舊五代史卷四十九 后妃列傳一 曹氏(貞簡皇后)・劉氏(太妃)・陳氏(魏國夫人)・劉氏(神閔敬皇后)・韓氏(淑妃)・伊氏(徳妃)・夏氏(昭懿皇后)・曹氏(和武顯皇后)・魏氏(宣憲皇后)・孔氏(哀皇后)・劉氏(末帝皇后)
貞簡皇后曹氏
- 武皇(李克用)の貞簡皇后曹氏は莊宗の生母。太原の人で、良家の子として武皇に嫁いだ。姿は麗しく謙虚で聡明なため、秦國夫人に重んじられ、「曹姫は並みの婦人ではない、厚く遇されよ」とまで評された。
- 武皇には寵妃が多く、乾寧初年(894年頃)に燕薊を平定して得た李匡儔の妻張氏は絶世の美貌で寵愛を独占したが、太后(曹氏)への恩顧だけは衰えなかった。武皇は性が厳急で左右を厳しく罰したが、太后が取りなすとたちまち機嫌を直した。莊宗誕生時、その体貌が並外れていたのを武皇が喜び、太后はいっそう寵愛された。
- 武皇薨去後、李克寧・李存顥が謀反を企てた際、太后は監軍張承業を召し、莊宗を指して「先人がこの子を託した、もし外に謀反の企みがあれば我々母子を助けてほしい」と語り、承業はこれにより存顥・克寧を誅して内難を鎮めた。
- 莊宗は音律を好み俳優と戯れたため、太后がしばしば戒めた。天祐7年(910年)、鎮定(趙・王氏)が援を求めた際、太后は「私は老い先短い、先人の事業を守れれば十分、なぜ苦労してまで晨昏の別れを重ねるのか」と諭したが、莊宗は「先王の遺志で仇讐を滅ぼす好機を逃せない」と応え出陣、太后は汾橋で見送り悲しみに堪えなかった。莊宗は趙魏平定後、鄴城に駐屯しつつも年に幾度も帰省し孝を尽くした。
- 太后は当初晉國夫人に封じられ、莊宗即位後に宰臣盧損を遣わして皇太后の尊号を上った。その年、河南を平定し洛陽に西幸した際、皇弟存渥・皇子繼岌を太原に遣わして太后を迎え、莊宗自らも懷州まで出迎え長壽宮に迎え入れた。
- 太后は劉太妃と親しかったが、太妃が病に伏すと悲しみ、「太妃とは兄弟のような恩がある、しばらく晉陽へ見舞いに行きたい」と述べたが、莊宗は「暑さで山路が険しい、存渥らに見舞わせればよい」と止めた。ところが太妃の訃報が届くと太后は慟哭を重ね、そのまま体調を崩し長壽宮で崩じた。同光3年(925年)10月、貞簡皇太后と諡され壽安陵に葬られた。
太妃劉氏
- 武皇の正室。伝は原本で欠佚しているが、「北夢瑣言」によれば軍中に常に随行し軍機に益するところが多かった。汴州上源驛の変で武皇が激怒し攻城を図った際、「国のために賊を討つのに私怨で城を攻めれば理はこちらにあらず、引き返して朝廷に訴えるべき」と諫めて兵を退かせた。天復年間(901-904年)、周徳威が汴軍に敗れ晉王が雲州への撤退を諮ろうとした際も、李存信の献策を「彼は牧羊児あがりで成敗を知らぬ」と斥け、王行瑜の轍を踏むなと戒めて留まらせ、ほどなく士気が回復した。
- 五代會要によれば同光元年(923年)4月に皇太妃に册立された。荘宗が曹氏を皇太后とし嫡母劉氏を皇太妃とした際、太妃は太后に謝意を伝え、太后が恥じ入ると「私は我が子(荘宗)が国を保てればそれでよい」と応じた。莊宗が梁を滅ぼし洛陽に入り太后を長壽宮に迎えた一方、太妃は独り晉陽に留まり、同光3年(925年)5月に薨じた。
魏國夫人陳氏
- 襄州の人で、もとは昭宗の宮嬪。乾寧2年(895年)、武皇が詔を受けて王行瑜を討ち渭北に駐軍した際、昭宗が朱書の御札とともに陳氏ら内妓4人を武皇に下賜した。陳氏は書をよくし才貌を備え、武皇に深く寵重された。光化年間(898-901年)以後、世事多難の中、武皇が独居する際にも召見を許されたのは陳氏のみで、「阿媎」と呼ばれるほど親しまれた。
- 武皇が危篤に陥った際、陳氏は「王に仕えて掃除の役を14年務めた、王がもし不幸に遭われれば身を殉じることはできぬまでも髪を落として尼となり、王のために一藏の仏経を読み平生に報いたい」と泣いて誓い、武皇も涙した。武皇薨去後、陳氏は実際に落髪し法名智願を名乗り、洛陽の仏寺に居した。莊宗は建法大師の号を賜い、天成年間(926-930年)に明宗が寺を訪れ圓惠大師と改賜、晉の天福年間(936-944年)に太原で卒し、光國大師と追諡された。塔は惠寂と名付けられた。
神閔敬皇后劉氏
- 莊宗の皇后。伝は原本で欠佚しているが、「北夢瑣言」によれば魏州成安の出で家柄は貧しく、太祖(武皇)が魏州を攻めて成安を取った際に5、6歳で捕らえられ、晉陽宮で太后の侍者となり笙を学んだ。成人すると容色も伎芸も抜群で、太后が莊宗に韓國夫人の侍者として賜り、後に皇子繼岌を産んで寵が日に日に厚くなった。
- のち成安の劉叟なる者が鄴宮を訪ねて「夫人の父」と名乗り出た。内臣劉建豐がこれを認め、かつて別れた父だとされたが、劉氏は正室と門地を競う中で貧家出身を恥じ、「私が郷里を去った時、父はすでに乱兵の中で死んだ、これは田舎者の詐欺だ」と莊宗に訴え、宮門で笞刑に処させた。しかし実は后はまさにこの劉叟の長女であった。莊宗が俳優を好み、宮中の暇日に薬篋を背負い皇子繼岌を伴わせ、后の父劉叟が医卜を業としたことにかけて戯れた際、昼寝中の后が「劉衙推が娘を訪ねてきた」と告げられ大いに怒り繼岌を笞ったという逸話も伝わる。
- 太后が劉氏を礼を欠くとして忌避し、韓夫人(韓淑妃)を正室として推す声もあったが、大臣が皇后册立を望む莊宗の意を汲んで劉氏を皇后に立てるよう請うた。世評は、劉氏が寒賤の出でありながら財貨を好み、鄴宮にいた頃から人に商いをさせ薪や野菜まで自らの名で売らせ、皇后となってからも貢納の多くを写経や施しに回し、他には施さなかったとする。宮廷の兵が困窮し妻子が餓死する事態にも、宰相が内庫の放出を求めると、劉氏は自分の粧具・銀盆や皇子滿喜らを差し出して売らせようとしただけで、結局は乱により国が滅び一族も滅びたと評され、褒姒・妲己になぞらえられる。莊宗自身が俳優を演じ「李天下」と称して優人と入り乱れて戯れ、優人に打たれることさえあったといい、後世の戒めとされる。
- 劉后は金・犀帯を袋に詰め、太原に寺を建てて尼になろうと図り、道中で皇弟存渥と密通して同衾したが、明宗がこれを聞き自殺させた。歐陽脩「新五代史」は裨将袁建豐が后を得て晉宮に納れたとし、「北夢瑣言」は内臣劉建豐の話とし、伝聞により異同があるとされる。
淑妃韓氏
- 莊宗の正室。伝は原本で欠佚しているが、「五代會要」によれば同光2年(924年)12月、宰臣豆盧革・韋説を册使として応天門より輅車鹵簿・鼓吹の先導で出発し、永福門を経て降車、右銀臺門より淑妃宮に入り宮中で册を受け、文武百官が列を成して賀を称えたという。
徳妃伊氏
- 莊宗の次室。伝は原本で欠佚しているが、「北夢瑣言」によれば莊宗の嫡夫人韓氏がのちに淑妃となり、伊氏が徳妃となったとし、また夏氏という夫人がのちに東丹王(李贊華、耶律倍)に嫁いだとも伝える。東丹王は残酷で、侍婢がわずかな過ちでも刃物や火であぶって傷つけたため、夏氏は離婚を求めて河陽節度使夏魯奇の家に帰り、後に尼となったという。歐陽脩「新五代史」家人傳によれば明宗即位後、莊宗の宮人虢國夫人夏氏を夏魯奇家に帰し、後に李贊華に嫁いだとあり、「北夢瑣言」とやや異なる。「遼史」は夏氏を莊宗皇后とするが誤りと疑われる。
- また「五代會要」によれば莊宗朝の内職には、昭儀侯氏(汧國夫人)・昭媛白氏(沂國夫人)・出使美宣鄧氏(魏國夫人)・御正楚真張氏(涼國夫人)・司簿徳美周氏(宋國夫人)・侍真吳氏(延陵郡夫人)・懿才王氏(太原郡夫人)・咸一韓氏(昌黎郡夫人)・瑤芳張氏(清河郡夫人)・懿徳王氏(瑯琊郡夫人)・宣一馬氏(扶風郡夫人)が、いずれも同光2年(924年)11月の勅で封じられたと記す。
昭懿皇后夏氏
- 明宗の皇后。秦王從榮・閔帝を生んだ。同光初年(923年頃)に病で崩じ、明宗即位後に晉國夫人へ追封された。長興年間(930-933年)、明宗は秦王・宋王の位望が高まったことを思い、故晉國夫人夏氏は仁徳を推し宗親と睦み内助の功があったが、中興の盛世を見ることなく、子が王となり自身は后位の栄を得られなかったことを惜しみ、追册して皇后とし懿号を定めるよう制を下した。有司が「昭懿」の諡を上った。
和武顯皇后曹氏
- 伝は原本で欠佚しているが、「五代會要」によれば天成3年(928年)正月に淑妃に册立され、長興元年(930年)正月14日に皇后に册立、應順元年(934年)正月に皇太后となり、清泰3年(936年)閏11月に末帝とともに後樓で崩じた。晉高祖(石敬瑭)は人を遣ってその葬送を護らせ、天福5年(940年)正月28日に和武顯皇后と追册された。
宣憲皇后魏氏
- 伝は原本で欠佚しているが、「通鑑考異」引く「唐廢帝實録」によれば宣憲皇后魏氏は鎮州平山の人で、中和末年(880年代)に明宗が山東に転戦し平山に留戍した際に得たという。明宗はかつて裨将であった頃、性格が闊達で生計を治めることができず、曹后(和武顯皇后)もまた蓄財に疎く、生計の多くは魏氏に頼っていたとされる。
- 「五代會要」によれば魏氏は初め魯國太夫人に封じられ、清泰2年(935年)2月、中書門下が漢の昭帝が母を雲陽に祔し、魏の明帝が甄館に外家を祀った先例を引き、玄宗の母昭成皇后竇氏・代宗の母章敬太后吳氏の例に倣い、魯國夫人(魏氏)を宣憲皇太后と追諡するよう奏上した。陵寝についても議論があり、漢朝の故事に倣い別廟ではなく寝所の傍らに寝祠を立てることとされた。歐陽脩「新五代史」は陵寝を建てる議が定まる前に石敬瑭の反乱が起き、結局京師河南府の東に寝宮を立てたと記す。
- なお「五代會要」所載の明宗朝内職によれば、徳妃王氏(天成3年正月册立、長興2年4月淑妃に進号、應順元年正月13日に太妃に册立、周の廣順元年〈951年〉4月に賢妃と追諡)のほか、昭儀王氏(齊國夫人)・昭容葛氏(周國夫人)・昭媛劉氏(趙國夫人)・孫氏(楚國夫人)・御正張氏(曹國夫人)・司寶郭氏(魏國夫人)・司贊于氏(鄭國夫人)・尚服王氏(衞國夫人)・司記崔氏(蔡國夫人)・司膳翟氏(滕國夫人)・司醖吳氏(莒國夫人)・婕妤高氏(渤海郡夫人)・美人沈氏(太原郡夫人)・順御朱氏(吳郡夫人)・司飾聊氏(潁川郡夫人)・司衣劉氏(彭城郡夫人)・司藥孟氏(成陽郡夫人)・梳篦張氏(清河郡夫人)・司服王氏(太原郡夫人)・櫛篦傅氏(潁川郡夫人)・知客張氏(尚書の号を賜る)・故江氏(濟陽郡夫人に追封)が、いずれも長興3年(932年)9月の勅で名号を定められたと記す。内人李氏(隴西縣君)・崔氏(清河縣君)・李氏(成紀縣君)・田氏(成陽縣君)・白氏(南陽縣君)も長興4年(933年)2月の勅による。前代の内職には封君の礼が無く、これが一時の新制であった。
哀皇后孔氏
- 閔帝の皇后。伝は原本で欠佚しているが、「通鑑」によれば孔循が密かに人を遣って王徳妃と結び、自らの娘を從厚(閔帝)の妃に納れることを求め、徳妃がこれを帝に請うて許され、庚寅の日に皇子從厚が孔循の娘を妃に納れたという。「五代會要」によれば初め魯國夫人に封じられ、應順元年(934年)4月に末帝によって害され、晉の天福5年(940年)正月28日に哀皇后と追諡された。
末帝劉皇后
- 應州の人。天成年間(926-930年)に沛國夫人に封じられ、清泰初年(934年頃)、百官が三度上表して中宮の冊立を請い、皇后に立てられた。性格は強く激しく、末帝も憚るほどであった。弟の劉延皓が鳳翔の牙校から1年ほどの間に樞密使を経て鄴都留守に至ったのも、后の内政の力によるものであった。
- 延皓が張令昭に追われた際、后がこれを強く抑えたため、罷免にとどまり厳罰を免れた。晉高祖(石敬瑭)が洛陽に入った際、后は末帝とともに火に投じて自害した。
史論
史臣曰く――三代(夏・商・周)の興亡は帝王によるだけでなく妃后にも関わる。夏は塗山の女によって興り妺喜によって滅び、商は簡狄によって興り妲己によって滅び、周は文母(太姒)によって興り褒氏(褒姒)によって滅んだ。貞簡皇太后(曹氏)の人となりは前代の賢后に及ばぬまでも、その懿範に欠けるところはない。しかし劉后(神閔敬皇后)は牝雞の晨(女が国政を乱すこと)により皇業を傾けた点で三代の亡国と軌を一にする。それ以外の妃后には、賢を進め君を輔けるほどの徳を語るには及ばない、という。