舊五代史卷二十 列傳十 謝瞳・司馬鄴・劉捍・王敬蕘・高劭・馬嗣勲・張存敬・冦彥卿
本篇のうち対象とするのは劉捍・張存敬・冦彥卿の3将。いずれも太祖に重用された腹心で、交渉・征戦の両面で活躍した。劉捍(開封の人、?–909年頃)は交渉や使者としての手腕に長け高位に至ったが、劉知俊の反乱に巻き込まれ捕らえられ李茂貞に殺害された。張存敬(譙郡の人、?–901年)は剛直な武将で河北・河中で数々の勝利を収めたが、河中討伐の凱旋途上に病没した。冦彥卿(大梁の人、?–918年)は太祖の意をよく汲む腹心として重用され、羅紹威の牙軍粛清を助けるなど功を立て、鄧州節度使にまで至った。
年表(11件)
- 中和4年夏884年朱珍の淄州募兵を監督し博昌で精兵三万を得る
- 光化3年6月900年太祖の鎮州・定州北伐に従い王鎔・王処直を降す
- 天祐3年正月906年宋州刺史を授かる
- 開平4年910年劉知俊の乱に捕らえられ李茂貞に殺害された後、太傅を追贈される
- 大順3年892年霍存を佐けて宿州を収める功で検校兵部尚書を加えられる
- 光化3年秋9月900年滹沱河を渡り鎮州を攻め和議を結ばせる
- 天復元年春901年河中を討伐し王珂を降し護国軍留後となるが赴任途上で病没する
- 乾化3年913年太傅を追贈される
- 天復年間(901-)904年昭宗を鳳翔に迎える戦で諸道馬歩軍都排陣使を務める
- 貞明初年(頃)915年鄧州節度使に任じられる
- 貞明4年918年鎮で没す、享年57
謝瞳
- 字は子明。福州の人。唐の咸通末年(873年頃)進士を挙げ長安に三年留まったが及第せず、広明初年(880年)黄巣が長安を陥落させると太祖に身を投じた。太祖の門下に入ってからは一日たりとも側を離れず、太祖が同州に拠ると要職に置かれた。その年秋、太祖が河中と交戦して二度も不利になり、たびたび巣に上奏して援兵を請うたが、偽の右軍都尉孟楷はこれを抑えて取り次がなかった。瞳は太祖に沢福(成功への望み)の意があることを察し、進言して「黄家(黄巣)は数十万の軍をもって唐朝が久しく平和で戦に慣れていない隙をついて両京(長安・洛陽)を陥落させましたが、偽の帝号を僭称して以来、人材の用い方を誤っています。今、将軍は勇猛で三軍に冠絶し外で力戦しているのに、孟楷はもっぱら情報を塞ぎ奏章を通させません。下は無能な者に制せられ、独断の明もない有様です。滅亡の兆しは必至でしょう。しかも土徳(唐の徳運)はまだ尽きておらず、外兵は四方から集まり漕運も日々回復に向かっています。将軍はよくよくお考えください」と述べた。太祖は「私の意はもとより決まっている、お前がそう言うなら何を疑うことがあろうか」と応じた。
- 翌日、太祖は策を定め偽の監軍使を誅し全軍を挙げて河中の王重栄に帰順した。重栄は瞳を検校屯田員外郎に表し緋衣を賜り、蜀へ表を奉じさせた。唐の僖宗は大いに喜び召し入れて労い恩賜を厚くし、この功で朝散大夫・太子率更令を授けられ紫衣を賜り陵州刺史となった。郡を治めること一年、検校右散騎常侍に改められ通刺史(正式な刺史)となり、任にあること四考(四年)で政績があった。秋、罷免されて蜀の行在に赴いた際、太祖は使者を送って迎えさせ、龍紀2年(890年)東京に至ると労いはますます厚く、邸宅と別荘各一区、銭千緡を賜り、亳州団練使兼太清宮副使に表され検校工部尚書を加えられた。
- この年冬、太祖の淮南征伐が郡を通過した際、幕府への出仕を求め宣義軍節度副使・両使留後に表された。瞳は滑州に13年在任し、管内の戸数は約五万増え兵も数千人増強された。官は大中大夫・検校右僕射に累進し、滑州で没した。開平初年(907年頃)、司徒を追贈された。
司馬鄴
- 字は表仁。先祖は河内温の人。祖父徳璋は唐に仕え杞王傅、父諲は左武衛大将軍であった。鄴は蔭位により出仕し学識に富み、官は大官に累進した。唐の天復初年、韓建に用いられ同州節度留後となった。昭宗が鳳翔に幸した際、太祖が兵を率いて関に入り前鋒が左馮翊に至ると、鄴は印鑰を持って道の左に出迎えた。太祖が兵で華州を包囲した際、鄴を城内に入らせ招諭させると、韓建は果たして降伏した。
- 大軍が岐(鳳翔)の下にあった際、鄴は昭宗への奏事に遣わされ再び岐へ行き来し、また金州へ使いして帥馮行襲を説き堅く帰順させた。その後、宣武・天平などの軍の従事を歴任し、開平元年(907年)右武衛上将軍を拝命した。同3年、両浙への使者に立ったが、当時淮南への路が通じず、駅を使う者は万里の遠回りを強いられ、陸路は荊州・襄州、潭州・桂州を経て嶺(五嶺)を越え番禺から海に出て閩中を経て杭州・越州に至った。復命に際しては海路を用意し東海から登州・莱州に至ったが、揚州近辺の海路には賊が多く、船で通過する者は岸沿いを進めず遠く沖に出るしかなく、これを「陽に入る」と呼び、しばしば損害を受けた。鄴は海上で一年余り漂流し耽羅国(済州島)まで流されたが、乗員全員が海に沈んだという。後に司徒を追贈する詔が下された。
劉捍
- 開封の人。父行仙は宣武軍の大将であった。捍は若くして牙職に就いた。太祖が初めて夷門(汴州)に鎮した際、捍の聡明さから典客の副に抜擢された。唐の中和4年(884年)夏、太祖は朱珍を淄州刺史に任じ淄州・青州の間で兵を集めさせ、捍にその軍を監督させた。道中、大敵に遭遇したがことごとく破り、博昌に入って精兵三万を得て帰った。4月、大軍を合わせて蔡の賊秦宗賢数万を汴州の西で破った。
- 文徳元年(888年)11月、蔡の将申叢が宗権の足を折って太祖に款を通じた際、捍にその経緯を上奏させ、兼御史大夫を加えられた。光化3年(900年)6月、太祖が鎮州・定州を北伐し常山に至ると、王鎔は危懼して太祖に款を送った。捍を璧門に入らせて詔諭を伝えさせたが、当時両軍はまだ陣を整えておらず守門の武器が千重にも巡らされていた中、捍は馬を馳せて入りついにその命を伝え終えた。さらに軍を移して中山を攻め懐徳駅に至ると定州の兵五万を大破し、王処直は降伏を乞うた。捍は再び単騎で州に入り安撫して戻った。
- 太祖が岐(鳳翔)の下で昭宗を迎えると、捍は親軍指揮に任じられた。天復3年(903年)正月一日、宋文通(李茂貞)が客将郭啓竒を太祖のもとへ使わせると、捍が復命に立った。昭宗はその到着を聞くとすぐに召見し東方の軍情を尋ね、錦服・銀鞍勒馬を賜った。翌日、光禄大夫・検校司空・登州刺史を授けられた。昭宗の京師還御に際し常州刺史に改められ「迎鑾毅勇功臣」の号を賜った。4月、太祖が王師範を青州で討つと、左右長直都指揮使に改められた。
- 天祐3年(906年)正月、宋州刺史を授けられ、4月検校司徒を加えられた。太祖の受禅後、左龍虎統軍兼元従親軍馬歩都虞候を授けられた。上党で戦が続き太祖が自ら巡撫に赴くと、捍は御営使となった。大軍が昂車に至ると斥候が蕃戎が沢州に迫っていると報告し、捍に千人の兵を率いて赴かせると、并の軍は退いた。車駕が京師に還ると捍は侍衛親軍都指揮使を授けられた。晋の人々が晋州を侵すと陝州への行幸に従い、戻ると検校太保を加えられた。
- 河中への行幸に従った際、詔で王重師を行在へ召し戻すと、捍は雍州節度観察留後に任じられたが、わずか一ヶ月後、劉知俊が同州に拠って反乱を起こし、密かに人を送って厚利で捍の将校を誘い、捍はついに部下に捕らえられ知俊のもとへ送られた。知俊は捍を縛って鳳翔へ連れて行き、李茂貞に殺された。開平4年(910年)、太傅を追贈され、末帝の即位後さらに太尉を追贈された。捍は交渉と応対に長け迎接がうまく、司賓局から出発して征討のたびに必ずこれに従い、決戦や争鋒の功績はなかったものの、命を奉じて奔走し命令を布達し勤勉にその職を果たし、これにより高位に至った。
王敬蕘
- 潁州汝陰の人。代々郡の武吏を務めた。唐の乾符初年、敬蕘は本州の都知兵馬使となり、中和初年、賊の難がますます激しくなり郡守が臆病で自ら守りきれなくなると、敬蕘はこれに代わって郡を監理し、まもなく正式に刺史を拝命し検校右散騎常侍を加えられた。当時、州境は飢饉で大盗が相次いで至り、黄巣の数十万の軍が州の南に陣を構えたが、敬蕘は力を尽くして防ぎ十日余りで退けた。まもなく秦宗権の軍がさらに激しく攻め立て包囲したが、皆力尽きて去った。蔡の賊は再び将刁君務に一万の兵を率いさせ迫ったが、敬蕘は陣を布いてこれに当たり自ら先頭に立って突撃し多くの敵を殺し、これにより郡の城壁を全うし遠近が帰順した。
- 淮南の勢力が不服従の折、太祖がしばしば軍を南に渡らせその道が州境を通ったが、敬蕘は心を尽くして供給し、太祖はこれを大いに嘉した。乾寧2年(895年)、沿淮上下都指揮使に任じられた。同4年冬、龐師古が清口で敗れると敗兵の逃げ帰る者が多く、道は潁州を経由した。当時、大雪が続き軍士は凍え飢えていたが、敬蕘は淮河から薪を運ばせ道々にかがり火を焚き、郡内では粥や餅を用意して待ち受け、多くの命を救った。この功で武寧軍節度・徐宿観察留後に表され、数ヶ月後に正式に武寧軍節度使を拝命した。天復2年(902年)右龍武統軍として朝廷に入り、天祐3年(906年)左衛上将軍に転じた。開平元年(907年)8月、病により致仕し、まもなく私邸で没した。
- 敬蕘は体格が魁偉で沈勇果断、力に優れ戦上手であった。用いる槍矢はいずれも純鉄で鍛えられ、槍の重さは三十余斤にも及び、これで敵陣を突き崩し勝利を収めた。太祖の旧臣ではなかったが遠くから誠意を尽くし、境を守り兵を合わせて興隆の運を助けたことは称賛に値する。
高劭
- 字は子将。淮南節度使高駢の従子である。父泰は黔中観察使であった。唐の僖宗が敵を避けて蜀にあった頃、駢は淮南に鎮して都統・諸道塩鉄使を兼ね、兵と賦税を掌握していたため、朝廷はこれを優遇した。劭はこれにより幸運にも早くから官に就き、14歳で華州刺史を遥領した。光啓年間(885-888年)、駢の命により晋公王鐸を鄭州で脅迫していたところ、まもなく州は蔡の賊に陥落した。
- 劭は賊に捕らえられ人を送って見張らせ、四門に「高大夫を出すな」と命じられていた。劭は見張りが少し怠るのを見計らい、乞食に扮して崩れた城壁を通り過ぎ、死者の衣服を盗んで身につけ着替え、他の子供を抱いて東の郊門を出た。門番は乞食と思い止めなかった。しだいに遠ざかると抱えていた子を捨て急いで逃げ、中牟に至りついに汴州に達した。太祖は客礼をもって彼を遇し、まもなく亳州団練副使・知州事に表した。数年後、宣武軍節度判官に招かれ、幕下にあっては気概と正直さで自ら任じていた。その後、鄭州の事を監理し、さらに徐州留後を権知した。唐の昭宗が鳳翔へ幸した際、太祖の迎奉がまだ実現していなかったところ、劭に疑わしい謀があったため、華州へ赴かせ丞相府でこの事を議させたが、高陵まで来たところで盗賊に殺害された。
馬嗣勲
- 濠州鍾離県の人。代々軍吏を務めた。嗣勲は弁舌に優れ武芸を習得していた。初め州の客将となった。唐の景福元年(892年)3月、太祖は寿州刺史江儒が蔡州で反乱を起こしたため、鎮使李立に濠州の刺史張遂を攻めさせた際、嗣勲に州印と戸籍を持たせて太祖のもとへ帰させた。乾寧2年(895年)3月、楊行密が再び濠州を攻めると、張遂は嗣勲を送って太祖に援軍を求めたが、まもなく郡は陥落し嗣勲は帰る所を失い、太祖のもとで元従押牙・副典客に任じられ重用された。
- 光化元年(898年)3月、太祖は嗣勲を光州へ送り刺史劉存を説いて淮の賊から離れ国(梁)に帰属させ、また李彦威(朱友恭)に従って黄州・武昌県を回復し刺史瞿章を捕らえた。まもなく再び光州に使いして幣馬を劉存に賜り、折しも淮の賊が光州を急襲したため、存と嗣勲は兵を率いて大いに戦いこれを敗走させた。また蜀への使いにも立ち、帰る際には軍資の援助を多く得た。
- 天復年間、太祖が昭宗を岐(鳳翔)の下に迎えた際、軍が華州の西門に至ると嗣勲は韓建に謁見させられ、即座にともに出迎えた。羅紹威が牙軍を殺そうとした際、使者を太祖に送り外援を求めると、折しも安陽公主が魏で没していたため、太祖は嗣勲に長直の官千人を率いさせ武器を行李に隠して肩に担ぎ魏へ入らせ、公主の葬儀の祭りに来たと言い触らした。牙軍はこれに気づかなかった。天祐3年(906年)正月16日夜、嗣勲は紹威の親軍とともに牙軍を攻め、夜明けまでにことごとく討ち滅ぼした。嗣勲は重傷を負い、十日ほどで没した。開平年間、太保を追贈された。
張存敬
- 譙郡の人。性格は剛直で胆勇があり、危機に際しても畏れることがなかった。唐の中和年間、太祖に従い汴州に赴き、その節を曲げない性格から親しまれ右騎都将に任じられた。巣・蔡討伐に従い百戦を経て、危機の中でしばしば奇略を発揮し、これにより度々優れた功績を立てた。光啓年間、李罕之が晋の軍と合流して張宗奭を盟津で包囲すると、太祖は丁会・葛従周・存敬をともに派遣して救援させた。存敬は騎兵を率いて先頭で敵に当たり諸軍がこれを翼として続くと、敵の騎兵は大敗し河橋の包囲は解かれた。
- 大順3年(892年)、諸軍都虞候となり霍存を佐けて大軍を率い宿州を収める功により検校兵部尚書を加えられた。太祖の徐州・兖州東征では存敬はしばしば俘虜・斬首の功を挙げ、命を受けるたびに機に応じて対応し、矢石の及ぶ所には必ず自ら先頭に立った。太祖は特にこれを重んじ行営都指揮使・検校右僕射に任じた。乾寧3年(896年)武寧軍留後・行潁州刺史となった。光化2年(899年)夏4月、幽州・滄州が魏郡を侵すと、再び存敬を都指揮使に任じた。
- 同3年、葛従周とともに大軍を統率し浮陽を攻め、数十の柵を築いて劉守文を数ヶ月にわたり包囲した。当時、幽州の劉仁恭が兵を挙げて援軍を送ると、存敬は密かに軍を出して乾寧軍南の老鴉堤で迎撃し、この日燕の人々を大敗させ五万級を斬り馬慎交以下百余人を生け捕り馬万匹を得た。その年秋9月、軍を率いて鎮州を収めようとし、存敬は衆を率いて滹沱河を渡り軍を鼓舞して進むと、鎮州の遊撃兵数千に遭遇しこれを追撃し鎮州の壅門(城門)まで直入し鞍馬・牛駝を万単位で収めた。翌日、鎮州の人々は人質を送って和議を結んだ。
- まもなく宋州刺史に任じられ、一年余りで善政を挙げ、再び衆を率いて薊門を討ち、数旬のうちに瀛州・莫州・祁州・景州の四州を連取し捕虜・斬首は数え切れなかった。懐徳駅から中山の兵と交戦し数十里にわたって屍を重ね、中山は城壁を開いて降伏を請うた。
- 天復元年(901年)春、太祖は河中節度使王珂が太原と婚姻を結び恃んで驕慢な態度を取っていることから、存敬に大軍を統率させ討伐させた。即日絳州を収め刺史陶建釗を捕らえ、晋州刺史張漢瑜を降伏させ二郡を平定した。進んで河中を包囲すると王珂は降伏を請い、太祖はこれを嘉して存敬を護国軍留後とし、まもなく検校司空を加えた。まもなく宋州刺史に転じることとなり赴任の途上で病を得て十日余り後、河中で没した。太祖はこれを聞いて長く痛惜した。開平初年、太保を追贈され、乾化3年(913年)さらに太傅を追贈された。子の仁愿は晋の天福年間、大理に至った。
冦彥卿
- 字は俊臣。大梁の人。祖父琯、父裔はともに宣武軍の牙校であった。太祖が汴州に鎮すると、彦卿は将家の子として左右に抜擢され、二十歳前で通賛官に選ばれた。太祖が元帥になると元帥府押牙・四鎮通賛官行首兼右長直都指揮使に補され、官は検校司徒に累進し洺州刺史を領した。羅紹威が牙軍を殺そうとして太祖に使者を送った際、太祖は彦卿を魏へ使わせ密かに紹威と謀らせ、事はついに成った。これは彦卿の力によるところが大きい。
- 彦卿は身長八尺、鼻が高く顔は方形で声は鐘のようであり、騎射に優れ書史を好み、また太祖の意をよく察したため、行うことはすべて意にかなった。太祖は常に「敬翔・劉捍・冦彦卿は私のために生まれたようなものだ」と語り、その重んじられぶりはこの通りであった。太祖の乗馬に「一丈烏」という黒馬があり、これを彦卿に賜ったこともある。
- 天復年間、太祖が昭宗を鳳翔に迎えた際、しばしば岐の軍と対陣し、彦卿は諸道馬歩軍都排陣使として自ら甲冑をまとい賜った烏馬に乗って陣前を駆け巡り、太祖はこれを見て「まさに神王だ」と評した。昭宗の京師還御に際し「迎鑾毅勇功臣」の号を賜り邢州刺史に改められ、まもなく亳州団練使に遷った。太祖の受禅後、華州節度使・検校太保となり、一年余りで朝廷に入り左金吾衛大将軍・街使を務めた。
- ある日、天津橋を通過中、老人が誤って先導の道に踏み込んだため排除したところ橋から落ちて死んだ。この件で御史に弾劾され、太祖はやむを得ず彼を左衛中郎将に降格させたが、数ヶ月せずに相州防禦使に任じ前と同じく行営諸軍排陣使を兼ねさせた。まもなく河陽節度使を授けられ検校太傅を加えられた。太祖が弑逆された際、彦卿はその旧恩を追想して御容(肖像画)を描いて祭り、客と対談するたびに先朝の旧事に話が及ぶと涙を流したという。
- 末帝の即位後、遥領興元節度使・東南面行営都招討使として淮南の賊を防いだ。まもなく右金吾衛上将軍に改められ、貞明初年(915年頃)鄧州節度使に任じられた。折しも淮南の人々が安陸を包囲すると、彦卿は詔を奉じて兵を率い包囲を解き淮南の賊を大破して戻った。同4年(918年)、鎮で没した。享年57。侍中を追贈する詔が下された。彦卿は才幹に優れ明敏で主君に仕えるのが巧みであったが、寵を恃んで威を振るい猜疑心が強く殺戮を好んだため、顕著な功名を立てながらも識者からは軽んじられた。
史論
- 史臣曰く、存敬は太鼓を掲げるような(先陣を率いる)勲功があり、彦卿は龍の鱗に攀じる(明主に巡り会う)好機を得た。ともに藩鎮の首長となったのも、もっともなことであろう。