舊五代史卷六十五 列傳十七 李建及・石君立・髙行珪・張廷裕・王思同・索自通

李建及(?-920年)は許州の人。本姓は王。李罕之に仕えたのち武皇に献じられ義児軍に加わった驍将で、荘宗に従い柏郷・元城・胡柳・徳勝南城などの戦いで功を立てたが、讒言により疑われ憤って太原で没した。王思同は幽州の人。劉仁恭の客将から武皇・荘宗・明宗に仕え隴右・京兆尹などを歴任した文武兼備の将だが、末帝(潞王)挙兵の際に鳳翔攻撃の任にあたって敗れ、捕らえられて殺された。

年表(7件)
  • 天祐7年910年李建及が匡衛軍都校に改まり、柏郷の戦い後に橋で汴軍を防いだ
  • 14年917年李建及が幽州で契丹を撃って破るのに従った
  • 16年919年李建及が汴将賀瓌の徳勝南城攻めで綱を断ち火を放って城を救った
  • 17年3月920年李建及が代州刺史を授かった
  • 17年920年李建及は功がありながら疑われ憤り、太原で没した。享年57
  • 長興元年930年王思同が入朝し秦州の辺事を奏し、四十余の寨を置いて要害を控えたと述べた
  • 3年932年王思同は両川交戦に際し、明宗の密詔を受けて形勢を相度した

李建及――出自と後唐での立身

  • 李建及、許州の人。本姓は王、父は質。建及は若くして李罕之に仕え紀綱(幹部役)となった。光啓中、罕之が武皇に晋陽で謁見した際、部下の驍勇な者百人を選んで献じ、建及もその中に選ばれた。のち功により牙職に署せられ義児軍を典り、姓名を賜った。
  • 天祐7年(910年)、匡衛軍都校に改まった。柏郷の戦いののち、汴将韓勍が周徳威を追い高邑南の野河の上に至り、鎮定の兵が橋道を扼していたが、韓勍は精兵を選んでこれを先に奪った。荘宗は高きに登って望み、鎮定の兵が挫けそうなのを見て建及に「もし賊が橋を過ぎれば勢いを遏められない、卿の計はどうか」と問うと、建及は部下から士二百を選び槍を挺げ大いに叫んで汴軍を防ぎ、橋の下に退けた。
  • 2月、王師が魏を攻めたとき、魏人が夜に営を犯そうとしたので、建及は伏兵を設けて待ち、帰路を扼してことごとくこれを殲滅した。劉鄩が莘県に営し月余り出撃しなかったが、ある朝突然兵を放って鎮定の営を攻め、軍中は大いに乱れた。建及は銀槍の勁兵千人を率いて赴き汴軍を撃破し、その塁まで追撃した。
  • 元城の戦いでは建及がまっさきにその陣を陥れ、天雄軍教練使を授かった。8月、遼州刺史に遷った。14年(917年)、幽州で契丹を撃って破ることに従った。12月、楊劉を攻めるのに従い、寅の刻から午の刻まで汴軍は城に籠って拒守したが、建及はみずから葭葦を背負って壕を埋め、率先して梯に登りついにこれを抜いた。
  • 胡柳の戦いでは前軍が逗留し進まなかったが、日が暮れる頃、汴軍が土山に登ると建及は一戦してこれを奪った。荘宗が軍を収めて明朝合戦しようとすると、建及は矛を横たえて前に立ち「賊の大将はすでに亡んだ、この機に乗じて撃ちやすい。王はただ山に登って臣が賊を破るのをご覧あれ」と言い、すぐに銀槍効節を引いて大いに叫び奮撃したので、三軍は気を増し、これにより王師は再び振るった。功により検校司空・魏博内外衙都将を授かった。
  • 16年(919年)、汴将賀瓌が徳勝南城を攻め、戦船十余艘を竹の綱で繋いで津路を扼断し、王師は渡ることができなかった。城中は矢石が尽きようとし、守城将の氏延賞は危急に陥った。荘宗は軍門に帛を積み、賊船を破れる者を募った。津人に馬破龍という者がいて水を泳ぐのが得意で、行かせて延賞に会わせた。延賞は「危窮きわまりない、争うのは僅かな時だ」と言い、そのとき棹船が河にあふれ流れ矢が雨のように集まる中、建及は重い鎧を被り矛を執って「一衣帯水を隔てただけで賊にこれほどやられてよいものか」と叫び、二隻の船に甲士を満載し、みな短兵と斧を持って梁の戦艦にまっすぐ迫り、その綱を斧で断ち、さらに上流に甕を備え薪を積み、流れに順って火を放ってその艦を攻めさせた。しばらくすると煙焔は激しく燃え上がり、梁軍は綱を断って逃げ、建及はこうして南城に入った。賀瓌は囲みを解いて去った。
  • その年12月、汴将王瓚と戚城で戦い、建及は手を傷つけたが、荘宗は御衣・金帯を解いてこれを賜った。建及は胆気があり慷慨として群を抜き、陣に臨み軍を鼓するとき意気は横壮であった。荘宗が魏州に至って以来、建及は内外衙・銀槍効節の帳前親軍を総べ、統率が巧みで得た賞賜はすべて部下に分け与え、甘いものを絶ち少ないものを分けたので、大いに軍情に叶い、また累々と戦功を立て、雄勇は他を圧倒した。
  • これを憎む雌劣な者たちは彼を讒った。当時、宦官の韋令図が建及の軍を監し、いつも荘宗の前で「建及は家財をもってしきりに施しをしており、その志向は小さくない、衙兵を典らせてはならない」と言った。荘宗はこれにより彼を疑うようになった。建及は元来忠実な性質で、讒言や陥れがあることを知っていても操を変えなかった。
  • 17年(920年)3月、代州刺史を授かった。8月、李存審とともに河中に赴き同州の囲みを解いた。建及は若くして禍乱に遭い、久しく戦陣に従い矢石を受け続けて肌は完膚なく、また功があってなお疑われたので、心中憤り鬱した。この年、太原で没した。享年57。

石君立――出自と後唐での立身

  • 石君立、趙州昭慶の人。また「石家財」とも呼ばれた。初め代州刺史李克柔に仕え、のち李嗣昭に隷して牙校となり、諸軍を歴典した。夾城の戦いののち、君立はいつも出撃して汴軍の柵塁を攻め、俘虜を捕らえて帰った。
  • 8年、汴軍と龍化園で戦いこれを破り、大将卜渥を捕らえて献じた。嗣昭が出征するたびに君立を前鋒とし、敵はこれを畏れた。
  • 王檀が晋陽に迫った際、城中は備えがなく、安金全は市人を駆って城壁に登らせたが、守りは十分でなかった。当時荘宗は魏博にいて救援する余裕がなく、人心は危懼した。嗣昭は君立に騎五百を率いさせ、上党から朝に発って暮れに至らせた。王檀の遊軍が汾橋を扼していたが、君立は一戦でこれを破り、まっすぐ城下に至り馳突・斬撃して出入すること神のごとく、大いに「昭義侍中の大軍が至った」と叫んだ。この夜城に入り、安金全らと分かれて諸門から出て外で撃殺し、明け方には梁軍は敗走した。
  • 17年(920年)、兵を率いて徳勝に屯していたとき、汴軍は滑州から糧を転送して楊村砦に給していた。荘宗はみずから騎軍を率いて河外を岸沿いに上りこれを邀撃した。汴人は楊村から五十里の河曲潘張村に拠って塁を築き軍儲を貯えていた。荘宗が諸軍にこれを攻めさせると、汴人は要路に伏兵を設けて迎え戦い、偽って敗れたので、王師がこれに乗じて塁門に躍り入ると、梁の伏兵が起こり血戦となった。
  • 君立は鎮州の大将王釗とともに賊塁に隔てられて入り込み、当時諸将・部校で賊に陥った者は十余人であった。君立は捕らえられ汴に送られた。梁王はもとよりその驍勇を知り用いて将にしようとし、械をつけて獄に下した。しばらくして梁主が人を遣わして誘うと、君立は「敗軍の将は勇を語りがたい。もし私を将にしたいなら、私が真に誠を尽くして命を効すとしても、私を信じられるだろうか。人にはみな主君がある、私はどうしてしのびなく仇の人のために働けようか」と言った。まもなく諸将は誅されたが、君立を惜しみなお害さずにいた。
  • 同光元年(923年)、荘宗が汴に至る前日、梁主はついに彼を殺させた。

髙行珪――出自と後唐での立身

  • 髙行珪、燕の人。一家は代々勇悍で、弟の行周とともに武芸に優れた。初め燕に仕えて騎将となり、驍果は諸将にまさった。
  • 燕帥劉守光が僭逆し不道であったため、荘宗は周徳威に命じてこれを征伐させた。守光は大いに恐れ、行珪を武州刺史として掎角の勢いを張らせた。当時明宗は兵を率いて徳威を助け燕を平定していたが、俄かに行珪が到来したと聞き、騎を率いてこれに備えたが、明宗が逆順の理を諭すと行珪は降った。
  • 守光の将元行欽は山北にいて行珪の変を聞き、部下の軍衆を率いて行珪を攻めた。行珪は弟の行周を遣わして周徳威に急を告げ、徳威は明宗・李嗣本・安金全に兵を率いて援けさせた。明宗は広辺軍で行欽を破り、行欽もまた降った。
  • まもなく行珪は朔州刺史となり忻・嵐二郡を歴任し、雲州留後に遷った。天成初、鄧州節度使を授かり、まもなく安州に鎮を移した。行珪は性貪鄙で政に短け、安州にあった日、行いは多く不法であった。
  • 副使の范延策は幽州の人で、性剛直であり累って賓職を務め、行珪を佐けるにあたりその貪猥ぶりを見て強く諫めたが、行珪は従わなかった。のち延策は入って封章を闕下に献じ奏したが、その事に三つの条があった。一つは、淮を過ぎる猪羊を禁じずに絲綿・疋帛を禁じて中国を実らせること。一つは、山林の要害に軍鎮を置いて盗賊を絶つこと。一つは、藩侯の弊を述べ、勅で従事に諫諍を明らかにさせ、これに従わない者があれば諸軍校を列班して廷諍させることを請うたものであった。行珪はこれを聞いて深く恨みを抱いた。
  • のち戍兵が乱を起こした際、延策がこれと共謀したと誣奏し、父子ともに汴で誅された。聞く者はこれを冤とした。まもなく行珪は病で没し、詔で太尉を追贈された。

張廷裕――出自と後唐での立身

  • 張廷裕、代北の人。幼くして武皇に雲中で仕え、黄巣を平らげ王行瑜を討つのに従い、行間からしだいに小将に昇った。
  • 荘宗が魏を定めると天雄軍左廂馬歩都虞侯に補せられ、蔚・慈・隰三州の刺史を歴任した。同光3年(925年)、新州節度使に任じられた。塞上は事が多く、廷裕は統御の術に欠け、辺鄙は常に不安であった。
  • 天成3年(928年)、任地で没した。詔で太保を追贈された。

王思同――出自と後唐での立身

  • 王思同、幽州の人。父の敬柔は瀛・平・儒・檀・営五州の刺史を歴任した。思同の母は劉仁恭の娘であり、そのため思同は初め仁恭に仕え帳下の軍校となった。
  • 劉守光が大安山で仁恭を攻めたとき、思同は部下の兵を率いて太原に帰した。時に16歳。武皇は飛騰指揮使に任じ、荘宗に従って山東を平定するのに累って諸軍を典った。
  • 思同は性が疎放で俊爽、粗く文才があり詩什を作るのを好んで人と唱和し、みずから「薊門戦客」と称した。魏王継岌はこれを子のように待遇した。当時内養の呂知柔が興聖宮に侍り大いに権勢を振るったので、思同はこれを不平に思った。呂が「終南山」の詩を作り末句に「頭」の字があると、思同は「料伊直擬衝霄漢賴有青天壓著頭(それは天を衝くつもりだろうが、青天が頭を圧しているのが幸いだ)」と和した。作る詩句はすべてこの類であった。
  • 出征のたびいつも興聖の帳下にいたが、同光朝では位はただ鄭州刺史に止まった。明宗は軍にあった時からこれを知っていたので、即位後、同州節度使に用い、まもなく隴右に鎮を移した。思同は文士を好み、賢不肖にかかわらず必ず館に迎え財を贈り、年々数十万を費やした。秦州にあること数年、辺民はその恵みを慕い、華戎ともに安寧であった。
  • 長興元年(930年)、入朝して中興殿に見え、明宗が秦州の辺事を問うと、「秦州は吐蕃と境を接し、蕃部は多くが法度に違います。臣は法を設けて招懐し、沿辺に四十余の寨を置いて要害を控えました。蕃人が互市するたびその境界で飲食を供し、手ずから秦州の山川・要害・控扼の地を指し示しました」と答えた。明宗は「人は思同は事を管理しないと言うが、どうしてこれほどのことができようか」と言った。
  • 当時両川が叛き、彼を用いようとしながらもしばらく左右に留めたため右武衛将軍を授けた。8月、西南面行営馬歩都虞侯を授かり、9月、京兆尹・西京留守に遷った。蜀を伐つ役では先鋒指揮使となり、石敬瑭が大散関に入ると、思同は勇に恃んで先に剣関に入ったが、大軍がまだ続かないうちに再び董璋の兵に逐われて出された。
  • 敬瑭が班師するに及び、思同はかつて剣門を得た功により山南西道に鎮を移した。3年(932年)、両川が交戦すると、明宗は一人に併せて任せれば朝廷が制しがたくなるのを慮り、密かに思同に詔して形勢を相度させ、機に乗じて軍を用いさせようとしたが、事が行われないうちに董璋は敗れた。
  • 8月、再び京兆尹・兼西京留守となった。当時潞王が鳳翔に鎮し隣境にあったが、潞王が朝旨を奉じず秦・涇・雍・梁・邠の諸師に書を送り「賊臣が乱政し、先帝が疾篤の折に秦王を害することを謀り嗣君を迎え立て、みずから権柄を専らにして骨肉を残害し藩垣を揺るがした。先人の基業がたちまち地に墜ちるのを恐れ、必ず入朝して君側の悪を除くことを誓う。事が済んだのちは病を謝して藩に帰る」と言った。
  • しかし藩邸は元来貧しく兵力もともに困窮していたので、国士の助けを希って共に急難を済おうとし、小伶女十人に五絃の技をもって思同に見せ、これによって歓を諷し動かそうとした。また軍校の宋審温という者が雍に使いすることを請い、もし命に従わなければ独りでこれを図ろうとした。また推官郝昭・府吏朱延乂に書檄をもって起兵させようとした。
  • ちょうど副部署薬彦稠が至り、まさに宴していたところに妓使が到着したので、これを獄に繋いだ。彦稠は審温を誅すよう請い、郝昭を拘えて闕に送った。当時思同はすでにその子を入朝させ事を言上させており、朝廷はこれを嘉して思同を鳳翔行営都部署とし、軍を扶風に起こし営した。
  • 3月14日、張虔釗と岐下で会し、梯衝が大集した。15日、東西の闕城を進めて収めたが、城中は戦備が整っておらず、それでも死力を尽くして防ぎ、外兵で傷ついた者は十に二三であった。16日、再びその城を攻め、潞王は城壁に登って外に泣いて訴え、聞く者はこれを悲しんだ。
  • 張虔釗は性狭く、明朝西南で軍を用いる際、都監とともにみな血刃をもって軍士を督したので、軍士は齊しく詬り虔釗に反攻した。虔釗は馬を躍らせてこれを避けた。時に羽林指揮使楊思権が軍を率いて西門から先に入ったが、思同はまだそれを知らず、なお士を督して城に登っていた。まもなく厳衛指揮使尹暉が「西城の軍はすでに入城して賞を受けた、軍士は甲を解き仗を弃てよ」と呼ばわり、その声は天地を震わせた。日中には乱軍がみな集まり、涇州の張従賓・邠州の康福・河中の安彦威はみな逃げ去った。
  • 17日、思同は薬彦稠・萇従簡とともに長安に至ったが、劉遂雍が関を閉ざして入れなかったので、潼関に奔った。22日、潞王が昭応に至り、前鋒が思同を捕えて献じた。王は左右に「思同の計は事に反していたが、奉ずるところに心を尽くしたのもまた嘉すべきだ」と言い、趙守鈞を顧みて「思同はお前の故人だ、路で迎えて予が撫慰する意を伝えよ」と言った。
  • 思同が至ると、潞王は彼を責めて「賊臣が我が国家を傾け骨肉を残害したのは、予が弟の過ちではない。我が岐山で兵を起こしたのはただ一二の賊臣を誅するためだ。お前はどうして首鼠両端し様々に我を誤らせたのか、今日の罪は逃れられまい」と言った。思同は「臣は行間より起こり先朝の爵命を受け、旄を秉り鉞を仗じて重藩を歴任したが、ついに顕著な功をもって殊遇に応えることができなかった。臣は龍に攀じ鳳に附けば福が多く、衰えを扶け弱きを救えば禍が速いことを知らぬわけではない。ただ瞑目したのちに先帝にまみえる顔がないことを恐れる。釁鼓膏原(戦の犠牲となること)は虜囚の常の分である」と言った。潞王はこれに顔色を改め、徐に「しばらく休め」と言った。
  • 潞王は彼を用いようとしたが、楊思権の徒がその顔を見るのを恥じ、しばしば劉延朗に「思同を留めておいてはならない、士心を失うことを恐れる」と啓した。また潞王が長安に入ったとき、尹暉が思同の家財と諸妓女をすべて得ていたため、とりわけ思同を憎み、劉延朗とともにしきりにこれを言い立てた。王が酔っていた折、報告を待たずに思同とその子徳勝を殺してしまった。潞王は酔いから醒め思同の左右を召したところ、すでに誅されたと報告され、潞王は延朗に怒り、数日これを嗟惜した。
  • 漢の高祖が即位すると、詔で侍中を追贈された。

索自通――出自と後唐での立身

  • 索自通、字は得之。太原清源の人。父の継昭は自通の貴顕により国子監祭酒を授かり致仕した。自通は若くして騎射に長け、かつて山野の別荘で狩猟していたところ、荘宗が太原に鎮していた頃野でこれに遇い、姓名を尋ねて右番庁直軍使に補した。
  • のち狩猟に従い走る鹿を射当てたことから指揮使に転じ、周徳威を佐けて涿州で燕軍を攻め、燕将郭在鈞を捕えた。荘宗が魏博を定めるのに従い突騎指揮使に改まった。
  • 明宗が即位すると、随駕左右廂馬軍都指揮として付き従い、忻州刺史を授かった。一年余りで召還され再び禁兵を典り韶州刺史を領し、出でて大同軍節度使となった。累年ののち忠武に鎮を移し、京兆尹・西京留守に改まった。
  • 楊彦温が河中に拠り乱を起こすと、自通は師を率いてこれを討ち平らげ、河中節度使を授かった。まもなく鄜州から入り右龍武統軍となった。
  • 当初、自通は楊彦温を平らげたのち末帝が河中に鎮するのに代わったが、事にあたって周旋を失し、末帝は深くこれを恨んだ(『通鑑』によれば、自通は鎮に至り安重誨の意を承けて軍府の甲仗を数え上げ、これをもって末帝〔従珂〕が私に作ったものと上奏したが、王徳妃が中で保護していたことによりようやく免れたという)。
  • 末帝が即位すると、自通は憂え悸れて死を求め、清泰元年(934年)7月、朝退の折に洛水を渉り、みずから溺れて没した。子の万進は周の顕徳中、方鎮を歴任した。