舊五代史卷八十七 晉書第十三 宗室列傳二・廣王敬威・贇・韓王暉・剡王重𦙍・虢王重英・楚王重信・壽王重乂・夔王重進・陳王重杲・重睿・延煦・延宝
- この巻の晋の宗室列伝は永楽大典に僅かに四篇のみが残り、その他は多く残闕している。
廣王敬威――出自と非業の死
- 廣王敬威、字は奉信、高祖の従父弟である。父の万銓は太尉を贈られ趙王に追封された。敬威は少くして騎射に善く、後唐荘宗に事え従戦の功があり軍職を累歴した。明宗の即位後、奉聖指揮使に擢され、天成・応順年間に凡そ十たび軍額を改め、官は検校工部尚書に累まり忠順保義功臣を賜った。清泰中、兵部尚書を加え彰聖都指揮使とし常州刺史を遥領させた。高祖が太原で挙義するに及び、敬威は時に洛下にあり禍が必ず及ぶことを知り、親しい者を召して「人が生きて死のあるのは理の常である、我が兄はまさに大挙を図ろうとしているが、私はもとより偸生して辱めを待ち一時の笑いものになるわけにはいかない」と語り、自ら私邸で自殺した、人は甚だこれを状じた。天福二年、太傅を冊贈され、河南県に葬られた。六年、廣王に追封された。子の訓が嗣ぎ、官は左武衛将軍に至った。敬威の弟に贇がいる。
贇――出自と暴虐
- 贇、字は徳和、[以下に闕文がある]陝州節度使となった。少帝の即位後、同平章事を加えられた。贇は性が驕慢で、使者が至るたびに必ず「小姪は無事か」と問い、暴虐を恣にし、陝の人はこれに苦しんだ。
韓王暉――出自と操守
- 韓王暉、字は徳昭、睿祖孝平皇帝の孫、高祖の従兄である。父の万犮は秦王に追封された。暉は生まれつき龎厚剛毅で雄直、器局があり、行いは径によらず事に臨んで智に富んだ、それゆえ高祖は宗族の中で独りこれを厚く遇した。初め張敬達が晋陽を囲んだとき、高祖は暉を突騎都将に署し、常に所部を引いて敵の不意に出、深く入り力戦し、夷傷し血を流し矢鏃が骨を貫いても辞気はますます厲しく、高祖はこれを壮とした。天福二年、濠州刺史を遥授され皇城都部署を充てた。四年、検校司徒を加え曹州防禦使を授けられ検校太保を加えた。任に涖むや廉潔で下を恤み財利を営まず伎楽を好まず、部人はこれに安んじた。歳余、疾をもって官に終わり太原に帰葬された。八年、太師を冊贈され韓王に追封された。子の曦が嗣いだ。
剡王重𦙍――出自
- 剡王重𦙍。剡王以下の諸王伝は永楽大典に原闕であるが、欧陽史(『新五代史』)によれば重𦙍は高祖の弟であるが、その親疎は明らかでなく、しかし高祖はこれを愛し養って子とした、それゆえ名に「重」を加え諸子に列した。『通鑑』の斉王紀によれば高帝の少弟の重𦙍は早く卒したという。
虢王重英――出自と死
- 虢王重英。虢王伝も永楽大典に原闕であるが、『五代会要』によれば重英は高祖の長子で、天福七年四月に追封された。この書の唐紀によれば清泰三年七月己丑、右衛上将軍の石重英を誅したという。
楚王重信――出自と非業の死
- 楚王重信、字は守孚、高祖の第二子、後唐明宗の外孫である。少くして敏悟で智思があり、天成中、初めて銀青光禄大夫を授けられ検授左散騎常侍とし、まもなく検校刑部尚書を加え相州長史を守り、未だいくばくもなく金紫光禄大夫に遷り検校司徒に超拝され左金吾衛大将軍を守った。重信は唐の明宗・閔帝・末帝に歴仕し、貴戚を恃まず克己復礼し常に恂恂としており、時論に甚だ称された。高祖の即位後、孟津に出鎮し、任に到って月を踰えず民の病を去ること十余事、朝廷に詔があってこれを褒めた。この年、范延光が鄴で叛命し、詔して前霊武節度使の張従賓を遣わし河橋の屯兵数千人を発し東して延光を討たせたが、まもなく従賓は延光と合謀して乱をなし、ついに理所で重信を害した、時に年二十。遠近の聞く者はこれを嘆惜した。詔して太尉を贈った。時に執事は「両漢の子弟で生死ともに三公の位を歴る者はいない」と奏したが、高祖は「この児は善をなして禍を被った、私は甚だこれを愍れむ、自我作古であって例があろうか」と言い、ついに冊命を行った。その年十月、河南の万安山に葬られた。天福七年、沂王に追封され、少帝が嗣位すると楚王に改封された。妃は南陽の白氏、昭信軍節度使奉進の女である。重信には子が二人あり、いずれも幼くして公宮で育ったが、少帝の北遷に及びその終わるところを知らない。
壽王重乂――出自と非業の死
- 壽王重乂、字は弘理、高祖の第三子である。幼くして岐嶷、儒書を好みまた兵法にも通じ、高祖が素より鍾愛していた。即位に及び北京皇城使より左驍衛大将軍を拝し、車駕が浚郊に幸すると検校司空を加え権東都留守とした。まもなく鄴都で范延光が叛し、朝廷は光遠を遣わしこれを討たせ、前霊武節度使洛都巡検使の張従賓に詔して盟津の屯兵を発し鄴下に赴かせたが、たまたま従賓は密かに延光と通じ婁継英らとともに先に河橋を劫し次いで洛邑を乱し、これにより河南府で重乂を害した、時に年十九。従賓が敗れると、高祖は便殿で発哀し輟朝三日、詔して太傅を贈った。この年冬十月、詔して荘宅使の張穎を遣わし喪事を監護させ、河南府の万安山に葬った。天福中、壽王に追封された。妃は李氏、汾州刺史玘の女である。重乂には子がなく、妃は後に落髪して尼となり開運中に京師で卒した。
夔王重進
- 夔王重進。『五代会要』によれば重進は高祖の第五子で、天福七年四月に追封された。
陳王重杲
- 陳王重杲。欧陽史によれば重杲は小字を馮六といい、未だ名づけられぬうちに卒し太傅を贈られ陳王に追封され重杲の名を賜ったという。
重睿
- 重睿。契丹国志によれば、高祖が憂悒し疾を成したある日、馮道が独り対座すると、高祖は幼子の重睿を出させ拝させ、また宦者に懐に抱き入れさせた、けだし馮道にこれを輔立させようとしたのであるが、高祖の崩後、道は侍衛馬歩都虞候の景延広と議し国家多難であるから長君を立てるべきとし、すぐに斉王重貴を奉じて嗣とした。『五代会要』によれば重睿は高祖の第七子で許州節度使、王には封ぜられなかった。欧陽史によれば出帝に従って北遷しその終わるところを知らないという。
延煦
- 延煦。『五代会要』によれば延煦は少帝の長子で陝西節度使を遥領した。『通鑑』によれば趙在礼の家貲は諸帥の中で最も多く、帝はその富を利し皇子の鎮寧節度使延煦にその女を娶らせ、在礼は自ら緡銭十万を費やしたが県官の費はこれの数倍を過ぎたという。
延宝
- 延宝。『五代会要』によれば延宝は少帝の次子で魯州節度使を遥領した。『通鑑』によれば延煦および弟の延宝はいずれも高祖の諸孫で、帝が養って子としたという。会要が引く実録にもいずれも弟の従子で養って子としたとある。欧陽史によれば延煦らは帝に従って北遷した後その終わるところを知らないという。