舊五代史卷八十八 晉書第十四 列傳三・景延廣・李彦韜・張希崇・王庭𦙍・史匡翰・梁漢顒・楊思権・尹暉・李從璋(重俊)・李從温・張萬進

陝州の人・景延広(字は航川)は、後晋高祖の即位に功があり、少帝の嗣位時には顧命の大臣となった。契丹との断交を主導し戦端を開いたが、晋の敗亡後に契丹軍に捕らえられ、自ら喉を扼して自害した(享年56)。李従璋(字は子良)は後唐明宗の猶子で、藩鎮を歴任し後晋高祖朝で威勝軍節度使・隴西郡公となり没した(享年51)。その子の重俊は虢州・商州などを歴任したが貪暴で不法が多く、姦淫や殺人の罪を問われ自宅で死を賜った。

年表(18件)

景延廣――出自と挙兵前後の功績

  • 景延広、字は航川、陝州の人である。父の建は太尉を累贈された。延広は少くして射を習い強弓を挽くことで称された。梁の開平中、邵王朱友誨が陝を節制し麾下に召し置いたが、友誨は謀乱に坐し、延広は竄れて免れることを得た。後に華州の連帥尹皓に事え、皓の引薦で列校となり汴軍に隷し、王彦章に従って荘宗を河上で拒んだが、中都の敗に及び彦章は擒えられ、延広は数創を被って汴に帰った。唐の天成中、明宗が夷門に幸したとき朱守殷が命に抗い、まもなくこれを平らげたが、延広は軍校として連坐し将に棄市されようとした。高祖は時に六軍副使としてその事を掌り、見てこれを惜しみ密かに遁がし去らせ、まもなく収めて客将とした。張敬達が晋陽を囲んだとき、高祖は戎事を延広に付し甚だ干城の功があった。高祖の即位後、侍衛歩軍都指揮使検校司徒を授けられ果州団練使を遥領し、検校太保に転じ夔州節度使を領した。四年、滑台に出鎮し、五年、検校太保を加え陝府に移鎮し、六年、召されて侍衛馬歩都虞候となり河陽に移鎮し、七年、侍衛親軍都指揮使検校太尉に転じた。その年夏、高祖が晏駕すると、延広は宰臣馮道らとともに顧命を承け少帝を嗣とし、すでに発喪すると都人は偶語することができず百官が臨に赴くには内門に及ぶ前にみな馬を下りさせた、これにより驕暴の失があった。少帝の嗣位後、延広は独りこれを己の功であるとし、まもなく同平章事を加えられるとますます矜伐の色があった。

景延廣――契丹との断交と敗死

  • 朝廷が使を遣わして哀を契丹に告げたとき、表がなく書を致し「臣」を去り「孫」を称した。契丹は怒り使を遣わして来たり延広を讓めさせると、延広はすぐに契丹の回国使喬栄を奏して戎王に告げ「先帝は北朝が立てたものであるが、今上は中国が自ら策立したもので、隣となるならよいが孫となる理由はない、また晋朝には十万口の横磨剣がある、翁がもし戦を要するなら早く来られよ、後日孫子と称さぬなら天下の笑いものとなり必ず後悔することになろう」と語った、これにより契丹と敵対し干戈は日ごとに尋がれた。初め高祖の在位時、楊光遠に騎兵数百を宣借していたが、延広は詔を下してこれを還すことを請うたため、光遠はこれにより延広を怨み、朝廷は使を海を渡らせて釁を構えさせた。天福八年十二月、契丹はすなわち南牧し、九年正月、甘陵を陥した、河北の儲蓄はことごとくその郡にあった。少帝は大いに駭き親ら六師を率いて澶淵に進駐し、延広は上将となり凡そ六師の進退はみな胸臆より出、少帝もまた制することができず、衆はみな憚りこれを忌んだ。契丹がすでに城下に至ると、人をして「景延広が我を喚んで来させ相殺させたのに、なぜ急戦しないのか」と宣言させた。ある日、高行周が蕃軍と近郊で遇い衆寡敵せず急ぎ済師を請うたが、延広は兵を勒して出さず、この日行周は幸いにして免れることができた。契丹が退くに及んでも延広はなお柵を閉じて自固し、士大夫は「昔契丹と好を絶ったときの言葉はなんと勇ましかったか、今契丹が至ればこの体たらくとはなんと憊れたことか」と言った。時に延広が軍にあり母の凶問が至ったが、澶淵の津北から津南へ移り、宿を信じずしてまた戎事に莅み、かつて戚容がなかった、下俚の士もまたこれを聞いて悪んだ。時に太常丞王緒という者があり、徳州への使いから回り延広と隙があり、これによって楊光遠と通謀していると誣奏し、吏を遣わして麾下に縶がせ、その事を鍛成し、判官の盧億がしきりに解くよう勧めたが従わなかった、まもなく詔があり棄市され、時にこれを甚だ冤とした。少帝が京に還るとかつてその邸に幸し、進献・賜与は酬酢のようで、権寵恩渥は一朝の冠であった。まもなく宰臣桑維翰と協せず、少帝もまたその制し難きを憚りついに兵権を罷め洛都留守兼侍中に出させた、これにより鬱鬱として志を得ず、また契丹の強盛と国家の不済を意識し身は将に危うくなると思い、ただ長夜の飲を縦にし夾輔を意にとどめることはなかった。開運三年冬、契丹が滹水を渡ると、詔して孟津に屯させることになり将に途に戒めようとするとき、府署の正門より出た乗馬が騰立して進まず、ほとんど地に墜ちそうになり、乗り換えて行かせたが、時に甚だ不祥として受け取られた。王師が契丹に降るに及び、延広は狼狽して還った。時に契丹主は安陽に至り、別部の隊長を遣わし騎士数千を晋兵に混じらせ河橋に趣かせ洛に入って延広を取らせようとし、「もし延広が呉に奔り蜀に走るならすぐに追ってこれを致せ」と戒めた。時に延広はその家を顧慮しなお決断できずにいたところ、契丹がすでに奄かに至ると、従事の閻丕とともに軽騎で契丹主を封丘に謁し、丕とともに縶がれた。延広は「丕は臣の従事である、職をもって相随っただけで何の罪があってこれもまた縲囚となるのか」と言い、契丹はこれを釈し、因って延広を責め「南北の失歓を招いたのは実に爾によるものだ」と言った。すぐに喬栄を召し前事を質証させると凡そ十であった。初め栄が将に蕃に入ろうとしたとき延広を紿り「恐らく忽ちに達すべき語を忘れるので翰墨に請う」と言い、延広はこれを信じすぐに吏に命じその事を備さに記させた。栄もまた検巧で人を善くする者で、他日詰められることを慮り、これを執って信を取ろうとし、その文を衣中に匿していた。ここに至り延広は始め他語をもって抗対したが、栄はすぐにその文を出してこれを質し、延広は頓に屈するところとなった。事ごとに牙籌一莖を受ける、これ契丹の法である。延広は八茎受けたところでただ面を伏せ地に俯した。契丹はついにこれを咄り、延広の臂に鎖を命じ将に北土に送って死なせようとした。この日、陳橋の民家の草舎に至り、延広は燔灼の害を懼れ、夜分に及び守者が怠るのを伺うと手を引いて自ら喉を扼め、まもなく卒した。事すでに窮頓すといえど、人もまたこれを壮とした、時に年五十六。漢高祖が即位すると詔して中書令を贈った。延広は少時、かつて洞庭湖を汎び中流で風波に阻まれ檣がまさに折れそうになり衆は大いに恐れたが、しばらくして舟人が波中を指して「賢聖が来て護られる、これは必ず貴人がいるためだ」と言い、まもなく渡ることができた。ついに位が将相に至ったのは偶然ではなかったのである。

李彦韜――出自と少帝への不忠

  • 李彦韜、太原の人である。少くして邢州節度使閻宝に事え皂隷となった。宝が卒すると高祖は帳下に収めた。起義に及んで少帝が北京に留守すると、これにより彦韜を留めて腹心とし、客将・牙門都校を歴任した。纎巧をもって厚く委用を承けた。少帝の嗣位に及び蔡州刺史を授けられ入って内客省使宣徽南院使となり、まもなく寿州節度使を遥領し侍衛馬軍都指揮使検校太保を充て、まもなく陳州節度使に改められ典軍は旧のとおりとした。常に帝の側にあり将相を升除するにもただ宦官・近臣と締結し外情を通じさせず君を危亡の地に陥れた。かつて人に「朝廷が設ける文官は将に何の用があるのか、澄汰してこれを廃除しようと思う」と語った、その輔弼の道を知るべきである。契丹が闕を犯し少帝を開封府に遷すに及び、ある日少帝が人を遣わし急ぎ彦韜を召し将に事を計ろうとしたが、彦韜は辞して命に赴かず、少帝は快恨したこと久しかった。その国に負き君に辜くことはこのようであった。少帝の北遷に及び戎王は彦韜を遣わし従行させ、蕃中に至ると国母の帳下に隷させた。永康王が兵を挙げて国母を攻めたとき偉王を前鋒とし、国母は兵を発してこれを拒み、彦韜を排陣使とした。彦韜は偉王に降り、偉王はこれを帳下に置いた。その後幽州で卒した。

張希崇――出自と契丹での逆境

  • 張希崇、字は徳峰、幽州薊県の人である。父の行簡は薊州玉田令を仮した。希崇は少くして『左氏春秋』に通じ、また吟詠を癖とした。天祐中、劉守光が燕帥となったとき性が惨酷で儒士を喜ばず、希崇はすぐに筆を擲って自ら効め、守光はこれを納れ漸く裨将に升った。まもなく守光が敗れ、唐荘宗は周徳威に命じその地を鎮させ、希崇は旧籍をもって麾下に列し、まもなく偏師を率いて平州を守らせられたが、耶律阿保機(案巴堅)が南攻しその城を陥し希崇を掠って去った。阿保機は希崇に詢ねすぐにその儒人であることを知り、元帥府判官を授け、後に盧龍軍行軍司馬に遷り、続いて蕃漢都提挙使に改まった。天成の初め、契丹の平州節度使盧文進が南帰すると、契丹主は希崇にその任を継がせ、腹心を遣わし辺騎三百を総べさせこれを監させた。希崇は事に莅むこと数歳、契丹主は漸く寵信を加えたが、ある日郡楼に登り私かに自ら「昔班仲升(班超)は西戍で擅に還ることを敢えてしなかったのは詔を承けていたためである、私は今関に入るのを自ら胸臆で断ずるだけで、なぜ不測の地に恬んじて自ら滞るのか」と計り、すぐに漢人の部中の翹楚な者を召して「私はこの地に陥ち身は酪を飲み毛を被り、生きて親しい者に会えず死ねば窮荒の鬼となる、南に山川を望んで日を度ること歳のようだ、爾輩に郷を思う者はいないか」と言うと、部曲はみな泣いて衣を沾らし「明公が部曲を全うして南へ去ろうとされるのはよいことです、しかし敵の衆をどうしますか」と言った。希崇は「明日首領が牙帳に至るのを待ってまずこれを擒にすればよい、契丹に統領がなければその党は必ず散る、また平州は王帳を去ること千余里、報を待って徴兵が至るには旬を踰えるだろう、それに及ぶ頃には我らはすでに漢界に深く入っているだろう、どうして衆の少なさを病とすることがあろうか」と言い、衆は大いに喜んだ。この日、希崇は牙郡の斎の側に隙地を坎り石灰を貯えさせた。明旦、首領と群従が至り、希崇は醇酒数鍾を飲ませ、酔うとことごとく灰の穽中に投げ入れ斃れさせた。その徒は北郭に営していたが、人を遣わしてこれを攻めるとみな囲みを潰して奔り去った。希崇はついに営内の生口二万余をもって南帰した。唐明宗はこれを嘉し汝州防禦使を授けた。希崇はすでに任に之くと人を遣わし母を迎え郡に赴かせ、母が境に至ると希崇は自ら板輿を肩にして行くこと三十里、観る者は称歎しないものはなかった。二年を歴て霊州両使留後に遷った。先に霊州の戍兵は歳ごとに軍糧を五百里を経て運び剽攘の患があったが、希崇はすぐに辺士に告諭し広く屯田を務め、歳余で食は大いに済い、璽書がこれを褒めた。ここに旄節を正授された。清泰中、希崇はその雑俗を厭いしきりに表して覲えることを請い、詔してこれを許した。闕に至って未だ久しからず、朝廷は安辺の聞こえがあることをもって内地に処すことを議し邠州節度使に改めた。高祖の入洛に及び、契丹はまさに要盟があり慮りにその取るところとなるとしてまた霊武に除された。希崇は「私はまさに辺城で老いるはずだ、賦分は逃れるところがない」と嘆き、これにより鬱鬱として志を得ず、久しくして疾を成し任に卒した、時に年五十二。希崇は小校より官を累ね開府儀同三司検校太尉に至り、方面を三たび歴て清河郡公に封じられ食邑三千戸を賜り靖辺奉国忠義功臣を賜った、また人生の栄盛たる者であった。希崇は素朴厚実でとりわけ書を嗜み、事に莅む余暇に手から巻を釈かず、酒楽を好まず姫僕を蓄えず、祁寒盛暑にも必ずその衣冠を儼にし、厮養の輩にかつて褻慢の言を聞かせたことはなかった。母に事えること至って謹み、毎食必ず侍立し盥漱が畢わるのを俟ってようやく退いた、物議はこれを高しとした。性は仁恕といえど、あるいは姦悪に遇えばこれを嫉むこと仇のようであった。邠州に在任の日、民で郭氏の義子となる者があり、孩提より成人に至ったが、愎戻で訓を受けなかったのでこれを遣った。郭氏夫婦は相次いでともに死に、郭氏には嫡子がすでに長じていた。時に郭氏の諸親と義子は相約し親子であると称して財物を分けようとし訟えた。前後数鎮これを理めることができず、ついに疑獄となった。希崇はその訴えを覧て「父が在るときすでに離れ、母が死んでも至らなかったのに、ただ假子であることを称するばかりで、二十年撫養の恩を止め、もし親児であると言うなら三千条の悖逆の罪を犯している、名教を頗る傷害している、どうして敢えて田園を理り認めよう、その生涯はすべて親子に付し、訴えた者と朋姦した者は法官に委ね律をもって刑を定める」と判じ、聞く者はその明を服した。希崇はまた象を観るに善く、霊州にある日、月が畢宿の口の大星を掩うのを見た、月がまたそのようになったのを見て「畢の口の大星は辺将である、月がこれを再び掩うとは私は終わるのか」と嘆いた、果たして郡に卒した。子の仁謙が嗣ぎ引進副使を歴任した。

王庭𦙍――出自と一族の系譜

  • 王庭𦙍、字は紹基、その先は長安の人である。祖の処存は定州節度使、父の鄴は晋州節度使、庭𦙍は唐荘宗の内表(外戚)である。性は勇剽狡捷で、鷹瞬隼視、嗔り睚眦すれば剣を挺いて顧みなかった。少くして晋陽の軍校となり、攻城野戦を務めとし、暑さでは嘉樹の陰に息わず、寒さでは密室の下に処らず、軍伍とともに食は味を異にせず居は適を異にしなかった、それゆえ荘宗は親族の中で独りこれを礼遇した。荘宗・明宗朝、貝・忻・密・澶・濕・相六州の刺史を累歴した。国初、范延光が鄴に拠って乱を称すると、高祖は庭𦙍が累朝の宿将であることをもって魏府行営中軍使兼貝州防禦使に詔し、城が降るとその功に賞して相州節度使を授け、まもなく定州節度使に移鎮した。処直(庭𦙍の叔祖)は養子の都に篡われたとき北に契丹に走り、契丹はこれを納れた。ここに至り契丹は使を遣わし高祖に、王威に先人の土地を襲がせ我が蕃中の制のようにしたいと諭させたが、高祖は「中国の将校は刺史・団練・防禦使より序に遷り旄節を授けるものだ、威をこの任に遣わしいずれ昇進させることを請う、これが中土の旧規に合う」と答えた。戎王はその拒まれたことに深く怒り、人を遣わし再び「爾は諸侯より天子となったのに何の階があるのか」と報した。高祖はその滋蔓を畏れ厚く賂ってその命を力拒すると、契丹の怒りはやや息み、ついに庭𦙍を連ねて昇らせ中山を鎮させた、あわせてその意を塞ごうとしたのである。少帝の嗣位後、滄州節度使に改まり官は検校太尉に累まった。開運元年秋、位に卒した、年五十四、中書令を贈られた。子五人があり、長子は昭敏といい官は金吾将軍に至って卒した。

史匡翰――出自と善政

  • 史匡翰、字は元輔、鴈門の人である。父の建瑭は荘宗に事え先鋒将となり、敵人はこれを畏れ「史先鋒」と呼んだ、戦功を累立した、『唐書』に伝がある。匡翰は起家し九府都督を襲ぎ、代州・遼州副使検校太子賓客を歴任した。同光の初め、嵐・憲・朔等州都遊奕使となり天雄軍牢城都指揮使に改まり、再び検校戸部尚書を加え潯州刺史を領した。天成中、天雄軍歩軍都指揮使を授けられ、歳余で侍衛彰聖馬軍都指揮使に遷った。高祖が天下を有つと検校司空懐州刺史に改授された、その妻の魯国長公主はすなわち高祖の妹である。まもなく控鶴都指揮使兼和州刺史駙馬都尉に転じ、まもなく検校司徒鄭州防禦使を授けられ、まもなく義成軍節度滑濮等州観察処置管内河堤等使に遷った。母の喪に丁い、まもなく本鎮に起復した。匡翰は剛毅で謀略があり、軍を御すること厳整、下に接するに礼をもってし、部曲と語るときかつて名を称したことはなかった、数郡を歴て皆政声があった。とりわけ『春秋左氏伝』を好み、政を視る暇に学者を延いて講説させ、自ら巻を執って受業した、時に難問を発し隠奥を窮めた、流輩あるいは戯れに「史三伝」と謂った。すでに端謹で人の醉うのを喜ばなかった。幕客に関徹という者があり、狂率酣醟で、ある日酒を使い目を怒らせて匡翰に「明公は昔覃懐を刺したとき徹を主客として随わせいかなる事も可であった、今節鉞を領するに数えて相容れられなくなり、しかも書記の趙礪は険詖の人で肩を脅かし諂笑し貨を黷して厭くことがないのに、明公はこれを甚だ厚く待たれる、徹はいま死を請う、近ごろ張彦沢が張式を臠るのを聞いたが、匡翰が関徹を斬るのはまだ聞いていない、恐らく天下の談者はいまだ比類がないだろう」と語った。匡翰は怒らず満を引いて自罰しこれを慰勉した、その寛厚はこのようであった。天福六年、白馬河が決壊し、匡翰がこれを祭ると一犬に角があり水心に浮かぶのを見、心にこれを甚だ悪んだ。数日後、疾を遘って鎮に卒した、年四十。詔して太保を贈った。子の彦客は宮苑使・湊州・単州・宿州の三州刺史を歴任した。

梁漢顒――出自と晩年

  • 梁漢顒、太原の人である。少くして後唐の武皇に事え、初め軍中の小校となり、騎射に善く格戦に勇み、荘宗が劉仁恭・王徳明を破ったとき、また梁軍と徳勝で対塁したとき、いずれもその戦いに預かった。功を累ね龍武指揮使検校司空に至った。梁が平らぐと検校司徒濮州刺史を授けられた。同光三年、魏王継岌が軍を統べ蜀を伐つと、漢顒は魏王中軍馬歩都虞候となった。天成の初め、許州馬兵留後検校太保を授けられ、まもなく邠州節度使となり、歳余で検校太傅を加え威勝軍節度唐鄧等州観察処置等使を充てた。鎮に在ること二年、許州に移鎮した。長興四年夏、眼疾をもって太子少師致仕を授けられた。高祖は素より漢顒と旧交があり、即位の初め、漢顒は進謁しまた任使を希い、左威衛上将軍に除された。天福七年冬、疾をもって洛陽に卒した、年七十余、太子太保を贈られた。

楊思権――出自と后唐末帝擁立

  • 楊恩権、邠州新平の人である。梁の乾化の初め軍校となり、貞明二年、弓箭指揮使検校左僕射に転じ、控鶴右第一軍使に累遷した。唐荘宗が梁を平らぐと右廂夾馬都指揮使に補された。天成の初め、右威衛将軍に遷り検校司空を加えた。秦王従栄が太原を鎮するに会い、明宗はすぐに馮贇を副留守とし、思権を北京歩軍都指揮使としてこれを佐佑させた。従栄は幼くして驕狠で公務に親しまず、明宗はすぐに紀綱一人で素より従栄と善い者を遣わしこれと遊処させ従容として諷導させた。かつて私かに従栄に「河南相公は恭謹好善で端士を親礼し老成の風があります、相公は処長でありなおさら自ら励むべきで、河南の下に声聞を致してはなりません」と語ると、従栄は悦ばず思権に「朝廷の人はみな従厚を推し私を短とする、私は将に廃棄されるだろう」と告げた。思権は「相公にはご心配なさらぬよう請います、もし万一変あれば思権が在る所に兵甲があり事を済すに足ります」と言い、すぐに従栄に部曲を招置し弓を調え矢を礪くことを勧め密かにこれに備えた。思権はまた使者に「朝廷は君に相公に伴わせ終日『弟は賢く兄は弱い』と言わせているがなぜか、我らが苟もこの場にあるならどうして相公とともに主とならないことがあろうか」と語った。使者は懼れ贇に告げると、贇はすぐに密かにこれを奏し、明宗はすぐに詔して思権を京師へ赴かせたが、王の欲を奏したことをもってこれを罪しなかった。長興の末、右羽林都指揮使となり興元に戍を遣わされた。閔帝の嗣位後、詔を奉じ張虔釗に従い鳳翔を討ち、岐下に至るに及び、思権は首として倒戈を唱えて虔釗を攻め、まもなく部下の軍を領して率先して城に入り、唐の末帝に「臣がすでに赤心をもって殿下に奉じたからには、京城が平定するのを俟って臣に一鎮を与えられ防禦・団練使の中には置かれませんように」と語り、すぐに懐中より紙一幅を出し末帝に「殿下自ら臣の姓名を書いてこれを志されることを願います」と言うと、末帝は筆を命じ「邠寧節度使を可とする」と書いた。即位に及び推誠奉国保乂功臣静難軍節度邠寧慶衍等州観察処置等使検校太保を授けられた。清泰三年、入って右龍武軍統軍となった。高祖の即位後、左衛上将軍に除され開国公に進封された。天福八年、疾をもって卒した、年六十九、太傅を贈られた。

尹暉――出自と后唐末帝擁立

  • 尹暉、魏州の人である。少くして勇健をもって魏帥楊師厚に事え軍士となった。唐荘宗が魏に入ると小校に擢され河上の征に従い、常に馬前で歩闘して功があった。荘宗の即位後、しきりに諸軍指揮使に改まり、天成・長興中、数郡の刺史を領し、厳衛都指揮使に累遷した。唐の応順中、王師が末帝を岐下に討つと、暉は楊思権とともに首として末帝に帰し、鄴都をこれに授けることを約した。末帝の即位後、高祖が入洛したとき、かつて暉に通衢で遇い、暉は馬上で鞭を横たえて高祖に揖した、高祖はこれを忿った。後に謁見の折、末帝に「尹暉は常才ですが帰命をもって称光しております、陛下が名藩に出鎮させようとされても、外論はみな『不当』と言っています」と語ると、末帝はすぐに暉に応州節度使を授けた。高祖の即位後、右衛大将軍に改まった。時に范延光が鄴に拠って謀叛し、暉が意を失っていることをもって密かに人を遣わし蠟弾を齎らせ栄利をもって啖わせようとした。暉は延光の文字を得ると懼れて竄れることを思い、汴水に沿って淮南へ奔ろうとしたが、高祖はこれを聞き、まもなく詔を降し招喚したがまだ王畿を出ないうちに人に殺された。子の勲は皇朝に事え軍職を累歴し内外馬歩都軍を遷り領し、現在は郢州防禦使である。

李從璋(子重俊)――出自と晩年の変化

  • 李従璋、字は子良、後唐明宗皇帝の猶子である。少くして騎射に善く明宗に従い河上を歴戦し平梁の功があった。唐の同光末、魏の乱で軍が明宗を迎え帝としたとき、従璋は時に軍を引いて常山より邢を過ぎ、邢の人は従璋を留後とした。月を踰えて明宗が即位すると、詔を受けて捧聖左廂都指揮使を領した、時に天成元年五月である。八月、大内皇城使に改まり検校司徒彰国軍節度使を加え竭忠建策興復功臣を賜った。まもなく達靼諸部が入寇すると、従璋は麾下を率いて出討し一鼓してこれを破り、詔してこれを褒めた。三月四月、滑台に移鎮した。時に明宗は大梁に駐蹕しており、従璋はかつて幕客を召し「車駕が方に省すのに藩臣はみな進献がある、私は臣たり子たる身、どうして後れられようか、倉廩の羨余を取ってその用を助けようと思う、諸君はどう思うか」と謀ると、内に賓介があり「聖上は寛にして犯し難く、行宮は近くにあります、忽ちに上達すれば一幕がともにその罪に罹りましょう」と白した。従璋は怒り、翌日弓を引いてその言った者を射ようとした。朝廷はこれを知り右驍衛上将軍に改授した。長興元年十月、陝州に出鎮し、二年五月、河中節度使に遷り、三年、検校太傅を加え忠勤静理崇義功臣を賜った。四年五月、洋王に封ずる制があった。この年、明宗が厭代し閔帝が嗣位すると、まもなく命を受け潞王に代わって岐下に赴いたが、たまたま潞王が兵を挙げて洛に入り事はついに取りやめとなった。高祖即位の元年十二月、威勝軍節度使を授けられ隴西郡公に封じられた。二年九月、任に終わった、年五十一、鄧の人はこれのために市を罷めた、遺愛を思ったのである。詔して太師を贈った。従璋は性が貪黷で、明宗の厳正を畏れ滑帥より環衛に居るようになった後、除拝に差跌があると心が稍く悛悟した。後に数鎮を歴て故時の幕客で足りなかった者と相遇っても憾むところはなかった。蒲・陝の日、政に善誉があり忠勤静理の号を改め賜られたのはまさにこのゆえである。高祖の在位に及びますますその法を畏れ、それゆえ南陽に没すると人は甚だこれを惜しんだ、また明宗の宗室の白眉であった。子は重俊。
  • 重俊は唐の長興・清泰中、諸衛将軍を歴任した。高祖の即位後、池州刺史を遥領し、少帝の嗣位後、虢州刺史を授けられた。性は貪鄙で、かつて郡人に訟えられ御史台に下されると贓に抵ること重かったが、太后が猶子であることをもってこれを救い、すぐに罪を判官の高献に帰しその郡を罷めるにとどめた。まもなくまた環列に居り、出て商州を典めた。商の民は素より貧しかったが、重俊がこれに臨むと割剥がほとんど尽きた。また家をもって不法とし、その奴僕は湯を履み火を踏むかのようで、その意に忤う者はあるいはこれを鞭ち、あるいはこれを刃した。また従人の孫栄漢を殺しその妻を掠った。代を受けて洛に帰るに及び、漢栄の母燕氏はその子婦を獲て府尹景延広に訴えたが、牙将の張守英は燕に「重俊は前朝の枝葉で今上の中表、河南尹はどうしてこれを理められましょうか、その金帛を邀って私かに自ら和解するにしくはありません、これが上策です」と語った。燕はその言に従い三百緡を授けられて止んだ。後に青衣の趙満師が楚毒に堪えられなかったことにより垣を踰えて景延広に訴え、重俊が妹と私姦したことおよび前後の不法事を言った。延広はこれを奏し、詔して刑部郎中の瑜を遣わしこれを鞫させ、ことごとくその実を得、あわせて穢跡が彰露したことをもって自宅で死を賜られた。

李從温――出自と昏愚な晩年

  • 李従温、字は徳基、代州崞県の人、後唐明宗の猶子である。明宗の微賎な時、従温は僕御の役に服し、後に養われて己の子となった。諸藩に歴署するに及び牙校となり廐庫を典めることを命じられた。唐の同光中、銀青光禄大夫検校右散騎常侍を奏授され、検校司空を累加し北京副留守を充てた。明宗の即位後、安国節度使検校司徒を授けられた。長興元年四月、入って右武衛上将軍となった。この年、また許田に出鎮し、明年、北京留守に移り太傅を加え、四年正月、太平軍節度使に改まり、五月、兖王に封ずる制があり、十一月、定州に移鎮し北面行営副招討使を兼ねた。まもなくまた常山に移鎮し、清泰中、同平章事を加え彭門に鎮を改めた。高祖即位の明年、侍中を加え、七年、兼中書令を加え、八年、再び許州節度使となり開府儀同三司趙国公に封じられ食邑一万戸実食封一千二百戸を累加された。開運二年、河陽三城節度使に改まり、三年二月、任に卒した、年六十三、太師を贈られ隴西郡王に追封された。従温は始め明宗の本枝をもって藩翰を歴居したが、文武の才略や資済代の用はなく、およそ民に臨むに漁利を急とした。常山に在るとき牙署の池潭を見ると凡そ十余頃あり、みな木を立てて岸とし修篁でこれを環らしていた。従温は「これは何の用があるのか」と言い、ことごとく竹を伐り木を取ることを命じ列肆に鬻いでその直を得て私帑を実たした。高祖の即位後、従温は時に兖州にあり多く乗輿の器服を創り宗族の切戒とされたが、従温は聞かなかった。その妻の関氏は素より耿介で、ある日牙門で声を厲しくして「李従温は乱を為そうとして擅に天子の法物を造っている」と言うと、従温は敬い謝しことごとく焼くよう命じた。家に敗累がなかったのは関氏の力である。後に駝馬を多く畜え近郊で放牧させると、民でその稼を害されると訴える者があった。従温は「もし爾の意に従うなら我が産畜はどこへ帰そうか」と言った、その昏愚は多くこの類であった。高祖は性が至察で知って問わなかった。少帝の嗣位後、太后は「私にはただこの兄しかいない、慎んでこれを繩すな」と教え、それゆえますます姑息を加え、年が耳順を逾えるまで牖下に終わらせることになった、これはすなわち天幸である。

張萬進――出自と晩年の乱行

  • 張万進、突厥の南鄙の人である。祖は拽斤、父は臘。万進は色白く美髯で、少くして無頼、唐の武皇に事え騎射をもって名を著し、攻城野戦に命を顧みず奮った。かつて梁軍と対陣し鋭を持ち短刀を首にして馬を躍らせ独り進み、兵刃がすでに刓するに及ぶと大鎚に易え左右に奮撃し、出没進退に敢えて当たる者はなかった。唐荘宗・明宗は素よりその雄勇を憐れみまたその戦功を奨し、それゆえ大郡を累典した。天成・長興中、威勝・保太の両鎮の節制を歴任した。高祖が天下を有つと彰義軍節度使に命じられたが、至る所治まらず政は群下によった。涇原に至るに及ぶと凶恣はますます甚だしく、毎日公庭で大鼎を列ね肥羜を烹て胾を割ること方寸にして賓佐に噉わせ、みな流涙して大嚼できなかった、他へ顧みる隙をうかがうと袂中に致した。また巨觶を命じ酒を行わせ、辞せば辱め、杯を持って偽って飲み領を褰げてこれに納れる者もいた。すでに沈湎して節がなく、ただ婦言をこれ用い、その妻は幕吏の張光載とともに公政に干預し、銭数万を納めて一豪民を捕賊将に補し兵数百人を領させ新平郡境に入らせた。邠帥がその事を上奏すると詔があってこれを詰め、光載は流罪に坐し登州に配された。天福四年三月、万進は疾篤くなり月余で州兵は将に乱れようとした。すぐに副使の万庭圭にその符印を委ねようとしたが、記室の李昇は素より凌虐を憾みその将に亡くなろうとしているのを知り、庭圭に「気息はまさに奄えようとしており晨暮を保てそうにない、促って第に移るのがよかろう」と語り、庭圭はこれに従った。万進はまもなく卒したが、すぐに藍轝で屍を秘して出し、すぐに騎を馳せてこれを奏した。詔命がすでに至った後に発喪した。その妻は素より狠戻で、長子の彦球に「万庭圭が逼迫し危病を驚擾させたために死んだ、自ら手ずからこれを戮さないでどうしよう」と語った。庭圭はこれを聞いて敢えて往って弔わなかった。万進は精舎の下に仮殯され、轊車が東轅するまで凡そ数月の間、郡民数万に一人も饋奠する者がなかった、不善をなす者は衆に必ず棄てられるというのはまことなことである。

史論

  • 史臣は評して言う。延広は功が二帝を扶け任は六師を掌り、また晋の勲臣と謂うべきである。しかし経国の遠図に昧く強敵に狂言を肆にし、ついに邦家を蕩覆させ寓県を丘墟とさせた、書の謂うところの「惟れ口は羞を起こす」とはこの人を謂うのであろうか。彦韜はすでに負にして乗し任重く才微、盗がこれを奪うのはもとより宜なるかな。希崇は雄幹があり塞垣に老いその才を尽くさなかったのはまことに惜しむべきである。楊・尹の二将は倒戈により銊を仗ったが、あに義士のなすところであろうか。その余はおおむね勲をもってあるいは親をもってみな屏翰に分かたれたが、ただ万進の醜徳のみはまた何を譏るに仮ろうか。