舊五代史卷六十九 列傳二十一 張憲・王正言・胡裝・崔貽孫・孟鵠・孫岳・張延朗・劉延皓・劉延朗

張憲(字は允中)は晋陽の人。学問を好み荘宗に見出され、掌書記・興唐尹・北京留守などを歴任した。明宗擁立の混乱の中で節を守り趙在礼に通じなかったが、変後に城を委てた罪を問われ処刑された。張延朗は汴州開封の人。梁の租庸吏から後唐に仕え、初めて置かれた三司使に任じられ財政を統括し、末帝即位後は宰相を兼ねた。

年表(6件)
  • 12年915年張憲は荘宗が河朔を平定した際、藩邸の旧を念じて行台に徴された
  • 15年918年張憲が監察を授かり緋を賜り魏博推官に署せられた
  • 3年春925年張憲は車駕が鄴に幸した際、毀された即位壇の意義を奏し宮の西に移させた
  • 4年2月926年張憲は趙在礼が魏州に入り、誘いの使者を斬って書を開封せず奏上した
  • 4年4月24日926年張憲は晋陽の千仏院で死を賜った
  • 長興元年930年張延朗は初めて三司使が置かれ、特進・工部尚書・諸道塩鉄転運等使を拝命した

張憲――出自と後唐での立身

  • 張憲、字は允中。晋陽の人。代々軍功をもって牙校であった。憲は幼くして儒学を喜び、志を励まし経書を離さなかった。太原の地は辺境の雄で人々の多くは武を尚び学問を恥じたが、憲だけは里人の薬縦之と力を精しくして遊学し、弱冠にしてもろもろの経書に通じ、とりわけ『左伝』に精しかった。かつて袖に業とするところを持って判官の李襲吉に謁見すると、一見して欣歎し、辞去にあたり「子よ、これに勉めよ、将来必ず佳器となろう」と言った。石州刺史の楊守業は書を集めるのを好み、家蔵の書を見せたので、見聞は日に博くなった。
  • 荘宗が行軍司馬となり広く俊才を延いたとき、元来憲の名を知っていたので朱守殷に書幣を持たせてこれを招いた。一年余りで褐を釈き交城令となった。任期を終えると、荘宗が世を嗣ぐにあたり太原府司録参軍に補せられた。当時霸府が初めて開かれ、幕客の馬郁・王緘は燕中の名士であり、みな彼と交遊した。
  • 12年(915年)、荘宗が河朔を平定し藩邸の旧を念じて行台に徴した。15年(918年)、監察を授かり緋を賜り魏博推官に署せられた。これより常に簪筆して扈従した。15年、王師が胡柳で戦い周徳威の軍が不利になった際、憲は同列とともに馬を走らせ北へ渡ったが、梁軍が急追し、あわや済えなかった。夕暮れに河を渡ろうとする人は水に陥って没する者が多かったが、憲は従子の朗とともに氷を踏んで渡り、あと少しで岸に至ろうとしたとき、水が陥没した。朗は泣いて馬鞭を差し出して引いたが、憲は「私が犠牲になろう、お前まで陥らせるな」と言った。朗は「季父をこのように見捨てるに忍びません、ともに死んでも恨みはありません」と言い、伏せて鞭を引き続けた。憲は身を躍らせて脱出した。
  • この夜、荘宗は軍中で憲を求めさせたところ、ある者が「王緘とともに殁した」と言った。荘宗は涙を垂れて屍を数日探させたが、無事だと聞くと使いを遣わして慰労した。まもなく掌書記・水部郎中に改まり金紫を賜り、魏博観察判官を歴任した。張文礼を討つのに従い鎮州が平定されると魏博鎮冀十郡観察判官を授かり、考功郎中兼御史中丞に改まり鎮州の留守事を権知した。
  • 荘宗が即位すると詔で魏都校・尚書工部侍郎に遷り租庸使を充てた。8月、刑部侍郎に改まり吏部銓を判じ太清宮制使を兼ねた。荘宗が洛陽に遷ると憲は検校吏部尚書・興唐尹・東京副留守知留守事となった。憲は学識が優れて深く、とりわけ吏道に精しく、聴断を剖析し、人は敢えて欺けなかった。
  • 3年(925年)春、車駕が鄴に幸したとき、易定の王都が来朝し行宮で宴を開き、まさに鞠(蹴鞠)を撃とうとした。初め、荘宗が即位の礼を行うにあたり鞠場の地を卜し、その間に壇を築いていたが、ここに至って詔でこれを毀すよう命じた。憲は「即位壇は陛下が天神を祭接し天命を受けられた場所です、風燥雨湿の他は決して毀すべきではなく、また修理すべきでもありません。魏の繁陽の壇、漢の汜水の墠はいまなお兆象が存在し毀されていません、これが古の道です」と奏し、そのまま宮の西にこれを移させる工事を命じ、数日で完成した。
  • のち憲は公事によって咎めを受け閤門で罪を待ったが、帝は怒り有司に速やかに行事の庭を治めさせ、事に礙る者をことごとく去らせ、ついに即位壇を毀した。憲は密かに郭崇韜に「不祥はなはだしい、その根本を軽んじている」と言った。秋、崇韜が兵を率いて蜀を征するにあたり、手書で憲に「允中は事を避けて久しい。私は命を受けて西征する、すでに公を黄閤(宰相府)に還るよう奏した」と告げると、憲は「庖人(料理人)が尸祝(祭祀官)に代わるのは、いわゆる私の事ではない」と返答した。
  • 当時、枢密承旨の段徊が権を当て事を任じており、憲が従龍の旧望であるため朝廷に留めることを望まず、ちょうど孟知祥が蜀州に鎮しそこで北京留守を選ぶにあたり、徊は「北門は国家の根本、重徳でなければ軽々しく授けられない、いまの取才は憲でなければならない」と揚言した。時勢に趨る者はこれに乗じて徊の勢いに阿附し巧みにこれを中傷し「憲には相業の力量があるが、国祚が中興し宰相が天子の面前にいれば得失を改作できる、しかし一方の事は一人に制せられる、ただ北面の事は重い」とも言った。
  • 11月、憲に銀青光禄大夫・検校吏部尚書・太原尹・北京留守知府事を授けた。4年(926年)2月、趙在礼が魏州に入ったとき、憲の家族は魏にあり関東は騒乱していたが、在礼はその家族を厚遇し、人を遣わし書を太原に持たせ憲を誘った。憲はその使者を斬り、書は開封せずに奏上した。まもなく明宗が兵衆に劫かされ諸軍が離散すると、地が遠くて事実が分からなかった。ある者が憲に「蜀軍はまだ至らず、洛陽は窘急し、総管もまた兵権を失い、制は諸軍の手にある。また河朔で推戴の事が起こっていると聞くが、もし本当ならばうまくいくかもしれない」と言うと、憲は「治乱の機は間髪を容れない、愚見では事はまだ知れない。私が薬縦之から聞いたところでは、総管の徳量は仁厚でもとより士心を得ているという、これ以上は多く言わない、志はここに尽きる」と言った。
  • 4月5日、李存渥が洛陽から至り、口伝で荘宗の命を伝えたが、書詔は一切なく、ただ天子が矢を一本授けこれを信としたと言うだけであった。衆心はこれを疑った。時事が測りがたい中、左右のある者が「存渥の乗ってきた馬はすでにその飾りを収められており、また人を召して事を謀ろうとしている、密かに禍を為すつもりで、城に拠って我を害するのではないか、その前に手を打つべきだ。ただ呂・鄭の二宦官を殺し、存渥は繋いでおいて、その変を徐に観察すれば事は万全である」と献策した。
  • 憲は良久しく考えて「私はもと書生で軍功もないのにここまで身を立てられた。かつて布衣から金紫を纏うことになったのは、これまでの仕官が他の門から出たものではない。この計略は私の心ではない、事がもし成らなければ身をもって義に殉じよう」と言った(『東都事略』張昭伝によれば、昭が憲に表を奉じ明宗に勧進するよう勧めたところ、憲は「私は書生である、天子から保釐の任を委ねられている、どうして苟且に生きようか」と言い、昭は「これは古の大節です、公はこれを行うことができる、忠臣です」と言った。憲が死んだのち、論者は昭が憲の節を成したとしたという)。
  • 翌日、符彦超が呂・鄭を誅すると、軍城は大いに乱れ焚き掠奪すること夜明けまで続いた。憲は初め変があると聞いて沂州へ奔り出たが、まもなく有司はその城を委てた罪を糾した。4月24日、晋陽の千仏院で死を賜った。幼子の凝は父に随って走ったが、これもまた捕えた者に害された。明宗が郊礼で大赦した際、有司が昭雪を請い、これに従った。
  • 憲は沈静で欲少なく、図書を集めるのを喜び、家蔵の書は五千巻、事に当たる余暇に自ら手で刋校し、琴をよく弾き酒を飲まなかった。賓寮との宴語もただ文を論じ嘯咏するばかりであった。士友はこれを重んじた。憲の長子守素は晋に仕え位が尚書郎に至った。

王正言――出自と後唐での立身

  • 王正言、鄆州の人。父の志は済陰令であった。正言は早くに孤となり貧しく、沙門に従って学び詩に工みであった。密州刺史の賀徳倫に俗に帰るよう命じられ郡職に署せられた。徳倫が青州に鎮すると推官に表され、魏州に鎮を移すと観察判官に改まった。荘宗が魏博を平定すると正言はもとの職のまま留任し、小心端慎で物と競うことがなかった。
  • かつて同職の司空頲に凌がれたが、正言は心を降してこれに従った。頲が誅されるとその代わりに節度判官となり、同光初、戸部尚書・興唐尹を守った。当時、孔謙が租庸副使であり、常に張憲を畏れていたので、頲はとりわけ憲がその使を領することを望まず、郭崇韜に告げて憲を魏州に留め宰相豆盧革に租庸を判じさせるよう請うたが、まもなく再び盧質にこれを代わらせた。
  • 孔謙は「銭穀の重務は宰相の事が多く簿籍が滞る」と言い、また「盧質は判ずること二日で早くも官銭を借りている、任せてはならない」とも言った。崇韜は必ず自分に代えて任せると意ってしまったので、当時物議は認めず取りやめとなった。謙は久しく沮喪していた。
  • 李紹宏は「邦計・国本は時に怨府と号され、張憲でなければ職に称わない」と言い、即日彼を徴した。孔謙・段徊は崇韜に「邦計は重いといっても侍中の眼前で一人を得て使とすればよい。魏博六州の戸口は天下の半分にあたり、王正言は操守は余裕があるが智力は足りない。もし朝廷で任使すれば人と共事できるだろうが、もし一方を専制させるならその可否は見えない。張憲は才器が兼済しており、これを委ねるべきだ」と言った。崇韜はすぐに憲を魏州留守に奏し王正言を租庸使に徴した。
  • 正言は職にあってただ諾を主とするのみで、権柄は孔謙から出た。正言は繁多な簿領を耐えられず、触れる事すべてを忘れがちになり、物論はこれを不可とし、すぐに孔謙がこれに代わった。正言は礼部尚書を守った。3年(925年)冬、張憲に代わり興唐尹・鄴都留守となった。
  • 当時、武徳使の史彦瓊が鄴都の廩帑の出納・兵馬の制置を監守し、すべて彦瓊から出ていたので、将佐官吏は頥指気使(顎で指図し気で使う)した。正言は道をもってこれを御することができず、ただ躊躇して命に聴くばかりであった。ここに至り、貝州の戍兵が乱を起こし魏州に入ると、彦瓊は風を望んで敗走した。乱兵が坊市を掠奪すると、正言は書吏を促し催して奏章を書かせたが、家人は「賊はすでに人を殺し火を放ち、都城はすでに陥ちました、何を奏すというのですか」と言った。この日、正言は諸僚佐を率いて趙在礼に謁見し(『通鑑』によれば、正言は馬を求めても得られず、僚佐を率いて歩いて将門から出て在礼に謁見したという)、遠くから望んで再拝し罪を請うた。在礼は「尚書は重徳、自ら卑屈になることはない。私は国恩を受け尚書と事を共にしてきた、ただ帰趨を思う衆に急に迫られただけだ」と言い、正言を拝して厚く慰撫した。
  • 明宗が即位すると正言は平盧軍行軍司馬になることを求め、これに授けられ、ついに任にて没した。

胡裝――出自と後唐での立身

  • 胡裝、礼部尚書曾の孫。汴将楊師厚が魏州に鎮するに及び、裝は副使の李嗣業と旧知であったので往ってこれに依り、推薦されて貴郷令を授かった。張彦の乱に嗣業が害されると、裝は職を罷され魏州を客遊した。荘宗が初めて至った際、裝は謁見して仮官を求めたが、司空頲がその居官が貪濁であるとし久しく任じられなかった。
  • 13年(916年)、荘宗が太原に還ったとき、裝は離亭で候っていたが謁者は入れなかったので、扉を排して入り「臣はもと朝の公卿の子孫、兵に従ってここに至りました。殿下は近ごろ唐の祚を襲われ、勤めて英俊を求め霸図を壮んにしようとされています。臣は不才とはいえ、九九の術(些細な芸)を進めた者を納れ豎刁の頭須をも用いた古のことわりに比べれば、庶幾はあります。しかし羈旅すること累年、執事者は顧録してくれません。臣は海に赴くことも樹に触れることもできず、胡へ走るか越へ適くしかありませんが、今日は殿下の元へ死を帰しに参りました」と言った。荘宗は愕然として「孤はこれを知らなかった、どうしてここまでになったのか」と言い、酒食を賜り慰め遣わした。郭崇韜に「すぐに擬議せよ」と言い、この年、館駅巡官に署せられた。
  • まもなく監察御史裏行を授かり、節度巡官に遷り緋魚袋を賜り、まもなく推官・検校員外郎を歴任した。裝は書を学ぶのに師法がなく、詩に工みであったが作者ではなかった。壁に題するのを偏愛し、至る所の宮亭寺観には必ず爵里を書き、人はある者はこれを譏ったが恥じることはなかった。当時、四鎮の幕賓はみな金紫であったが、裝だけは銀艾(銀印緑綬)を恥じていた。
  • 17年(920年)、荘宗が魏州から徳勝に赴く際、賓僚と城楼で餞別したが、群僚が席を離れても裝だけは留まり詩三篇を献じ、意は章服(官服)にあった。荘宗は大鍾を挙げて裝に「員外はこれを飲み干せるか」と言った。裝は元来酒を飲む量が少なかったが、少しも難色を見せずこれを一気に飲み干した。荘宗はすぐに紫袍を解いてこれを賜った。
  • 同光初、裝は給事中となり洛陽に幸に従った。当時連年大水があり百官の多くは困窮していたので、裝は襄州副使になることを求めた。4年(926年)、洛陽の変擾の際、節度使劉訓は私怨をもって裝の一族を殺したが、裝が謀反を企てたと誣奏したもので、人士はこれを冤とした。

崔貽孫――出自と後梁・後唐での立身

  • 崔貽孫(『新唐書宰相世系表』によれば字は伯垂という)、祖の玄亮は左散騎常侍(『世系表』によれば字は晦孫、虢州刺史という)、父の芻言は潞州判官であった。貽孫は門族をもって進士第に登り、監察をもって朝に昇り清資美職を歴め、省郎となって江南に赴き、還るときに嚢裝(金品)をもって漢上の穀城に別荘を営み、退居して清江のほとりで自らを養った。緑竹が野に遍く狭い径は深く密で、舟を西岸に維えても人は訪れなかった。時人は大いにこれを高しとした。
  • 李振が均州に貶されると、貽孫は曲げてこれに仕え、振が入朝すると貽孫は累って丞郎に遷った。同光初、吏部侍郎に除せられたが銓選が疎謬であったため、辺塞の地に貶官された。駅馬を馳せて潞州に至り、府師の孔勍に書を送り「十五年、穀城の山裏にみずから逸人と称していたが、二千里の沙塞の途中、今は逐われる客となった」と言った。
  • 勍はその年齢が80であることから、府下に留め置くよう奏し、翌年、澤州司馬に量移された。赦に遇い京に還り、宰相の鄭珏が姻戚の縁により再び吏部侍郎に擬しようとしたが、天官(吏部)の任は重く昏耄でその後を知らず、礼部尚書に遷って致仕し没した(『北夢瑣言』によれば、崔貽孫は80歳を過ぎても進むことを求めてやまず、囊橐の資はもとより貯積があり、性は人に取り入るのを好み小恵を得るのを喜んだという)。
  • 子は三人あり、貽孫が左降されてより各々旧業に散らばりその利を争って甘旨(美味な食事)や医薬を奉じる者はなかった。貽孫は書をもってこれを責め「生きては明君・宰相があり、死しては天曹・地府がある。私は寿を全うするとしても、どうしてお前たちを放っておこうか」と言った。

孟鵠――出自と後唐での立身

  • 孟鵠、魏州の人。荘宗が初めて魏博を定めた際、幹吏を選んで兵賦を計らせ、鵠を度支孔目官とした。明宗の時、郭洺節度使となり、いつも意を曲げて承迎したので、明宗はこれを大いに徳とした。孔謙が軍賦を専典し徴督が苛急であったとき、明宗はかつて切歯していた。
  • 即位に及び、鵠は租庸勾官から客省副使・枢密承旨に抜擢され、三司副使に遷り、出でて相州刺史となった。范延光が再遷して枢密になると、鵠を三司使に徴した。初め鵠には計画の能があったが、邦賦を専掌するに及んで操割が依違し、名誉はたちまち減じた。
  • 一年で発病し外任を求め、そのまま許州節度使を授かった。謝恩して退くとき帝は目でこれを送り、侍臣を顧みて「孟鵠は三司を掌ることわずか何年で方鎮に至った」と言った。范延光が「鵠は同光の世にすでに三司勾官であり、天成初、三司副使となり、出でて相州を刺し、入って三司を判ずること、また二年になります」と奏すると、帝は「鵠は幹事によってにわかに方鎮に至った、どうして努めないでいられようか」と言った。
  • 鵠は延光とともに魏の人で、厚く互いに結託し、延光が枢務を掌るに及んでその推薦で三司を判じ、さらに節鉞を得た。明宗はこれを知っていたので、この言葉をもって譏ったのである。任にあること一年に満たずして没した。太保を追贈された。

孫岳――出自と後唐での立身

  • 孫岳、稷州の人。強幹で才があり、府衛の右職を周く歴任した。天成中、潁・耀二州の刺史、閬州団練使となり、至る所で治を称された。鳳州節度使に遷り、代わりを受けて京に帰った。秦王従栄が岳を元帥府都押衙にしようとしたが事が行われないうちに、馮贇が三司使に挙げた。
  • 当時、朱弘昭・馮贇は密謀に与り、従栄の恣横を患い、岳はかつてその禍の端を極言した。康義誠はこれを聞いて悦ばなかった。従栄が敗れると、義誠は岳を召して河南府に赴き府蔵を検閲させたが、当時紛擾がまだ定まらず、義誠は密かに騎士を遣わしてこれを射た。岳は通利坊に走り騎士に害された。識る者も識らない者もみなこれを痛んだ。子の璉は諸衛将軍・藩閫節度副使を歴任した。

張延朗――出自と後梁・後唐での立身

  • 張延朗、汴州開封の人。梁に仕え租庸吏として鄆州糧科使となった。明宗が鄆州を克くすと延朗を得て再び糧科使とし、のち宣武・成徳に鎮を移すにあたり元従孔目官とした。長興元年(930年)、初めて三司使を置くと、延朗を特進・工部尚書に拝し諸道塩鉄転運等使を充て戸部・度支の事を兼判させ、詔で延朗に三司使を充てた。
  • 末帝が即位すると礼部尚書兼中書侍郎平章事を授け三司を判じさせた。延朗は再び表を上げて辞し「臣はみだりに雨露を承け鈞衡(宰相)に擢処され、あわせて選部の銜を叨し、なお計司の重を掌り、しかも中省は文章の地、洪鑪陶鋳の門です。臣自ら量るにどうしてこれに当たれましょう、これをもって章表を重ねて陳べ情誠を重ねて貢ぎ睿恩を乞い朝論に累を貽さないよう願います。しかし御批がしきりに降り聖旨は動かず、この官を臣に委ねるのは器に非ずと決せられました。そこで強いて涕泗を収め怔忪(不安)を勉めて遏え、重ねて事上の門を思い細かに尽忠の路を料ります。ひそかに思うに位が高ければ危うく、寵が極まれば謗が生じ、君臣も初終を保ち難く、分義も毀誉を防ぎ難いものです。臣がこの重任を保ち至公を忘れ、情に狥って是非を免れ、偸安して富貴を固めるようであれば、内に心腑を欺き外に聖朝に背くことになりましょう、どうして君父の大恩に報い子孫の延慶を望めましょうか。臣がもしただ王道を行い国章を守るのみで、人を任じるには必ず当才を取り、事を決するには必ず正理に依り、形勢に確固として違い倖門を堅く塞げば、宏綱を振挙し大化を弥縫し陛下の含容の沢を助け国家至理の風を彰すことができましょう。しかし讒邪の者は必ず憾詞を起こし憎嫉の者はどうして謗譏がなかろうか、あるいは至尊がもろもろの謗を悉く知られず本を抜き源を尋ねずに、そのまま瑕を甘んじ玷を受けさせられれば、臣の心は忍べても臣の恥は消えません。ただ恐れるのは山林草沢の人が聖制を称量し、冠履軒裳の士が朝廷を軽んじることです。臣はまた国計の一司はその経費を掌り、利権の二務はその捃収を職とすることを思います。四海の貧民を養おうとすれば薄賦を過ぎるべきではなく、六軍の勁士を贍そうとすればまた豊儲に藉らねばならず、利害は相随い取与は酌みがたいものです。もし山を尽くして木を採り沢を竭くして魚を求めるようなことをすれば、地官の教化は行われず国本の傷残はますます甚だしくなり、黔首の怨みを取ることは皇風を黷すことになります。しかも諸道が徴する賦租は数額は多いといえど、時に水旱に逢い、あるいは蟲霜に遇えば、その間には減ることはあっても添うことはなく、所在ではまた逃亡係欠を申し出て、軍儲・官俸に至っては帝が汲々として供須され、夏税・秋租もいつも継続を懸念されるほどです。しかもいま内外の倉庫は多くが空しく、遠近の生民はあるいは飢饉を聞きます。伏して願わくは朝廷は軍額を添えることを尚び師徒を益すことに際し、非時の伝糴が異日の区分を難くすることを恐れ、転じて大いにひそかに年支の欠を国計の憂いとされんことを。陛下が例外の破除を節し諸項を放って倹省し冗食を添えず、新兵に急を務めるのはひとまず止め、繁を去って経費を寛め、奢を減じて倹に従い、しだいに豊盈を俟たれることを望みます。そうすれば屈する者は恩を知り叛く者は化に従い、いよいよ兵に日々富み俗が期せるでしょう。臣はまた民を治めるには清を尚び政を為すには易を務めると聞きます。易であれば繁苛はともに去り、清であれば偏党は施す場がなくなります。もしその良牧を選んで正人に委ねれば、境内の蒸黎は必ず蘇息を得られ、官中の倉庫もまた侵欺が絶えるでしょう。伏して望むらくは、いま在る所の官には撫俗に乖くことがないよう誡め、将来蒞事する者を選ぶにはさらに審らかに賢を求められんことを。もし一々人を得れば農は苦しむ所がなく、人ごとに理を致せば国はまた何を憂えましょう。ただ公を奉じ善政をなす者には厚い報酬を惜しまず、理に昧く功なき者には厚い俸を頒たなければ、いよいよ有道を彰し兼ねて狥情を絶つことができましょう。伏して願わくは陛下が臣の布露した前言を念い、臣の後患を驚憂する心を閲し、臣の愚直を察して彼の讒邪を杜がれんことを。臣はただ天心に副うのみで人口を防ぎません、庶幾は万一にも聖明にお応えするものです」と述べた。
  • 末帝は優詔でこれに答え、便殿に召して「卿の論奏は深く時病に中り、切言はよく朕の失を救う。国計の事は重要だが、日々商量を得られれば過度に思い煩う必要はない」と言った。延朗はやむを得ず命を承けた。延朗は心計があり繁劇をよく治めた。
  • 晋の高祖が太原にあったとき、朝廷が猜忌して積聚を持たせたくなかったため、係官の財貨は留使の外は延朗がことごとく取らせた。晋の高祖は深くこの事を恨んだ。晋陽で挙兵すると末帝は親征を議したが、浮論を採って果決できずにいた。延朗だけは衆議を退けて末帝の北行を請い、識者はこれをよしとした。晋の高祖が洛に入ると台獄に送りこれを誅した。その後、計使を選び求めるに人を得難く、大いに追悔したという。

劉延皓――出自と後唐での立身

  • 劉延皓、応州渾元の人。祖の建立、父の茂成はみな軍功をもって辺将に推された。延皓は劉后の弟である。末帝が鳳翔に鎮していたとき延皓を元随都校に署し、奏で検校戸部尚書を加えた。清泰元年(934年)、宮苑使を除せられ検校司空を加え、まもなく宣徽南院使・検校司徒に改まった。2年(935年)、枢密使・太保に遷り、出でて鄴都留守・検校太傅となった。
  • 延皓は軍を御し政を失い、屯将の張令昭に逐われ相州へ奔り出た。まもなく詔でその任を停められた。晋の高祖が洛に入ると、延皓は龍門の広化寺に逃げ隠れたが数日で自ら縊れて死んだ。
  • 延皓は初め后戚をもって藩邸から出入りする左右であり、たいそう温厚で称せられたので、末帝の即位後は近密に委任された。鄴に出鎮するに及んでその執るところは一変し、人の財賄を掠め人の園宅を納れ歌僮を集めて長夜の飲を為し、三軍への給与は時を違えたので内外はこれを恨み、これにより令昭に逐われた。当時、執政は延皓の失守により旧章を挙げるよう請うたが、末帝は劉后の内政の縁故により罷免に止めるだけであった。これより清泰の政は弊れた。

劉延朗――出自と後唐での立身

  • 劉延朗、宋州虞城の人。末帝が河中に鎮していたとき軍城馬歩都虞候であったが、のち腹心に納れられた。鳳翔に鎮するに及んで孔目吏に署せられた。末帝が起義を図ろうとしたとき、捍禦の備えとして、延朗は公私の粟帛を計り急に応えた。西師が降を納れ末帝が洛に赴くにあたっても欠けるところがなく、末帝は大いにこれを賞した。
  • 清泰初、宣徽北院使を除せられ、まもなく劉延皓が鄴を守るのに伴い副枢密使に改まり、累官して検校太傅に至った。当時、房暠が枢密使であったがただ高枕安眠するばかりで、啓奏・除授はすべて延朗に帰し、これによって延朗は志を得た。
  • およそ藩侯・郡牧で外から入る者は必ず先に延朗に賂を送り、その後に進貢を議し、賂の厚い者は先に内地に居り、賂の薄い者は遅く辺藩に出るありさまであった。ゆえに諸将にしばしば怨みの声があったが、末帝はこれを察することができなかった。
  • 晋の高祖が洛に入ると、延朗は高山に竄れようとし、従者数輩とともにその私第を過ぎたとき、これを指して嘆じ「私は銭三十万貫を持っている、ここに集めていたが、いま誰の手に渡るか分からない」と言った。その愚暗はこのようであった。まもなく捕らえられて殺された。