鄆州での自立と滅亡
- 朱瑄は宋州下邑の人。父の朱慶は塩の密売で身を立てた豪族で、法に触れて処刑された。瑄は父の罪に連座して笞刑に処されたが赦され、王敬武の軍に入って小校となった。
- 唐の中和二年(882年)、青州に赴援した縁で軍功を重ね、鄆州の帥・薛崇の死後の内紛では、部将崔君預を討った曹全晸を助けて功を立て、濮州刺史・鄆州馬歩軍都将に任じられた。
- 光啓初年(885年頃)、魏博の韓允中が鄆州を攻めて曹全晸を殺すと、瑄は籠城を守り抜き、三軍から留後に推された。乱の平定後、朝廷は瑄を天平軍節度使とし、累進して検校太尉・同平章事に至った。
- 太祖(朱全忠)が大梁に拠って間もない頃、秦宗権に包囲されて苦境にあったが、瑄は同族のよしみで兄事し、弟の朱瑾とともに援軍を送って蔡の賊軍を大破し、囲みを解いた。太祖はこれに厚礼で報いた。
- しかし太祖軍の精強さを見た瑄・瑾は密かにこれを歎み、境上に金帛を懸けて太祖軍の脱走兵を誘ったため、太祖は牒を送って詰問し、瑄の返答が不遜であったことから両者の間に隙が生じた。
- 太祖が時溥を攻めた際、瑄は時溥に与して太祖を難詰する書を送り、和睦を説いたが太祖の怒りは解けなかった。徐州平定後、太祖は矛先を鄆州に向け、景福元年(892年)冬から乾寧三年(896年)にかけて数十戦を重ねた。
- 瑄は太原の李克用に救援を求め、李承嗣・史儼らが来援したが、羅弘信に阻まれて援軍は絶たれ、瑄・瑾はついに敗れた。乾寧四年(897年)正月、龐師古が鄆州を陥落させると、瑄は中都まで逃れて民家に潜んだが捕らえられ、妻の栄氏とともに汴橋のもとで斬られた。