舊五代史卷十二 宗室列傳二 全昱・友諒・友能・友誨・友寧・友倫・友裕・友文・友珪・友璋・友雍・友徽(建王)・友徽(康王)

廣王全昱

  • 太祖朱温の長兄。太祖の受禅(907年、後梁建国)後に王に封じられた。乾化元年(911年)に睢陽へ帰る際、朝廷は内臣に命じて都の外で見送らせ、全昱は都外で一泊して偃師に至った。その子・衡王友諒に随行を命じて帰らせた。貞明2年(916年)に没した。

友諒

  • 全昱の子。初め衡王に封じられ、のち廣王の位を継いで諸藩鎮を歴任したが、不法な行いが多かった。弟の友能の謀反に連座して廃され、京師に幽閉された。後唐が汴州に入った際、友能・友誨と同日に殺された。

友能

  • 全昱の子。惠王に封じられ、のち宋州・滑州の留後となった。後に謀反により廃された。

友誨

  • 全昱の子。邵王に封じられ、乾化元年(911年)検校兵部尚書として控鶴指揮使を兼ねた。友能の謀反に連座して廃され、後に唐軍に殺された。

安王友寧

  • 字は安仁。若くして詩礼を学び、長じては兵法を好み、颯爽とした気風があった。太祖が汴州に鎮する頃から出征のたびに驍勇の兵を率い、秦宗権を捕らえた際には太祖の命で檻車に乗せた宗権を長安へ護送した。功により検校右散騎常侍・行右監門衛将軍を加えられ、以後も軍功を重ねて検校司空・龔柳二州刺史に至った。
  • 太祖が岐(鳳翔)に駐軍した際、友寧は部隊を率いて梁苑(開封)へ戻り守備に当たった。ちょうど青州の帥・王師範が乱を起こし、関東の兵が皆岐隴にいる隙を突こうとしていたが、密告によりこれを察知した友寧は即座に一万余の兵を率いて東征し、包囲された齊州を救援して青州軍を大敗させ、馬四千頭を奪い数千級を斬った。昭宗の長安還御に功があったとして嶺南西道節度使・特進検校司徒に任じられ、「迎鑾毅勇功臣」の号を賜った。
  • その後も青州の残賊を破り、兖州の攻囲では博昌県攻略が長引いて太祖の怒りを買い、督戦の使者が送られると、友寧は捕虜の民衆十余万人に木石を背負わせ牛馬を牽かせて城南に土山を築かせた。冤枉の泣き声が数十里に響いたと伝わり、まもなく城は陥落して住民は皆殺しにされ、清河の流れが止まるほどであったという。石楼で清(青州軍)と交戦した際、味方が小勢で後退する中、友寧は険しい丘から騎馬で駆けつけたが、乗馬が躓いて倒れ、陣中で没した。戦いの前日、大きな白蛇が陣幕に蟠っているのを見て友寧は不吉に感じていたといい、果たしてその通りになった。

密王友倫

  • 幼くして聡明で文才があり、長じては騎射を好み、経綸の才もあった。太祖はしばしば「わが家の千里の駒」と評した。19歳で宣武軍の校となり、景福初年(892年頃)元従騎軍都将、次いで右武衛将軍を兼ね、次第に軍事を任された。太祖の兖州・鄆州親征では糧秣の徴集にあたり、幽州・滄州の軍が内黄に至ると、先鋒として夜に黄河を渡って敵を撃ち、馬千匹を奪い多くを捕斬した。
  • 八議関では晋の軍一万余騎に遭遇したが、疑兵を多く配して鼓を鳴らし全軍を鼓舞し、数十里にわたって追撃した。李罕之が上党を率いて帰順した際、晋軍に包囲されると、太祖は友倫に歩騎数万を委ねて険を越えて救援させ、晋軍を大破した。唐朝は検校司空・守滕州刺史を加えた。天復元年(901年)、岐隴での戦の隙を突いて晋が北辺を侵すと、友倫は徒兵三万を率いて礬山へ赴き、晋軍を退かせた。氏叔琮らとともにこれを追撃して太原の城壁近くまで迫り、牛馬万余を得た。天復2年(902年)には鳳翔へ西進し、幾度も交戦した。同3年、昭宗の長安帰還に際し寧遠軍節度使・検校司徒を授けられ「迎鑾毅勇功臣」の号を賜った。
  • 太祖が東帰した後、友倫は京師の宿衛に残されたが、一年余りのち宴席で撃鞠(ポロ)を行った際に落馬して没した。昭宗は一日視朝を停め、太傅を追贈し、碭山県に帰葬させた。開平初年(907-911年)、有司の上奏により「東漢の光武帝の兄・劉伯升も創業に与り、西周も叔虞を親任してその封邑を受けた」という故事に倣い、既に没していた兄の存(朗王)、友寧(安王)、友倫(密王)に追封が行われた。

郴王友裕

  • 字は端夫。太祖の長子。幼くして弓馬に優れ、太祖の征伐に従い、性格は寛厚で士心を得た。唐の中和年間(881-885年)、太祖が并州の帥・李克用とともに華州を攻めた際、賊将黄鄴が籠城して守りを固め、城壁に登って克用を罵る者がいたが騎兵の矢が当たらなかったところ、友裕がこれを射て仕留め、大軍が喜び叫ぶ声が山谷に響いた。克用は良弓百矢を友裕に贈った。
  • 太祖が汴州に鎮した際、宣武軍牙校に挙げられ、蔡州の賊(秦宗権)平定の功により検校左僕射を加えられ、牙内馬歩都指揮使となった。景福元年(892年)、大軍を率いて徐州を討った際、朱瑾が兖州・鄆州の兵を率いて徐州の外援となり彭門の南・石仏山下に陣を布いたが、友裕はこれを撃って多くを斬獲し、瑾は残兵を率いて夜に逃走した。しかし都虞候の朱友恭が「友裕は兵を按じて賊を追わなかった」と誣告する書を太祖に送ったため、太祖は激怒して驛伝で符を発し、副将の龐師古に友裕に代わって帥とし、事の弾劾を命じた。使者が誤ってその書を友裕本人に届けてしまったため、友裕は恐れて数騎で山中に逃れ、廣王(全昱、伯父)のいる輝州へ赴いて冤罪を訴えた。元貞皇后がこれを聞いて自ら束身して汴州に帰るよう取り計らい、力を尽くして救いを求めたため、太祖はこれを許し、許州の権知とした。
  • 乾寧2年(895年)検校司空を加えられ、武寧軍節度留後となった。同4年、太祖が東平を攻略すると平々軍留後に転じ検校司徒を加えられた。光啓元年は年代が前後するが、再び許州を領し、天復初年(901年頃)奉国軍節度留後となり、太祖が河中を兼鎮すると友裕は護留後となった。まもなく華州節度使・検校太保・興德尹に遷った。天祐元年(904年)7月には行営都統を兼ね、歩騎数万を率いて邠州・岐州を経略したが、10月に病を得て将校らが軍を退くことを謀り、まもなく梨園で没した。東京(開封)に帰葬され、開平初年に郴王を追贈され、乾化3年(913年)にさらに太師を追贈された。

博王友文

  • 本姓は康、名は勤。太祖の養子。太祖の受禅後、王に封じられ、東京留守となったが、酒を好み政務を怠りがちだった。友珪の弑逆に際して太祖とともに殺された。末帝の即位後、官爵をすべて回復された。

友珪

  • 幼名は遥喜。母の姓は伝わらず、もとは亳州の営妓であった。唐の光啓年間(885-888年)、太祖が亳州に転戦した折に召して侍寝させ、一月余りで捨てて去ろうとしたところ、女は妊娠を告げた。当時、元貞皇后(張氏)が寵愛され太祖も憚る存在であったため、太祖はこの女を大梁へ連れ帰らず亳州に留めて別宅に住まわせた。予定の時期に女が男児を産んだと知らせると、太祖は喜び「遥喜」と名付けた。後に汴州へ迎え入れられた。
  • 太祖の受禅後、郢王に封じられ、開平4年(910年)10月に検校司徒・兖左右控鶴都指揮使兼営四蕃将軍となった。乾化元年(911年)諸軍都虞侯を兼ねた。乾化2年(912年)、太祖を弑逆して帝位を簒奪したが、均王(友貞、のちの末帝)が兵を挙げてこれを討ち、友珪は自殺した。死後、庶人に追廃された。

友璋

  • 太祖の第5子。受禅後、福王に封じられた。

友雍

  • 太祖の第6子。受禅後、賀王に封じられた。

友徽(建王)

  • 太祖の第7子。受禅後、建王に封じられた。

友徽(康王)

  • 太祖の第8子。末帝の即位後、康王に封じられたが、謀反により誅された。