家財を悉くして士に給し、また奇を出して拒戦し死をもってこれに継いだ、賊は退いた。朝廷はその功を嘉し詔して闕に赴かせ将に賞典を議しようとしたが、時に劉延朗が枢密副使でその厚賄を邀り、全節はこれを賂うすべがなかった。全節に「絳州に人が闕けている、事の行計を請いたい」と語ったが、全節は不楽としその同輩に告げ、これにより衆口は喧然として不当としたと聞いた。皇子重美が河南尹となりこれを聞いて奏した。清泰帝が全節を召し「滄州に帥が乏しい、卿に制置を命じたい」と語り、翌日横海軍両使留後を授けた。高祖の即位後、検校太保を加え正しく旄節を授けられた。天福五年、検校太傅を授けられ安州に移鎮した。時に李金全が州に拠って叛き淮軍を引いて援としたが、これにより全節に命じ兵を将いて討ち平らげさせた。功をもって検校太尉を加え昭義軍節度澤潞遼沁等州観察処置等使に改めた。六年秋、邢州に移鎮し同中書門下平章事を加えられた。安重栄の叛に及び鎮州行営副招討兼排陣使を授けられ、重栄と宗城で戦いこれを大破し、鎮州が平らぐと開府儀同三司を加え義武軍節度易定祁等州観察処置北平軍等使を充てた。八年秋、母の喪に丁い、まもなく起復した。契丹の侵冦に属いてこれに蝗旱が加わり国家に徴発するところがあると、全節は朝に命を受けて夕に行き治生の余財は必ず貢奉に充てた。開運元年秋、鄴都留守検校太師兼侍中広晋尹幽州道行営馬歩軍都虞候を授けられ、まもなく天雄軍北面行営副招討使を加えられた。陽城の戦いに甚だ力があった。全節が初め鄴都を拝したとき、元城は桑梓の邑であることをもって白襴を具えて県庭に詣で県令を謁拝しようとしたが、沈遘は逡巡してこれを避けあえて礼に当たろうとしなかった。全節は「父母の郷ではおのずと敬を致すべきである、遜ってはならない」と言った、州里はこれを栄とした。二年、順国軍節度使を授けられたが、鎮に赴かぬうちに卒した、年五十五、中書令を贈られた。全節は母の王氏に事えること至孝、位が方鎮を歴てもなお温清面告してその敬を尽くした。政事は動もすれば幕客と謀議し、それゆえ敗事が鮮であった。中山を鎮する日、杜重威が恒州のために境内の民家の粟を括ることを奏し、時に軍吏は重威の例を引いて堅くこれを行うことを請うたが、全節は「辺民は蝗旱に遇い家食はまさに困窮している、官司がまたこれを擾せば命に堪えられない、私は廉察をなす者としてどうして忍んで尤を効えようか」と言った、百姓はその徳を称えた。先に全節は上党より歌妓一人を携え中山に館し外舎に置いていたが、ある人が讒言をもってこれに中り、全節はこれを害した。詔があり恒陽を除されるに及び、疾を得てしばしばその妓を見た。厭うと復び来て妓は「私はすでに請を得ました、公とともに行きたく思います」と言い、全節は具に家人に告げ数日にして卒した。子の令威は隰州・陳州・懐州の三州刺史を歴任して卒した。
張筠(弟籛)――出自と栄達
- 張筠、海州の人である。父の伝古は世々郡の大商であった。唐の乾符末、江淮が擾されたことに属きすぐに家を彭門に徙した。時に彭門の連帥時溥が東南面招討使となり数郡の地を有していたので、筠を偏将に擢し軍功を累ね宿州刺史を奏授された。後に溥と梁祖が協せず、梁人が宿州に進攻しこれを下し筠を獲て帰った。梁はまさに覇業を図っており筠の言貌が辨秀であることをもって四鎮客将に命じた。久しくして長直軍使に転じ、梁が唐の命を革めると右龍武統軍に遷り、客省使・宣徽使を歴任し、出て復州・商州の二州刺史となり、また宣徽使となった。梁室が相・衛を割いて昭徳軍としたとき筠を両使留後とした。唐荘宗が魏に入ると筠は城を委ねて南帰し右衛上将軍を授けられた。たまたま雍州の康懐英が病をもって告げると詔して筠を遣わしこれに代わらせたが、至るに及ぶと懐英はすでに卒していた、これにより筠を永平軍節度使大安尹に除した。懐英が長安に在るとき家財は甚だ厚く、筠はことごとくこれを奪い、また大内で地を掘り続けて金玉を獲た。時に涇陽鎮将の侯莫威という者があり、前に温韜とともに唐氏の諸陵を剽し瓌異の物を大貯していた、筠はすぐに威を殺してその家を籍め、ついに巨万を蓄積した。しかし性は施を好み、出て貧民に路で遇うたびに口食衣物を給与し、境内では省賦を除きかつて聚斂したことはなく、ついに百姓を撓さず十年小康し秦の民は恵を懐き「仏子」と呼んだ。同光中、郭崇韜に従い剣南安撫使となり、蜀が平らぐと洛に帰り権河南尹を領し、まもなく興元を鎮した、治める所の地は上下ともにこれに安んじた。筠は時に病であることを疾い軍州の官吏が久しく見えることができなかった。副使の符彦琳らが面して問疾を請うたが筠はまた諾わなかった。彦琳らはすでに死んだかと疑い左右に謀があることを慮り、すぐに権に交わって牌印を求めることを請うたが、筠は左右に命じて彦琳を収め獄に下し叛をもって聞せた。詔して彦琳らを洛に取り釈して問わず、これによって筠に西京留守を授け興元より誘離させたが、長安に至ると守兵は門を閉じて内れず、筠は東し洛で朝すると詔して第に帰らせた。筠は前に京兆尹となり詔を奉じ偽蜀主王衍を殺した際、衍の妓楽・宝貨をことごとく私かに家に蔵していた。罷めて帰った後、第宅は宏敞で花竹は深邃、声楽飲酒その欲するところを恣にし、十年の内、人は地仙と謂った。天福二年、上表し長安に帰ることを乞い、まもなく洛下で張従賓の乱があったが筠は独りその難を免れた、人はみな筠に五福の具美があると謂った。この年、家に卒し太子太師を贈られた。弟に籛がいる。
- 籛、字は慕彭、少くして酒を嗜み節がなく郷里に鄙しまれた。唐の天復中、兄の筠が大梁の四鎮客将となると、籛は海州より兄を省ね、兄は兖州の連帥王瓚に薦め裨校に用いられた。籛は性が桀黠で人に事えることに善く、軍職を累遷した。後唐荘宗が洛に都すると、筠は長安を鎮し衙内指揮使より検校司空右千牛衛将軍同正を授け饒州刺史・西京管内三白渠営田制置使を領させた。同光末、筠が魏王継岌に随い蜀を伐つと、籛が権知西京留守事を奏された。蜀が平らぐと王衍は族を挈げて入朝し秦川駅に至ったが、荘宗は中使の向延嗣を遣わし駅騎に乗じて王衍の族をことごとく戮させ、あるところの奇貨はことごとく延嗣に帰した。まもなく荘宗が内難に遇ったと聞き、継岌の軍が興平に次ったとき、籛はすぐに咸陽の浮橋を断ち、継岌は浮んで渡ろうとして渭南に至り死んだ。一行の金宝妓楽は籛がことごとくこれを獲た。まもなく明宗が人を遣わし延嗣を誅すると延嗣は暗に逃れた。衍の行装はまた籛の有となり、これによって富家となり白金万鎰を積み窟室に蔵した。明宗の即位後、籛は王衍の犀玉帯各二・馬一百五十匹、魏王の打毬馬七十匹を進め、まもなく沂州刺史を除され入って西衛将軍となった。高祖即位の明年、検校太保を加え密州を出典し、まもなくまた環衛に居った。時に湖南の馬希範が籛と旧交があり朝廷に奏して籛を使とすることを請いこれを許された。籛は密かに蜀の奇貨を賫って往って売り、また十余万緡を獲て帰った。銭を出入するに庖者十余人をもって従行させ食はみな水陸の珍鮮、厚く自ら奉養し与に比べる者はなかった。少帝の嗣位後、詔して西蕃へ往かせ、廻るとその馬が劣ることをもって有司に糾され、また当路で足りない者があり、すぐに詔してその旧価を徴させた。籛は上言し故の京の田業を貨ることを請いこれを許されたが、憤惋して病を成し卒した。籛は初め雍州にあったとき、春景舒和のため近郊に出遊し大塚の上に憩うと、忽ち黄雀が銅銭一枚を銜えて前に置いて去った。まもなくまた衙院で昼寝すると二燕が相闘うのを見、闘い終わるとそれぞれ一銭を銜えて落とし籛の首前後に三銭を得た、かつて巾箱に秘し識者は大富の徴と考えた。その後家は厚積するといえど、性は実に鄙吝で、かつて士大夫と遊処したことはなかった。市馬させることに及び利は私門にあり咎を省みず、その直を輸させられると鬱鬱として病を致した、愚の甚だしいことである。
華温琪――出自と非常な生涯
- 華温琪、字は徳潤、宋州下邑の人である。祖の楚は農を業とし、父の敬忠は後に温琪の貴をもって官は検校尚書に至った。温琪は長七尺余。唐の広明中、黄巣に従い紀綱となった。巣が長安を陥すと偽って温琪を供奉都知に署した。巣が敗れ滑台に奔るに及び、その形貌が魁岸であることをもって自ら容れられぬことを懼れ、すぐに白馬河の下流に身を投じたが、まもなく浮かんで浅い所に至り、たまたま行人に救われ免れた。また桑に登り自ら経れたが枝が折れて地に堕ち死ななかった。夜、胙県の界に至ると田父があり温琪が非常の人であることを見て家に匿った。歳余を経て、たまたま梁将の朱友裕が濮州刺史となり勇士を召募したので、温琪は往ってこれに依り、友裕は小校に署した。漸く昇って馬軍都将となり、友裕に従い秦宗権を曹南に撃って功があり検校太子賓客を加えることを奏された。梁祖は開道指揮使に擢し検校工部尚書を加え、出て鄜畤に屯させた。たまたま延州の胡璋が叛命し来て郡境を寇すると、温琪はこれを撃退した。まもなく詔を奉じ長安を営み功をもって絳州刺史に遷った。歳余で棣州を刺め、温琪は州城が毎年河水に壊されるので居人がその苦しみに堪えないことをもって便地に移すことを表請しこれを許された。板築がすでに畢わると紀功碑を立てることを賜り、あわせて検校尚書左僕射を加えられた。続いて斉州に遷り晋州節度使となった。温琪が平陽に在るとき、唐荘宗がかつて兵を引いてこれを攻め月を踰えても下らなかったので、梁人はこれを賞し晋州を定昌軍に昇格させ温琪を節度使とし検校太保を加えた。まもなく温琪は民に臨んで政を失い、かつて人の妻を掠めその夫に訴えられ罷められ、入って金吾大将軍となった。時に梁末帝はまさに諸侯を姑息しその命を重難とし、それゆえ責詞に「もし峻典を行えば予が功勲を念わないと謂われ、もし旧章をすべて廃せば私が黎庶を安んじないと謂われる、人君たる者はまた難くはないか」と言った。温琪は大いに愧色があった。まもなく右監門衛上将軍右龍武統軍に転じた。たまたま河中の朱友謙が叛くと、権に温琪に汝州防禦使河中行営排陣使を授けた。まもなく耀州観察留後となった。荘宗が洛に入ると温琪は来覲し、詔して耀州を順義軍に改め、また温琪をもってこれを鎮させ推忠向義功臣を加賜した。同光末、西蜀がすでに平らぐと温琪に秦州節度使を命じた。明宗の即位後、これによって朝に入り闕に留まることを願い、明宗はこれを嘉して許し左驍衛上将軍を除し月ごとに別に銭粟を賜りその家を豊かにした。歳を踰えて明宗は枢密使安重誨に「温琪は旧人である、一重鎮を選びこれに処すべきだ」と語ったが、重誨は天下に闕がないと奏した。他日また言うと、重誨は素より強愎で「臣がしきりに奏したが替えるべき闕処はなかった、ただ枢密院使のみである」と対えた。明宗は「よかろう」と言い、重誨は答えられなかった。温琪はその事を聞き権臣に怒られることを懼れほとんど疾を成すに至り、これによって数月出なかった。まもなく華州節度使を拝し前のごとく光禄大夫検校太傅とし平原郡開国公に進封され食邑を累加され三千戸に至った。温琪は任に至って自らの俸をもって祠廟廨舎を補葺すること凡そ千余間、また郵亭に客を待つ具を創り華にしてまた固く、往来する者はこれを称えた。清泰中、上表し骸骨を乞い宋城に帰った、制して太子少保致仕とした。天福元年十二月、家に終わった、年七十五、詔して太子太保を贈った。
安崇阮――出自と忠勤
- 安崇阮、字は晋臣、潞州上党の人である。少くして倜儻で詞辯があり騎射に善かった。父の文祐は牙門将となった。唐の光啓中、潞州の軍校劉広が節度使高潯を逐ってその城を拠ると、僖宗は文祐に詔してこれを平らげさせ、劉広を殺すと行在に召され邛州刺史を授けられた。その後、孟方立が邢・洺に拠り兵を率いて上党を攻めると、朝廷は文祐が本より潞の人であることをもって昭義節度使を授け方立を討たせ、蜀より澤州に至り方立と戦い陣に殁した。昭宗朝、宰臣の崔魏公は文祐が王事に殁したことをもって崇阮を朝に薦め、これより諸衛将軍を累任した。梁氏の革命後、崇阮が明弁であることをもって使いを呉越に遣わし、廻るとその獲た橐装をことごとく貢奉に充てた。梁祖はこれを嘉し、それゆえ毎年江浙の間に軺に乗じさせ廻るとまた初めのように貢献した。梁末帝の嗣位後、客省使を授けられ斉州事を知した。時に梁軍は荘宗と河上で対塁しており、冀王友謙が河中をもって叛くと、末帝は段凝に軍を領させ蒲・晋を経略させ、詔して崇阮に監軍させ、また華・雍軍府事を知させた。ある年、青州兵馬留後を授けられ入って諸衛上将軍となった。唐の天成中、黔南節度使検校太保を授けられ、まもなく夔州に移鎮したが、蜀冦の侵逼をもって城を棄て闕に帰り晋州節度使に改まり、また諸衛上将軍となった。高祖登極の二年、詔して梁末帝を葬るとき、崇阮が梁の旧臣であることをもって葬事を主らせた。崇阮は哀を尽くし礼を致してその事を襄け、時人はこれを義とした。五年、老病をもって告を請い右衛上将軍致仕を授けられた。開運元年九月、西京で卒した、太傅を贈られた。
楊彦詢――出自と忠謹
- 楊彦詢、字は成章、河中宝鼎の人である。父の規は太師を累贈された。彦詢は年十三で青帥王師範に事え、書万巻あり彦詢の聡悟をもってこれを掌らせた。長ずるに及びますます親信を加え常に監護郡兵を委ねた。梁将楊師厚が青州を降し下すと、彦詢は師範に随い帰命した。師範が殺されるに及び、楊師厚は鄴を領し麾下に召し置き賓客を掌らせた。唐荘宗が魏に入るとまたこれに事えた。同光元年冬、大梁を平らぐに従い引進副使に昇り、命を西川および淮南に将いて旨に称い内職を累遷した。明宗の時、客省使検校司徒となり両浙に使いし廻ると徳州刺史を授けられた。末帝の即位後、羽林将軍に改まった。時に高祖が太原を鎮し朝廷は疑貳をもって彦詢の沈厚であることを択び北京副留守を充てさせた。清泰末、宋審虔が北京留守となると、高祖は深く不足を懐き情をもって彦詢に告げると、彦詢は高祖が臣節を失うことを恐れすぐに「太原の兵甲・芻粟がどれほどあれば大国に敵し得るか知りません、明公はこれを反覆して慮られますよう請います」と言った、けだしその意を廻らせようとしたのである。高祖は「私は小人が相代わることに忿らない、方寸はすでに決した」と言った。彦詢はそれが諫めることのできないことを知りすぐに止めた。左右がこれを害しようとしたが、高祖は「ただ副使一人だけは私が自らこれを保証しよう、もう言うな」と言った。即位に及び斉州防禦使検校太保を授けられ、旋ちに宣徽使に改まった。高祖に従い洛に入ると左驍衛上将軍を加えられ職を兼ねた。天福二年秋、出て鄧州節度使となり、歳余で入って宣徽使となった。四年、契丹に使いした。六年春、邢州節度使検校太傅を授けられた。時に鎮州の安重栄に不臣の状があり彦詢はその窺伺を憂えた。たまたま車駕が鄴に幸し表して入覲を求めたが、高祖は契丹が安重栄が行人を殺したことに怒り兵を移して境を犯すことを慮り、また彦詢に使いさせた、あわせて重栄がこれを滄州路より要って蕃に入ることを恐れたが、戎王は果たして重栄に怒った。彦詢は具に高祖の本意でないことを言い、けだし人家の悪子のようでどうしようもないと言った。まもなく重栄が闕を犯したと聞き、すぐに放って還らせた。七年春、華州節度使検校太尉を授けられ、在任二年、部内が蝗旱に属き道殣が相望んだが、彦詢は官粟をもって州民に仮貨し済いを得た者は甚だ多かった。開運の初め、風痺をもって右金吾衛上将軍を授けられ、まもなく官に卒した、年七十四、太子太師を贈られた。
李承約――出自と善政
- 李承約、字は徳倹、薊州の人である。曽祖の瓊は薊州別駕で工部尚書を贈られ、祖の安仁は檀州刺史で太子太保を贈られ、父の君操は平州刺史で太子少師を贈られた。承約は性が剛健篤実で、少くして武事を習い、弱冠で幽州牙門校となり山後八軍巡検使に遷った。劉守光が父兄を囚殺し名儒宿将で父兄に事えた者は多く無辜に戮されるに属き、自ら兵を握って外にあることで心が安んじられず、時に唐の武皇が英豪を召募しまさに覇業を開こうとしているのに属いたので、すぐに所部二千をもって并州に帰し、匡霸都指揮使検校右僕射を補され貝州刺史を兼領した。夾寨を破るのに従い、梁人と臨清で戦って功があり、洺州・汾州の二州に再遷した。荘宗の即位後、検校司空磁州刺史を授けられ治は平直をなし頴州団練使に移授された。天成中、邠州節度使の毛璋が不軌を図ろうとしていたことをもって涇州節度副使に命じられ、あわせて密旨を承け往って偵察し、至ると善言をもってこれを諭し、璋はすぐに代を受けた。明宗はその能を賞し検校太保を加え黔南節度使を拝させた。数年の間、巴邛の蛮蜑は境を犯すことを敢えてせず、外は農桑を勧め内は学校を興し凶邪はことごとく去り民はみなこれに感じ、それゆえ父老数輩が趼を重ねて闕に詣でその政化を言った。また留まることを聴かれること周歳、召されて左衛上将軍となり、左龍武統軍より特進検校太傅を加えられ昭義軍節度使を充て推忠奉節翊戴功臣を賜った。歳余で朝に帰り再び左龍武統軍となった。高祖御宇の二年、左驍衛上将軍を授けられ開国公に進封された。しきりに上表し老を請い、まもなく病をもって卒した、時に年七十五、太子太師を贈られた。
陸思鐸――出自と射の妙技
- 陸思鐸、澶州臨黄の人。父の再端は光禄卿を贈られた。思鐸には武幹があり、梁太祖が四鎮を領すると麾下に隷した。即位に及び広武都指揮使を授けられ、突陣・拱辰軍使を歴任し、前後の戦勲を積み官は検校司徒拱辰左廂都指揮使に累まり恩州刺史を遥領した。初め梁軍が荘宗と河上で対塁したとき、思鐸は善射をもって日にその戦いに預かり、かつて箭笴の上に自らその姓名を鏤していた。ある日、荘宗の馬鞍を射中てると、荘宗は矢を抜いてこれを視、思鐸の姓名を見てこれを記した。荘宗が梁を平らぐに及び、思鐸は例をもって来降した。荘宗が矢を出してこれを視せると、思鐸は地に伏して罪を待ったが、荘宗は慰めてこれを釈した。まもなく龍武右廂都指揮使を授けられ検校太保を加えられた。天成中、深州刺史となり雄捷右廂馬軍都指揮使に改まった。たまたま南は荊門を伐ち、思鐸もまたその行に預かった。時に高季興が舟兵をもって王師を拒んだが、思鐸が矢を発するたびに敵に中れば胸を洞け掖を達し、これにより賊鋒はやや挫け敢えて軽々しく進まなくなり、諸軍はみなこれを壮とした。高祖の革命後、陳州刺史を拝し秩満で左神武・羽林の二統軍を歴任し、出て蔡州刺史となり代に遇い朝に帰った。天福八年、疾をもって卒した、時に年五十四。思鐸は陳郡を典める日甚だ恵政があり常に諸子に「私が死んだら骨を宛丘に蔵め私に治めた地に魂を棲ませよ」と戒めた、卒するに及びすぐに陳に葬られた、その志に従ったのである。
安元信――出自と高祖への帰投
- 安元信、朔州馬邑の人である。少くして騎射に善く、後唐荘宗が晋王であったとき、元信は軍門に詣で自ら効を求め、まもなく明宗の麾下に隷し明宗の征討にしばしば従い功があった。明宗の即位後、捧聖軍使に擢され検校兵部尚書を加えられた。清泰三年、雄義都指揮使に遷り詔を受け代州に屯した。太守の張朗はこれに遇うこと甚だ厚く、元信もまた兄をもってこれに事えた。この年五月、高祖が太原で建義すると、まもなく契丹に約があり難に赴くと聞き、元信は朗に入って説き「張敬達は太原を囲むといえどまだ兵は合わない、代郡は雁門の衝に当たっており敵が至ればどうしてこれを禦げようか、僕は石令公が素より長者であるのを観るに、事を挙げれば必ず成すだろう、もし人に道意を帰欵させ、その両端を伺うのも全うするための上策である」と言ったが、朗は納れなかった。元信は誠をもってこれを言ったことを悔い、反って相い猜忌された。まもなく安重栄・安審信が相次いで騎兵をもって太原に赴いたと聞き、元信はついに部曲を率いて高祖に帰した。高祖はこれを見て喜び元信に「爾は何の利害を観て強を背き弱に帰したのか」と語ると、元信は「某は星を知り気を識るのではなく、ただ人事をもってこれを断じたのみです、それ帝王たる者は語を出し令を行うに人に信を示すものです、かつて主上が令公に河東を一生許したと聞きましたが、いま遽にこれを改めたのは自ら欺くことです、また令公は国の密親、親すらなお保つことができないのにどうして天下の心を保つことを肯じましょうか、これをもって言えば、その亡ぶことを見るのに、どうして強いと言えましょうか」と言った。高祖はその誠を知り、これによって懐を開いてこれを納れ戎事を委ねた。高祖即位の元年、耀州団練使を授けられ検校太保を加え、四年、入って右神武統軍となり、その年八月、また出て洛州を牧め、少帝の嗣位後、まもなく宿州に遷った。九年、任を罷めて来朝し、開運の初め、複州防禦使を授けられ、三年、任に卒した、年六十三、太傅を贈られた。
張朗――出自と忠節
- 張朗、徐州蕭県の人。父の楚は工部尚書を贈られた。朗は年十八で善射、膂力は人に過ぎ、郷里はこれを敬憚した。梁祖はその名を聞き就いて蕭県鎮使に補し吾県都遊奕使を充てた、時に朗は年わずかに二十三。歳余で宣武軍内衙都将に補され、洺州歩軍・曹州開武・汴州十内衙・鄆州都指揮使を歴任した。梁末、招討使の段凝に従い衛州を襲いこれを下し、すぐに衛州刺史を授けられた。梁に事えること僅かに三年、およそ征討あればこれに預からぬことはなかった。同光三年、魏王継岌に従い蜀を伐ち先鋒橋道使となった。明宗朝、興州・忠州・登州の三州刺史を歴任した。清泰の初め、契丹の犯辺をもって西北面行営歩軍都指揮使に補され、高祖に従い代北に屯軍し、まもなく代州刺史を兼ね、また行営諸軍馬歩都虞候に改まった。高祖が太原で建義すると、使を遣わし書をもってこれを諭したが、朗は「人臣として二心があってよいものか」と言い、すぐにその使を斬った。高祖の入洛に及び全師を領して朝覲すると貝州防禦使を授けられ、任に在ること数歳、天福五年、左羽林統軍を除され、六年、光禄大夫検校太傅慶州刺史を授けられ、官に在ること二年で卒した、年七十四。
李徳珫――出自と武将としての面
- 李徳珫、応州金城の人。祖の晟・父の宗元はみな辺将となった。徳珫は少くして騎射に善く、後唐武皇に事え偏校となり、荘宗に従い潞州・柏郷・徳勝渡を戦い続けて軍功があり検校尚書左僕射を累加され郡俸を遥食した。天成中、検校司空を授けられ蔚州刺史を領し、長興元年、雄武軍節度秦成階観察処置等使を授けられ検校司徒を加え、二年六月、定州に移鎮し北面副招討使を充てた。高祖の即位後、涇原に鎮を改め、代を受けて闕に帰るに及び、たまたま高祖が鄴に幸すると東京留守を授けられ同平章事を加えられた。少帝の嗣位後、広晋尹に移り検校太師を加えられた。開運中、再び涇州を領し病をもって鎮に卒した。徳珫は幼くして明宗とともに武皇に事えた、それゆえ後の諸将は多く兄をもってこれに事え、時に「李七哥」と謂われた。治める所の地に殊政はなかったが、寛恕をもって物に及び家に濫積がなかった、また武将の廉なる者であった。
田武――出自と忠節
- 田武、字は徳偉、大名元城の人。父の簡は右僕射を累贈された。武は少くして拳勇があり、初め荘宗に事え小校となり、勝節指揮使に歴遷した。明宗の登極後、帳前都指揮使に転じ澶州刺史を領した。天成二年、左羽林都指揮使に改まり宜州を遥領し襄州都巡検使を充てた。三年、汴州馬歩軍都指揮使より曹州刺史を授けられた。長興の初め、斉州防禦使に遷り、また洺州に移った。清泰中、成州・隴州の二州を歴任し西面行軍副部署を充てた。天福の初め、金州防禦使を授けられ、金州に節鉞を建てるに及び、武は母の喪に丁い、すぐに起復して節度使となった。開運元年、滄州に移鎮し北面行営右廂都指揮使を兼ね、二年、寧江軍節度使を授けられ侍衛歩軍都指揮使を充て、歳内に昭義軍節度澤潞等州管内観察処置等使潞州大都督府長史検校太傅に改まり雁門郡開国公に封じられたが、任に赴かぬうちに疾をもって卒した。武は戎行より身を出しながら性は鯁正で、軍を御し民を治めるにみなその善を尽くした。卒するに及び朝廷はこれを惜しみ詔して太尉を贈り視朝を輟むこと一日。子の仁朗・仁遇はいずれも内職を歴任した。
李承福――出自と器局の狭さ
- 李承福、字は徳華、漢陽の人である。少くして寒賎、元行欽に事え皂棧の役を掌った。後に高祖の家臣となり、高祖の登極後、皇城・武徳・宣徽使左千牛将軍を歴任し、出て澶州刺史となり斉州防禦使検校太保に遷った。承福は性が鄙狹で器局なく人の微事を察することを好み詆訐するところが多く、小過であっても恕すことができなかった。工商の業や輿隷の情、官吏の幸はみなこれをよく知っていたが、自ら任じるところ準的なく、それゆえ人に多く薄んじられた。少帝の嗣位後、同州節度使を授けられ、まもなく鎮に卒した。少帝は高祖佐命の臣であることをもってこれを聞くと嗟嘆し賻物を加等し視朝を輟むこと一日、詔して太傅を贈った。
相里金――出自と武功
- 相里金、字は奉金、并州の人である。性は勇悍果敢で節を折って士に下ることができた。唐の景福の初め、武皇が初めて五院兵を置くと金は首としてその選に預かった。荘宗に従い夾寨を攻め下し小校に補された。後に梁師と柏郷および胡柳陂で戦い、功をもって黄甲指揮使を授けられた。同光中、帳前軍を統べ中都を抜き忠勇拱衛功臣検校刑部尚書を賜った。二年、羽林都虞候より出て忻州刺史となった。およそ部曲私属はみな民事に干預させず、ただその贍給を優しくし家事を分掌させるのみであった、それゆえ郡民はこれに安んじ大いに声績があった。応順元年、隴州防禦使となったが、たまたま唐末帝が鳳翔で起兵し檄を鄴道に伝えたとき諸侯に応じる者はなかったが、ただ金だけが判官の薛文遇を遣わし往来して事を計り、末帝は深くこれに徳した。即位に及び陝州節度使に擢され検校太保を加えられた。清泰三年夏、高祖が太原で建義すると、唐末帝は兵を発してこれを攻めさせ、金を太原四面歩軍都指揮使とした。高祖の即位後、晋州に移鎮し、代を受けて闕に帰るに及び、諸衛上将軍を累任し開府儀同三司を加え官は検校太尉に至り爵は開国公に列し勲は上柱国に登った、久しく散地に居たことを優したためである。天福五年夏、任に卒した、太師を贈られた。
史論
- 史臣は評して言う。在礼が甘陵で起こったのは鼎革の期に当たり富貴が来て逼るに会ったからであり、すでに人に因って事を成しただけである、あにこれを自ら多とするに足りようか。鉞を仗り旄を擁するに及び財を積み徳を敗る、貨の累となることは誡めなければならないのではないか。全節が晋氏を佐けたことは安陸の祅を平らげ宗城の戦に預かり功はすでに茂んであった、貴もまた宜なるかな。張筠は累朝を歴事しこの介福を享けた、けだし近代の幸人であろう。温琪より以下はみな冕を服し軒に乗り茅を苴め寿土を垂れ名は汗簡に垂れた、まことにまた宜なるかな。