舊唐書卷一百九十九下 列傳第一百四十九下 靺鞨

靺鞨は粛慎の後裔で、部族ごとに高麗・突厥に附属した。突地稽・謹行父子は唐に帰順し将軍として活躍、のち黒水靺鞨は開元年間に唐の羈縻支配下(黒水軍)に組み込まれた。

年表(6件)

靺鞨

  • 靺鞨は粛慎の地で後魏では勿吉と呼ばれ、長安東北6000余里。東は海、西は突厥、南は高麗、北は室韋に接する。数十部に分かれ各部に酋帥があり、高麗または突厥に附属する部もある。黒水靺鞨は最北にあり最も勇猛で近隣の脅威であった。編髪・兇悍の風、老人より壮者を尊ぶ。屋宇を持たず山水沿いに穴居し土を覆う(中国の墳墓のような形)。夏は水草を追い冬は穴居。文字なく角弓楛矢を用い、豚を飼い(富者は数百頭)肉と皮を利用。死者は地に埋め馬を殉葬に供する。
  • 酋帥突地稽は隋末に千余家を率い営州に内属、煬帝から金紫光禄大夫・遼西太守。武徳初年に朝貢し燕州を設置され総管に。劉黒闥の乱に際し太宗に帰順を申し出て戦功により蓍国公に封じられ、幽州昌平城へ移住。高開道・突厥の幽州侵攻を撃退した。
  • 貞観初年、右衛将軍・李姓を賜与され没した。子謹行は偉丈夫で武力に優れ、麟徳中に営州都督を歴任、数千の家僮を擁し財力で夷人を圧した。積石道経略大使として、吐蕃論欽陵の10万侵攻に対し伏兵の計で退けた。
  • 上元3年(676年)青海で吐蕃数万を破り、鎮軍大将軍・右衛大将軍・燕国公。永淳元年(682年)卒し幽州都督を追贈、乾陵に陪葬。以後毎年のように酋長自ら、または使者による朝貢が続いた。
  • 白山部は元来高麗に附属し、平壌陥落後に多く中国に入った。汨咄・安居・骨室などの部も高麗滅亡後に散り消息を絶った。残余は渤海の編戸となった。黒水部のみ全盛を保ち16部に分かれ南北で呼び分けられた。
  • 開元13年(725年)安東都護薛泰の要請で黒水靺鞨に黒水軍を設置、最大部落を黒水府とし首領を都督、諸部刺史を隷属させ、中国の長史が監督した。16年(728年)都督に李姓・献誠の名を賜与、雲麾将軍兼黒水経略使とし幽州都督を押使として以後朝貢が絶えなかった。

渤海靺鞨

  • 渤海靺鞨の大祚栄は高麗の別種。高麗滅亡後、営州に移住していた祚栄は万歳通天年間(696年頃)契丹李尽忠の反乱に乗じ靺鞨乞四比羽と共に東奔・自立。則天は李楷固に討伐させ乞四比羽を破ったが、祚栄は高麗・靺鞨の兵で王師を破り、東牟山に築城して桂婁の故地を保った。
  • 靺鞨の民・高麗の遺民が次第に帰順し、聖暦中(698-700年頃)祚栄は自立して振国王を称し突厥と通じた。営州東2000里、南は新羅に接し、越熹靺鞨から黒水靺鞨まで方2000里、編戸10余万・勝兵数万。風俗は高麗・契丹に似て文字・書記を有した。
  • 中宗即位後、張行岌の招慰、祚栄の子の入侍を経て、睿宗先天2年(713年)崔訢が祚栄を左驍衛員外大将軍・渤海郡王・忽汗州都督に冊拝、以後毎年朝貢。
  • 開元7年(719年)祚栄死去、玄宗弔祭、嫡子大武芸(桂婁郡王)が左驍衛大将軍・渤海郡王・忽汗州都督を襲封。14年(726年)黒水靺鞨が唐に直接通じたことに武芸は「腹背から攻められる」と警戒し、弟大門芸に討伐を命じたが、門芸は「唐への叛は自滅を招く」と諫言し従わず唐に亡命(左驍衛将軍)。武芸は殺害を求めたが玄宗は密かに門芸を安西へ逃し武芸を欺いた(漏洩により鴻臚少卿李道邃・源復が左遷)。
  • 20年(732年)武芸は張文休に登州刺史韋俊を海賊で襲わせ、唐は門芸を幽州へ、金思蘭を新羅へ派遣し南北から反撃したが厳寒で失敗。武芸は刺客を洛陽天津橋で放ち門芸暗殺を図るも失敗(河南府が刺客を捕殺)。
  • 25年(737年)武芸病没、子欽茂が継承(渤海郡王・左驍衛大将軍・忽汗州都督)。
  • 大暦2年~10年(767-775年)頃はしばしば朝貢、12年正月日本国の舞女11人と方物を献上、建中3年・貞元7年も朝貢、貞元10年正月来朝の王子大清允を右衛将軍同正とした。
  • 貞元11年(795年)大嵩璘を渤海郡王に冊立、14年銀青光禄大夫・検校司空・渤海国王に進封。父欽茂は開元中に郡王・左金吾大将軍を継ぎ天宝中に特進・太子詹事賓客を加えられ宝応元年に国王、大暦中に司空・太尉を加えられていた。嵩璘は襲位時に郡王・将軍のみだったため上表し再冊命された。
  • 貞元21年(805年)朝貢、順宗は嵩璘に金紫光禄大夫・検校司空を加授。元和元年(806年)検校太尉加授。4年(809年)嵩璘の子元瑜が銀青光禄大夫・検校秘書監・忽汗州都督・渤海国王。5年・7年も朝貢。8年正月元瑜の弟言義(権知国務)が銀青光禄大夫・検校秘書監・都督・渤海国王。
  • 13年(818年)大仁秀(権知国務)が銀青光禄大夫・検校秘書監・都督・渤海国王。15年閏正月金紫光禄大夫・検校司空加授。長慶2年・4年も朝貢(大睿ら宿衛請願)、宝暦中も貢を続け、太和元年・4年も朝貢。
  • 太和5年(831年)大仁秀卒、大彝震(権知国務)が銀青光禄大夫・検校秘書監・都督・渤海国王。6年王子大明俊来朝、7年正月同中書右平章事高宝英が謝冊命に来て留学生3人を随行させた(先の留学生3人は業成り帰国を許された)。開成後も朝貢が絶えなかった。