舊五代史卷五十一 宗室列傳三 存霸(永王)・存美(邕王)・存禮(薛王)・存渥(申王)・存乂(睦王)・存確(通王)・存紀(雅王)・繼岌(魏王)・繼湩・繼嵩・繼蟾・繼嶢・従審・従榮(秦王)・従璨・従益(許王)・重吉・重美(雍王)

莊宗の子である繼湩・繼嵩・繼蟾・繼嶢の4人。いずれも同光3年(925年)に光禄大夫・検校司徒を授けられたが、王に封じられないうちに莊宗が同光4年に敗死し、その後の行方は知れなくなった。

年表(1件)
  • 同光3年925年繼湩ら4人がそろって光禄大夫・検校司徒を授けられた

永王存霸

  • 武皇の子で莊宗の第二弟。同光3年(925年)に永王に封じられたが、莊宗敗死の際に軍卒に殺された。

邕王存美

  • 武皇の子で莊宗の第三弟。同光3年(925年)に封じられたが、莊宗敗死の際に行方が知れなくなった。

薛王存禮

  • 武皇の子。同光3年(925年)に封じられたが、莊宗敗死の際に行方が知れなくなった。

申王存渥

  • 莊宗の第四弟。同光3年(925年)に封じられたが、莊宗敗死の際に劉皇后とともに太原へ逃げる途中、部下に殺された。

睦王存乂

  • 莊宗の第五弟。同光3年(925年)に封じられ、鄜州刺史を歴任したが、郭崇韜の婿であったことから莊宗に殺された。

通王存確・雅王存紀

  • 存確は莊宗の第六弟、存紀は第七弟。ともに同光3年(925年)に封じられたが、莊宗敗死の際にいずれも霍彥威に殺された。

魏王繼岌

  • 莊宗の子。莊宗が魏州で即位すると繼岌は北都留守に任じられ、鎮州が北都となった後もそのまま留守を務めた(五代會要によれば同光3年〈925年〉9月23日に魏王に封じられた)。
  • 同光3年(925年)、蜀討伐に際して繼岌は都統、郭崇韜は招討使とされた。10月戊寅、鳳州に至ると武興軍節度使王承捷が鳳・興・文・扶の四州をもって降った。甲申、故鎮に至り康延孝が興州を攻略した。当時、蜀主王衍は親軍5万を率いて利州におり、歩騎3万を三泉に迎え撃たせたが、康延孝・李嚴が精鋭3千で急襲すると蜀軍は大敗し、首級5千を斬り残兵は潰走した。王衍は敗報を聞いて利州を棄て西川へ逃げ帰り、吉柏津の浮橋を断ち切って退いた。
  • 己丑、繼岌が興州に至ると、蜀の東川節度使宋光葆が梓潼・劍・龍・普等の州をもって降り、武定軍節度使王承肇が洋・蓬・壁の三州の符印をもって降り、興元節度使王宗威が梁・開・通・渠・麟等五州の符印を送って降った。階州の王承岳も符印を納れ、秦州節度使王承休は城を棄てて逃げた。辛丑、繼岌が利州を過ぎ、戊申、劍州に至り、乙酉、錦州に至ると、王衍は使者を遣わして降伏を乞う書状を上った。丁巳、成都に入城した。洛陽を出師してから蜀の平定に至るまで、わずか75日で、前代に例のない速さであった。
  • 帰路、渭南に至った際、莊宗が敗死し軍が潰散したことを聞き、繼岌は自ら縊死した。

繼湩・繼嵩・繼蟾・繼嶢

  • いずれも莊宗の子。同光3年(925年)に光祿大夫・檢校司徒を拝したが、王には封じられないうちに莊宗が敗死し、いずれも行方が知れなくなった。

従審

  • 明宗の長子。忠勇沈厚な性格で、堅陣を摧く戦いでは並ぶ者がなかった。莊宗に従って河上でしばしば戦功を立て、莊宗はこれを重んじ金槍指揮使に任じた。明宗が魏府で軍士に擁立を迫られた際、莊宗は従審に「そなたの父は国に大功があり忠孝の心も篤い、いま乱兵に脅されているのだろう、自ら赴いて朕の意を伝え、疑いを持たせぬように」と詔した。従審は途中で元行欽に捕らえられ、洛陽に連れ戻された。莊宗はその名を繼璟と改め自らの子としようとし、再び父の下へ遣ろうとしたが、従審は固く拒み「御前で死んで丹心を明かしたい」と願い、莊宗に従って汴州へ赴いた。明宗の旧知の多くが馬を馳せて去る中、周囲が自ら逃げるよう勧めても従審は最後まで動かず、ほどなく元行欽に殺された。天成初年(926年)、太保を追贈された。

秦王従榮

  • 明宗の第二子。明宗践祚の天成初年(926年)、鄴都留守・天雄軍節度使に任じられ、天成3年(928年)に北京留守・河東節度使に移り、天成4年(929年)に入朝して河南尹となった。ある日、明宗が安重誨に「従榮の側近が朕の旨を偽って儒生を近づけないよう言っていると聞いた、儒生は鈍いと嫌う言い分らしいが、驚くべきことだ、従榮がまだ幼く大藩に出た際に儒雅な者を選んで補佐させたのに、こんな姦計の言葉が出るとは朕の望みではない」と述べ、この言を発した者を糾問し処刑しようとしたが、重誨が「急に処刑すれば従者の扱いにも困る、厳しく戒めるだけにすべき」と諌めて止めた。
  • 従榮は詩作を好み、従事高輦らと唱和し、自ら当代随一の詩才と称し、千余首を「紫府集」と号した。長興年間(930-933年)、本官のまま天下兵馬大元帥を兼ね、嚴衞・捧聖の歩騎両指揮を秦府の衙兵とするよう請い、入朝の際には数百騎を従え、外出時には弓矢を携え市中を馳駆した。元帥の命を受けると、府の僚佐や四方の遊士に淮南(呉)へ檄文を試作させ、天下平定の志を示した。
  • 当初、親王に師傅を置く議があった際、明宗が近臣に諮ると、執政は従榮の権勢が既に盛んで逆らえず「王官は従榮に委ねるべき」と奏上し、刑部侍郎劉贊を王傅に、翰林學士崔棁を元帥府判官に任じるよう奏した。明宗は「学士は朕の詔令を代作する者、他に回すことはできぬ」と述べたため従榮は不満で、左右に「元帥の任を与えられながら僚佐の請いを阻まれるとは、詔の趣旨がわからない」と漏らし、改めて刑部侍郎任贊を奏請しこれが認められた。
  • 後に従榮は挙兵して宮室を犯し、敗死して庶人に落とされた。

従璨

  • 明宗の子の一人。剛直で客を好み財を軽んじ、度量が広かった。天成年間(926-930年)に右衞大將軍となったが、当時権勢を振るっていた安重誨に対しても屈しなかったため、重誨はこれを忌んだ。明宗が汴州に幸した際、従璨は大内皇城使として留守を務めたが、ある日、賓客を㑹節園に招いて酒宴を催し、酔って御榻に登る戯れをしたところ、安重誨がこれを奏上して誅殺を請うた。
  • 明宗の詔は「皇城使従璨は朕の汴州巡幸の際、大内の警護を任せたのに全く役目を怠り、朕の行従の園でしばしば歌舞の宴を恣にし、しかも厳法をもって平人を辱め喧しい評判を招いた、法を立てるからには身内であっても私しない、房州司房参軍に貶し命に従わせよ」というものだった。長興年間(930-933年)、安重誨が罪を得ると旧官に復され、太保を追贈された。

許王従益

  • 明宗の末子で宮嬪の生んだ子。明宗は王淑妃に育てさせ、左右に「この子だけは宮中で生まれたので特に可愛い」と語った。長興末年(933年頃)、許王に封じられた。晉高祖(石敬瑭)即位後、皇后(晉高祖の后)が従益の姉であった縁で宮中に養われた。晉の天福年間(936-944年)、二王後(前王朝の祭祀を継ぐ地位)とされ、郇國公に改封され食邑3千戸を与えられた。後に母とともに洛陽に帰った。
  • 開運末年(946年頃)、契丹主が汴州に至ると従益は曹州節度使を遥領させられ、再び許王に封じられ、王妃とともに西京(洛陽)に帰った。折しも契丹主が没し、汴州節度使蕭翰は北地への帰還を図ったが、中原に主がなければ軍民が大乱に陥ると案じ、悠然と帰ることもできなくなった。そこで契丹主の命と偽って人を遣わし従益を洛陽から迎え、南朝の軍国事を知らしめようとした。従益は王妃とともに徽陵に逃れて避けたが、使者が至り已むを得ず赴いた。従益は崇元殿で群官に見え、蕭翰は蕃首を率いて殿上に列拝し、群官は殿下で拝礼した。
  • 蕭翰は王松を左丞相、趙上交を右丞相、李式・翟光鄴を樞密使、王景崇を宣徽使に偽署し、他の官もそれぞれ配した。また北から来た燕将劉祚を権侍衞使とし在京巡檢に充てた。蕭翰が北へ帰るに際し従益は北郊で餞をした。漢高祖(劉知遠)が太原を発とうとすると、従益は高行周・武行德を召して拒もうとしたが、行周らは従わず、その事を漢高祖に奏上した。漢高祖は怒り、車駕が洛陽に至る頃、従益は王妃とともに私邸で賜死された。時に年17。人々はこれを哀れんだ。

重吉

  • 末帝の長子。控鶴都指揮使を務め、閔帝即位後は亳州團練使に出された。末帝の挙兵の際、閔帝により殺害された。清泰元年(934年)、太尉を追贈され、宋州に廟地を選んで建てるよう詔された。

雍王重美

  • 末帝の第二子。清泰3年(936年)に封じられた。晉の兵が入った際、末帝とともに自ら焼身して死んだ。

史論

史臣曰く――繼岌は幼い年齢で統帥の任に当たり、劍外(蜀)で功を成しながらほどなく渭水のほとりで死を求めた。これは運命が尽きたためであり、幼い者の咎ではない。従審は厚遇に感じて苟且の免れを求めず、君側で死んだのは忠と言うべきである。従榮は狂躁の謀により覆亡の禍を招き、大逆とするのは実情に近いが誣告というべき面もある。従璨は権臣に忌まれ、従益は強敵に脅されて、いずれも天寿を全うできなかったのは実に痛ましい。重美は洛陽の民が逃げ惑うのを聞いて禁令を止めさせ、母后が宮室を焼こうとするのを諌めて止めた。その身は紅蓮の炎に燼びたが、その言葉は青史に輝く。幼くしてこれほどであったのは賢と言うべきである。