舊五代史卷六十四 列傳十六 霍彦威・王晏球・戴思遠・朱漢賓・孔勍・劉玘・周知裕
本篇のうち霍彦威・王晏球・朱漢賓・周知裕の4名を扱う。霍彦威(字子重、?-928年、享年57)は梁の将霍存の養子となり、朱友珪誅殺の功で知られ、後唐では明宗の信任を得て節度使を歴任し忠武と諡された。王晏球(字瑩之、?-932年、享年60)は蔡賊に掠われた出自ながら梁・後唐の双方で武功を立て、王都の定州反乱を平定して天平軍節度使に至った。朱漢賓(字績臣、?-935年、享年64)は父の戦死を機に梁祖の帳下で育ち「落雁都」を率いた武将で、後唐でも安重誨と結んで栄達し晩年は洛陽で悠々自適に過ごした。周知裕(字好問)はもと燕の劉仁恭に仕え、梁で帰化軍を率いたのち後唐に帰順、明宗に厚遇されたが同僚に妬まれ狙撃されるなど波乱の生涯を送った。
年表(11件)
- 開平2年908年開封府押衙・右親從指揮使・検校司空から右龍驤軍使に進む
- 開平3年909年右監門衛将軍から左天武軍使に転じ、右監門上将軍に昇進する
- 乾化3年913年袁象先とともに朱友珪を誅する
- 天成3年冬928年任地で没す。享年57。太師晋国公を追贈され忠武と諡される
- 開平3年909年開封府押衙から直左耀武指揮使に充てられる
- 貞明2年4月19日916年汴州の李覇の乱を力戦して鎮圧し、単州刺史を授かる
- 天成2年927年王都の定州反乱を討ち、契丹の援軍も撃退して天平軍節度使を授かる
- 長興3年932年任地で没す。享年60。太尉を追贈される
- 同光4年正月926年入朝した朱友謙を宴席で難詰する
- 清泰2年6月935年致仕したのち64歳で没す
- 天祐4年907年劉守光の滄州平定に伴い張万進を佐け、景州刺史に任じられる
霍彦威――出自と後梁での立身
- 霍彦威、字は子重。洺州曲周の人。梁の将霍存が村落で拾い、14歳から征討に従わせた。存はその爽やかで抜きん出た資質を憐れみ、養って己が子とした(存には梁史に伝がある)。
- 彦威はまだ弱冠に達しないうちから梁祖に見込まれ、側近に抜擢され、しだいに軍職を昇り、たびたび戦功を立てた。かつて流れ矢に当たり片目を失った。
- 開平2年(908年)、開封府押衙・右親從指揮使・検校司空から右龍驤軍使に。3年(909年)、右監門衛将軍から左天武軍使に転じ、右監門上将軍に昇進。
- 乾化3年(913年)、袁象先とともに朱友珪を誅した。梁の末帝は洺州刺史に任じ、のち河陽留後に転じさせた。
- 乾化末、邠州留後の李保衡が李茂貞に背いて城を挙げて梁に帰したため、梁は彦威を邠州節度使とした。その年5月、茂貞が劉知俊に大軍を率いて攻めさせたが、彦威は固く守って一年余り落ちなかった。捕虜を得るたびすべて解き放ったので、秦の人々はその徳を慕い、以後侵掠しなくなった。
- のち滑州節度使に転じ、さらに鄆州に鎮を移して北面行営招討を兼ね、大軍を河上に統べたが、しばしば敗れ、陝州留後に降格された。
- 荘宗が汴に入ると、彦威は陝州から馳せて罪を請い、詔で赦された。ある日、荘宗が崇元殿で諸将を宴したとき、彦威は段凝・袁象先らとともに列席し、酒たけなわの折、荘宗は明宗に酒を挙げて「この度の客はみな我が以前の強敵であったが、いま同席するのは卿の前鋒の功のおかげだ」と言った。彦威らは陛下に伏して謝罪したが、荘宗は「卿と昔話をするだけで、恐れるにあたらぬ」と言い、御衣・器幣を賜って歓を尽くして宴を終えた。まもなく藩へ帰された。
- 翌年、明宗に従って潞州を平定し、徐州節度使を授かった。契丹が塞を犯すと、荘宗は明宗を北面招討使とし、彦威をその副とした。彦威は弁が立ち、よく明宗の意を体したので、とりわけ重んじられた。
- 趙太が刑州で叛くと、詔を奉じてこれを討ち平らげた。当時、趙在礼が魏州に拠り、明宗は鄴下で兵を会したが、大軍が夜に乱れ、明宗が窮地に陥った際、彦威は従って魏州に入った。皇甫暉らはとりわけ彦威を忌んで殺そうとしたが、彦威は機知に富んだ弁舌で説き、ついに免れた。外に出ると彦威の部下の兵はひとり全うされ、明宗を魏県まで護衛した。
- 明宗が北の常山へ趨こうとした際、彦威は安重誨とともに懇請して洛陽の朝廷へ赴かせ、これに従って洛陽に至った。彦威は真っ先に卿相を率いて至徳宮で勧進し、旬日の間、内外の機事はすべて彦威が決した。彦威は独断で段凝・温韜を捕らえ獄に下し法にかけようとしたが、安重誨は「温・段の罪悪は梁室に対するもので衆の知るところだが、いま主上が内難を平らげ万国の安寧を図ろうとしているのは、公のために仇を報いるためではない」と諭した。
- 天成初、鄆州節度使に任じられ、青州の王公儼が命に背いたため平盧軍節度使に改められて赴任し、公儼を捕えて斬った。翌年冬、汴州に朝見し、明宗の待遇は非常に厚く、官は検校太尉兼中書令に累進した。
- 天成3年(928年)冬、任地で没した。享年57。訃報の日、明宗はちょうど近郊に出ていたが、報を聞いて涙を掩い宮に帰り、朝を三日輟め、月末まで音楽を挙げなかった。太師晋国公を追贈され、諡は忠武。
- 子の承訓の弟彦珂は累って刺史を歴任した。皇朝(宋)の乾徳中、洛州に明宗廟を立てるにあたり、詔で彦威を廟庭に配饗させた。
王晏球――出自と後梁での立身
- 王晏球、字は瑩之。自ら洛都の人と称した。若くして乱に遭い蔡賊に掠われ、汴の人杜氏に養われて子とされたため、杜姓を冒した。晏球は若くして沈勇果断、卓越して群を抜いていた。
- 梁祖が汴に鎮していたころ、富家の子で材力ある者を選んで帳下に置き「㕔子都」と号した。晏球はこの選に入り梁祖の征伐に従い、至る所で功を立て、累進して㕔子都指揮使となった。
- 梁の開平3年(909年)、開封府押府から直左耀武指揮使に充てられ、右千牛衛将軍を授かり軍職はもとのままとした。朱友珪が簒位した際、懐州の龍驤守禦軍が乱を起こし京城に入ろうとして河陽まで至ったが、友珪は晏球に騎兵を出して迎え撃たせ、乱軍を撃ち軍使劉重遇を捕らえた功により左龍驤第一指揮使に転じた。
- 梁の末帝が即位すると晏球は龍驤四軍都指揮使となった。貞明2年(916年)4月19日夜、汴州の捉生都将李覇らが乱を起こし、火を放って掠奪し建国門を攻めた。末帝は楼に登り拒戦した。晏球は乱を聞くや先に龍驤の馬五百を得て鞠場に屯し、まもなく乱兵が竿に麻布を立て油を注いで建国楼を焼こうとし危急となったが、晏球は門越しに乱兵を窺い、甲冑を着けていないのを見て出撃し、力戦してまもなく賊は散り走った。末帝は騎兵が賊を討つのを見て「我が龍驤の兵ではないか」と呼びかけた。晏球は「乱を起こしたのは李覇の一都のみです。陛下はただ宮城をお守りください、明朝には臣が必ずこれを破ります」と奏し、果たして晏球は乱軍をことごとく討ち全営を族誅にし、功により単州刺史を授かった。
- まもなく河上の軍を領し行営馬都指揮兼諸軍将排陣使となった。荘宗が汴に入ると、晏球は騎軍を率いて援に赴き封丘に至ったところで末帝の崩御を聞き、直ちに甲を解いて荘宗に降った。
- 翌年、霍彦威とともに北で契丹を防ぎ、斉州防禦使・北面行営馬軍都指揮使を授かり、姓名を紹虔と賜った。鄴の乱で明宗が内難に赴いたとき、晏球はそのとき瓦橋におり、人を遣わして招かれ、明宗が汴に至ると晏球は騎兵を率いて従い京師に至った。平定の功により宋州節度使を授かり、上章して本姓名に戻すよう求めた。
- 天成2年(927年)、北面行営副招討使を授かり、兵を城に戍らせて満期となった。その年、王都が定州に拠って叛いた(『通鑑』によれば、王都が人を遣わして北面副招討使王晏球を説いたが晏球は従わず、都は金を晏球の帳下に贈って晏球を図らせようとしたが果たせなかった。癸巳、晏球は都の反状を上奏し、壬寅、晏球を北面招討使とし定州の行州事を権知させた)。契丹は托諾に騎兵千余を率いさせて援けに来させ、王都が定州に突入すると、晏球は軍を引いて曲陽に保った。王都・托諾が出撃して拒戦すると、晏球は軍士を督励し短兵で賊を撃たせ、「首を回す者は死」と戒めた。符彦卿は龍武左軍でその左を攻め、高行周は龍武右軍でその右を攻め、剣を奮い撾を振るって手に応じて首が落ち、賊軍は嘉山の下で大敗し、城門まで追撃した。まもなく契丹の首領特哩袞が精騎五千を率いて唐河に至ったが、このとき大雨で、晏球は出師して迎え撃ち、特哩袞は再び敗れ易州まで追われた。河水が急に増水し至る所で陥没し、二千騎を捕虜として帰った。
- 特哩袞は残兵を率いて北の幽州へ走り、趙徳鈞は牙将武従諫に騎兵で邀撃させ、徳鈞は諸要路を分かち扼したので、旬日のうちに特哩袞以下の酋長七百余人をことごとく捕えた。契丹はこうして弱まった。
- 晏球が城を囲んで久しく、帝が使を遣わして攻城を督促したが、晏球は「賊の塁は堅く峻しい。ただ三州の租税を食み黎民を撫恤し軍士を愛養すれば、彼らはおのずと魚のように潰えよう」と言い、帝はこれを是とした。晏球は将士と甘苦を共にし、得た禄賜・私財をすべて士に饗し、日々飲食を用意して将校と筵宴し軍士を礼をもって遇したので、軍中で敬服しない者はなかった。
- その年冬、賊を平らげたが、初戦から城が落ちるまで一人の士も殺さず、上下の歓心を得た。物議は将帥の器量ありとした。功により天平軍節度使を授かり、まもなく青州に鎮を移し、兼中書令を加えられた。
- 長興3年(932年)、任地で没した。享年60。太尉を追贈された。子の徹は懐州刺史に至った。
戴思遠――出自と後梁での立身
- 戴思遠、もと梁の旧将。初め梁祖に仕え、武幹をもって名を知られた。開平元年(907年)、右羽林統軍から検校司徒を加えられ、出でて晋州刺史となった。2年(908年)、右監門上将軍を授かり、まもなく華州防禦使に改められた。3年(909年)、左天武使から再び右羽林統軍を授かった。
- 郢王友珪が簒位すると洺州団練使を授かり、貞明中(915-921年頃)邢州留後となり本州節度使に遷った。燕将張万進が滄州留後劉継威を殺した際、城を挙げて梁に帰したので、末帝は思遠にこれを鎮させた。
- 荘宗が魏博を平定し兵を滄徳に臨ませると、思遠は鎮を棄てて河を渡り汴に帰り、累進して天平軍節度使兼北面招討使となり、兵を率いて荘宗と長らく対峙した。
- 荘宗が鎮州の張文礼を討った際、契丹が援けを求めたので荘宗はこれを追い契丹は幽州に至った。思遠はこれを聞き兵を総べて魏州を襲おうとし魏店に至ったところ、ちょうど明宗の騎軍が到着し、思遠は西に洹水を渉り成安を陥れたが、再び楊村砦に帰りその全軍を率いて徳勝北城を攻めた。城中は危急となり、符存審が昼夜城に乗ってこれを拒いだ。荘宗は薊から五日で馳せて魏州に至り、思遠はこれを聞いて囲みを解いた。
- 明宗が鄆州を襲い下すに及び、思遠は軍権を罷され宣化軍留後に降された。その年、荘宗が汴に入ると、思遠は鄧州から入朝し、再び鎮に帰るよう命じられた。
- 明宗が即位すると洋州節度使に移り、西川がともに叛いた際、思遠は董璋の故人であることを避嫌し、代えてもらうよう請い、入朝して宿衛した。年老いて太子少保を授かり致仕。清泰2年(935年)8月、家で没した。
朱漢賓――出自と後梁での立身
- 朱漢賓、字は績臣。亳州譙県の人。父の元礼は初め郡将であったが、梁太祖はその名を聞き軍校に抜擢し、龐師古に従って淮を渡り淮南で戦没した。
- 漢賓は若くして膂力があり、体躯は壮偉で胆気人に過ぎたので、梁祖は父が王事に死んだことから帳下に選び置き属籍に編入した。梁祖が兖鄆を攻めたとき、朱瑾は驍勇の者数百人を募り両頬に雁の刺青をして「雁子都」と称した。梁祖はこれを聞いて同じく数百人を選び別に一軍とし「落雁都」と号し、漢賓を軍使とした。当時「朱落雁」と呼ばれた。
- のち諸将とともに蔡賊を破って功があり、天福中、右羽林統軍を授かり、梁に入って天威軍使・左羽林統軍を歴任し、出でて磁州刺史・滑宋二州留後・亳曹二州刺史・安州節度使となった。
- 荘宗が洛陽に至ると漢賓は鎮から入朝し、のち鎮に戻るよう命じられた。翌年、左龍武統軍を授かった。荘宗はかつて漢賓の邸を訪れ、漢賓の妻が酒を進め食を上らせ家楽を奏じてもてなしたので、以後漢賓はいたく寵愛を受けた。
- 同光4年(926年)正月、冀王朱友謙が入朝し、明宗が洛陽にいて友謙の故人であることから邸に酒を置いた。荘宗の諸王が席にあり、友謙は永王存霸の上に坐った。酒たけなわ、漢賓は大杯を友謙に奉じ「公は名位が高いといえ皇弟の上に坐るのは宜しくない。僕と公はともに梁朝にあって宗盟の厚誼があるが、公が入朝してより三度単をやり取りして候問したのにまったく返報がない、あまりに卑しめすぎではないか」と言った。元行欽はこれが紛糾するのを恐れこれを解いてようやく止んだ。数日経たぬうちに友謙は一族誅殺された。
- 趙在礼が魏州に拠ると、元行欽が軍を率いて進討し、詔で漢賓に河南府事を権知させた。明宗は漢賓を右衛上将軍とし、安重誨がちょうど重んじられていたので、漢賓は密かに結託し婚姻を結んだ。
- 天成末、潞州節度使となり晋州に鎮を移した。重誨が誅されると漢賓は再び上将軍となり、翌年秋、漢賓は老いを告げ太子少保を授かり致仕。清泰2年(935年)6月、64歳で没した。
- 漢賓は若くして勇健で、晩年になっても飲食の量は人に過ぎ、その容貌は偉丈夫であった。およそ歴任した官で法を踰えたとは聞かない。梁の時、かつて魏州莘県に軍を統べて屯していたが、たまたま連師が郡を去ったとき、諸軍はみな利をもって留後になるよう誘い請うたが、漢賓はその言う者を斬って拒み従わなかったので、聞く者はこれを賞めた。
- 曹州にあった日、飛蝗が境を去り父老はこれを歌った。平陽に臨み旱に遇ったとき、みずから斎潔して竜子祠に祷ると、日を越えず雨が十分に降り、四方の田が大いに稔ったので、みな善政の致すところとした。
- 致仕して東の亳郡に還り、郷里の旧親戚で亡くなった者に塋兆(墓地)が未だ整っていない者には棺と葬具を給し、婚嫁が未だ終わっていない者には資幣を助けたので、恵みを受けた者は数百家にのぼり、郡人はこれを義とした。
- のち洛陽に還り、懐仁里に邸を構え、北は洛水に限り南は通衢に枕し、屋を層ねて棟を連ね長い木を交えて幹とし、笙歌羅綺で日々みずから娯しみ、その天寿を養い余生を保った。まさに近朝の知止を知る良将であった。
- 晋の高祖が即位すると太子少傅を追贈され、諡は貞恵。子は四人、長子の崇勲は官が左武衛将軍に至った。
孔勍――出自と後梁での立身
- 孔勍、字は鼎文。兖州の人、のち家を宿州に徙した。若くして騎射に便り軍中の小校となり、梁祖に仕えてしだいに郡守に至り、累進して斉州防禦使・唐鄧節度使となった。
- 梁の貞明中、王球が襄州に拠って叛いたとき、勍はこれを平らげ、これにより山南東道節度使を授かった。
- 荘宗が洛陽に至ると勍は鎮から来朝し、再び鎮に帰るよう命じられ、まもなく昭義節度使に移った。同光末年、監軍楊継源が都将とともに潞州を占拠しようと謀ったが事が漏れ、勍はこれを誅した。
- 明宗が即位した年、京師に還るよう詔され、河陽節度使を授かった。まもなく太子太師をもって致仕し、79歳で没した。太尉を追贈された。
劉玘――出自と後梁での立身
- 劉玘、汴州雍丘の人。代々宣武軍の牙校であった。玘は若くして壮節を負い、梁祖が汴州に鎮していたとき、自ら試すことを求めて隊長に補せられ、梁祖の征伐に従い至る所で功があり、牙将に遷った。
- 滑・徐・襄三州の都指揮使を歴任し、開平中、襄帥王班が帳下の者に害され、乱軍が玘を推して留後としたが、玘は表向きこれに従い、翌日賀を受ける衙庭の宴で伏兵をもって乱将をことごとく斬った。
- この功により復・亳二州刺史を歴任し、侍衛都将に徴され、出でて安州刺史となった。貞明中、晋州留後となった。荘宗が汴に至ると玘は来朝し、晋州にあること8年、日々上党・太原の兵と境上で交戦した。荘宗はこれを見て「劉侯恙なきか、わが晋陽の南鄙を控えて年を久しくしたが、早くに相見えなかった」と労い、玘は頓首して謝罪し、再び鎮に帰るよう命じられ、正式に節旄を授かって安州に鎮を移した。
- 明宗が即位すると鄧州節度使に遷り、天平末、史敬鎔がこれに代わり、玘は京師に還って没した。侍中を追贈された。子の師道は皇朝(宋)に仕え右賛善大夫に至って没した。
周知裕――出自と後梁での立身
- 周知裕、字は好問。幽州の人。若くして燕帥劉仁恭に仕え騎将となり、媯州刺史を表され、久しくして徳州刺史に移った。
- 天祐4年(907年)、劉守光が滄州を平定すると、その幼子継威を留後とし、大将張万進と知裕がこれを佐けた。継威は幼く万進の家で淫を行ったため、万進はこれを殺した。翌朝、万進は知裕を召してその故を告げ、みずから留後を称して知裕を景州刺史に署した。
- 万進が梁に款を納めるにおよび、知裕は先んじて汴に奔り、梁主は厚くこれを遇し、特に帰化軍を置いて知裕を指揮使とした。河朔から梁に帰る軍士はすべてその部下に隷属した。梁が荘宗と河で交戦する際、堅を摧き鋭を挫くのは帰化の一軍に頼ったが、その年月がほぼ一紀(12年)に及んでも、位は郡守に及ばなかった。
- 同光初、荘宗が汴に入ると、知裕は段凝の軍に従い封丘で甲を解いた。明宗は当時総管として郊外で降を受け、知裕を見てたいそう喜び、遠くから「周帰化よ、いま我が人となったこと、これほどの楽しみはない」と言い、諸子に兄として仕えるよう命じた。莊宗の憐愛は格別で、諸校はこれを妬んだ。壮士の唐従益なる者が狩猟にかこつけてこれを射たが、知裕は逃れて難を免れた。荘宗は従益を誅し、知裕を出して房州刺史とした。
- 魏王継岌が蜀を伐つとき前鋒騎将に召され、明宗が即位すると絳州刺史に移り、淄州刺史・宿州団練使に改められた。知裕は軍旅に老練で稼穡に勤め、およそ郡を治めるにあたり勧課はみな政声があり、朝廷はこれを喜んで安州留後に遷した。
- 淮上の風俗は病を悪む者が多く、父母に疾があっても親しく省みず、甚だしい者は他室に避け、時に問訊するにも食物を長竿の先に掲げてこれを委ねて去るありさまであった。知裕は心中これを悪み、郷里の頑狠な者を召して訶詰・教導し、父子骨肉の恩を知らしめたので、これにより弊風はしだいに改まった。
- 長興末、京師に入り右神武統軍となり、清泰初、官にて没した。太傅を追贈された。
史論
- 史臣曰く、真に才の良なる者は秦にあっても良く、虞にあっても良い。ゆえに彦威以下の者たちは、かつて梁の臣として節を虧かず、唐の祚に帰してもまた悪しき評判がなかった。松の貞節が四季を通じて変わらず、玉の粋が烈火を経ても損なわれないのと同じである。まして彦威が明宗を輔けたのは推戴の功があり、晏球が中山を伐ったのは戡定の功が著しい。数公と比べれば、なおいっそう優れているといえよう。